第六十四話 支える者たちは、倒れない
黒煙は、近づくほど太くなった。
修司を乗せた軽馬車が、南の街道を駆ける。
その後ろから、ラウエン村の馬と荷車が続いていた。
水樽を積んだ荷車。
濡らした毛布と砂袋。
弓を背負ったリーゼと、火を消すために集まった村人たち。
だが、速さはそろわない。
軽馬車に合わせれば、重い水樽を積んだ荷車の車輪が壊れる。
水樽に合わせれば、休息所へ着く前に六台の物資が燃える。
「修司殿、私たちだけ先へ行きます」
クラウディアが言った。
「ああ。だが、後ろを置いていくわけじゃない」
修司は街道図を膝へ広げた。
右手は使えない。
左手の指で、道を三つに分ける。
「軽馬車と騎兵は、そのまま街道を行く。リーゼも来てくれ」
「最初から、そのつもりよ」
「水樽の荷車は、水車道から西の畑道へ入る。さっき通ったとき、休息所の裏へ続く道が見えた。正面に敵が集まっていても、裏からなら火元へ近づける」
「道幅は足りるの?」
「さっき俺たちが通った。荷車一台ずつなら行ける。ただし、速度は上げないでくれ」
赤い帽子の男が、隣の荷車から声を返す。
「任せろ! 水は一滴もこぼさず運んでやる!」
「少しはこぼしていい! 車輪を壊さないことを優先してくれ!」
「分かった!」
本当に分かったのか、不安の残る返事だった。
「残る人はラウエン村へ戻る。治療所を空け、怪我人を受け入れる準備を。誰が、どの道を通ったか記録してほしい」
修司の言葉を、村人たちが互いへ伝えていく。
隊列が、動きながら三つに分かれた。
誰も置き去りにしないために、全員が同じ場所へ行く必要はない。
それぞれが、自分にできる場所へ向かえばいい。
「修司殿」
クラウディアが、修司の顔を覗き込む。
「頭痛は」
「残ってる。でも、技能は使っていない」
「今から使うつもりですね」
「必要ならな」
「止めても?」
「使う」
修司が答えると、クラウディアは小さく息を吐いた。
「では、倒れる前に言ってください」
「倒れるつもりはない」
「それは聞いていません」
返す言葉に迷っている間に、前方の黒煙が一段濃くなった。
火が増えた。
「飛ばしてくれ!」
御者が鞭を鳴らす。
軽馬車は朝の街道を、さらに速く駆けた。
◇
修司たちがラウエン村へ向かってから、半刻ほど後。
休息所へ、第四版の偽布告が持ち込まれた。
「王都からの緊急命令だ! その荷をすべて焼け!」
白い鳥の印をつけた男が、赤い文字の紙を掲げた。
その背後には、近くの村や街道を行き来していた人々が集まっている。
農夫。
旅商人。
荷運び人。
手にしているのは剣ではない。
鍬や棒、水桶。
だが、その顔には恐怖があった。
「腐敗魔力が付いた荷を、グランフェルへ運ばせるな!」
「病が広がる前に燃やせ!」
休息所の前に並ぶ六台の荷馬車へ、怒声が飛ぶ。
護衛たちは剣を抜いていた。
だが、相手の大半は武装した敵ではない。
紙を信じ、自分の家族を守ろうとして集まった人々だった。
「剣を向けないでください!」
ミレイユが護衛たちの前へ出た。
「しかし、このままでは荷を奪われます!」
「剣を見せれば、あの人たちは自分たちが正しいと思います。馬車を横に向けてください。荷を囲うのではなく、人の流れを二つに分けます」
修司が王都の広場で使った方法だった。
人を壁で止めるのではない。
進める道と、戻れる道を見せる。
「三台目を右へ。四台目は左へ。間を一台分、空けてください!」
護衛と御者が動く。
六台の馬車が、休息所の前で緩い半円を作った。
その中央に、ミレイユは大きな紙を三枚掲げた。
赤い手の印。
青い水滴。
黄色い矢印。
昨夜、訂正文へ描いたばかりの記号だった。
「赤い手より先へ、勝手に入らないでください! 荷を確認したい方は、黄色い矢印から一人ずつ! 気分が悪い方は青い水滴の場所へ!」
「そんな紙に騙されるか!」
群衆の中から声が上がった。
「タカセ・シュウジ本人が、荷を焼けと書いているんだぞ!」
ミレイユは、自分たちが作った訂正文を高く掲げた。
「こちらにも、タカセさんの名前があります」
「なら、どちらが本物だ!」
「今は分かりません」
群衆がざわめいた。
護衛の一人まで、驚いた顔でミレイユを見る。
「分からないから、確かめます」
ミレイユの声は震えていなかった。
「この六台は、王都を出る前に積み荷を記録しています。箱の数、封をした者、途中で開けた場所。皆さんの目の前で一つずつ照合します」
「その記録も偽物かもしれない!」
「そう思う方の名前も記録します。どの箱を選んだか、誰が開けたか、何を見たか。あとから別の人が同じことを確かめられるように、全部残します」
群衆の勢いが、わずかに鈍った。
正しいと叫ぶのではない。
疑うことを禁じるのでもない。
確かめるための手順を見せる。
修司がいれば、きっとそうする。
いや。
修司がいなくても、自分たちでそうしなければならない。
「一番手前の箱を開けます」
ミレイユが御者へ合図した。
そのときだった。
群衆の後ろから、油壺が飛んできた。
壺は一台目の馬車へ当たり、砕けた。
荷台の布へ黒い油が広がる。
「火をつけろ!」
白い鳥の男が叫んだ。
群衆の中に混じっていた数人が、同時に火打ち石を取り出す。
「あの人たちです!」
ミレイユが指した。
「布告を持ってきた人たちだけが、最初から油と火を持っています!」
近くにいた農夫が、白い鳥の男を見る。
「荷が危険なら、なぜ俺たちまで近くへ集めた?」
「黙れ! 火で浄めるんだ!」
男は火のついた棒を、馬車へ投げた。
炎が荷台を走る。
人々の悲鳴が上がった。
◇
「一台目は捨てます!」
エヴァが叫んだ。
「隣の馬車を離して! 馬を先に外してください!」
火のついた馬車へ、護衛が水をかける。
だが、布に染みた油が水を弾いた。
炎は消えず、荷台の前方へ広がっていく。
「薬箱は?」
「半分は移しました! でも、包帯と冬用の毛布が残っています!」
ミレイユが答える。
「取りに戻ってはいけません!」
「でも――」
「人より先に運ぶ荷物はありません!」
エヴァは、休息所から負傷者を運び出していた。
意識を取り戻したオットーは、二人の護衛に支えられている。
歩かせてはいない。
毛布ごと簡易担架へ移し、石造りの物資庫へ運ぶ。
「オットーさん、聞こえますか」
「……聞こえる」
「揺れますが、運びます。気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「俺より……荷を……」
「あなたも守るべき一人です」
エヴァは言い切った。
その背後で、二台目の馬車へ矢が刺さった。
火矢だった。
「伏せて!」
護衛が盾を上げる。
街道脇の林から、矢が続けて飛んでくる。
人々は、もう荷を焼けとは叫んでいなかった。
自分たちまで射られたことに気づき、地面へ伏せている。
「俺たちは利用されたのか!」
「白い鳥の連中はどこだ!」
だが、誰が敵か分からない。
油壺を持つ者は外套を脱ぎ、群衆へ紛れ込んでいた。
ミレイユは、人の顔ではなく手を見た。
火を消そうとする人。
家族を探す人。
地面へ伏せる人。
その中で、三人だけが火ではなく、馬車の車輪を見ている。
「右側の三人!」
ミレイユが護衛へ叫ぶ。
「車輪の留め具を狙っています!」
一人の男が、車軸の楔へ短剣を差し込んだ。
護衛が体当たりし、男を馬車から引き離す。
別の男は逃げた。
三人目が、小さな笛を吹く。
甲高い音が、休息所の屋根を越えた。
風が変わった。
北から南へ吹いていた風が、横から馬車へ叩きつける。
一台目の炎が、大きく傾いた。
隣の馬車へ届く。
休息所の屋根の上に、深紅の外套が立っていた。
白い羽根の仮面。
女が片手を上げ、緑色の魔法陣を開いている。
「人が残ってる!」
群衆の中から声が上がる。
「風を止めろ!」
女は笑った。
「魔力に汚染された荷を焼いているだけよ」
「嘘をつけ!」
農夫が石を投げる。
石は届く前に風で逸れた。
「嘘かどうかは、次の紙が決めるわ」
女が指を鳴らした。
屋根の向こうから、大量の紙が舞い上がる。
一枚一枚の端に、小さな火がついていた。
燃える紙が風に乗り、六台の馬車へ降り注ぐ。
◇
「馬車を止めろ!」
休息所が見えた瞬間、修司は叫んだ。
御者が手綱を引く。
目の前には、火と煙と人の群れがあった。
一台目の馬車は、すでに半分が炎に包まれている。
二台目へ火が移りかけていた。
空からは、燃える紙が降っている。
「ミレイユ!」
修司が身を乗り出す。
「ここです!」
声は、石造りの物資庫の前から返った。
ミレイユが大きな青い紙を振っている。
その隣では、エヴァが負傷者を一か所へ集めていた。
赤い手。
青い水滴。
黄色い矢印。
三つの印が、人の流れを分けている。
修司がいない間も、二人は立っていた。
自分たちで考え、選び、周りを動かしていた。
胸の奥に、安堵と熱いものが同時に広がる。
「修司殿!」
クラウディアが屋根を指した。
白い羽根の仮面の女が、こちらを見ている。
「あの女です」
「分かってる」
今、追えば届くかもしれない。
だが、燃える紙が三台目の荷台へ落ちた。
女は、修司がどちらを選ぶか知っている。
だからこそ、修司は迷わなかった。
「クラウディア。女を追わなくていい」
「ですが――」
「先に火を止める。逃げ道だけ見てくれ」
修司は馬車から降り、周囲を見た。
炎。
風。
六台の馬車。
散らばった人々。
そして、街道の西から近づいてくる水樽の荷車。
間に合った。
「リーゼ!」
「見えてる!」
リーゼが馬上から弓を引く。
「風術を使っている手を狙います。殺さなくていい!」
「注文が細かいのよ!」
矢が放たれる。
白い仮面の女が右手を払った。
風が矢を押し流す。
だが、その一瞬、燃える紙を運ぶ風が弱まった。
「今だ! 荷台の幌を全部下ろせ!」
修司の声に、護衛と御者が動く。
燃えていない四台の幌を外し、地面へ落とす。
「濡れた毛布を、二人で一枚! 馬車へ掛けるんじゃない! 棒へ張って、風上へ立てろ!」
ラウエン村から来た人々が、長い棒を二本ずつ持つ。
濡れた毛布を間へ結ぶ。
即席の壁が、一枚。
二枚。
三枚。
風上へ並んだ。
飛んできた燃える紙が、濡れた毛布へ張りつく。
火が白い煙を上げて消えた。
「水を燃えていない馬車へ使うな! 火元と、地面へ流れた油を分けて!」
赤い帽子の男が、水樽の栓を抜く。
「桶を二列にしろ! 空の桶は外側から戻せ!」
水を入れた桶が、内側の列を渡っていく。
空になった桶が、外側の列で戻る。
誰かがぶつかりそうになるたび、周りが声を掛けた。
ラウエン村で一度つながった動きだった。
修司は技能を使っていない。
それでも、人々は動けている。
「タカセさん!」
ミレイユが駆け寄ってくる。
「一台目には、まだ冬用の毛布が残っています。二台目は包帯と薬草です!」
「一台目は諦める」
修司は即座に答えた。
「二台目を切り離す。中身はあとだ。火を止めるために、人を荷台へ上げないでくれ」
「はい!」
ミレイユは迷わず戻っていく。
白い仮面の女が、屋根の上から修司を見下ろした。
「あなたを村へ送れば、ここは崩れると思ったのだけれど」
風に乗った声が、火の音を越える。
修司は女を見上げた。
「俺一人を外せば、全員が止まると思ったのか」
「違うの?」
「違う」
修司は、青い紙を掲げるミレイユを見た。
負傷者の呼吸を確かめるエヴァ。
桶を渡す村人。
火の前へ濡れた毛布を立てる護衛。
「俺の仕事は、俺がいなければ動けない人を増やすことじゃない」
修司は左手を上げた。
「俺がいなくても、互いに支えられるようにすることだ」
ミレイユが、修司を見る。
エヴァも、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
クラウディアの口元が、わずかに緩む。
白い仮面の女から、笑みが消えた。
「二台目を動かす!」
修司は周囲へ声を飛ばした。
「前の馬は外れている! 後輪側へ六人! 左右三人ずつ、車体を押すんじゃない。車輪を回せ!」
六人が位置につく。
二台目の幌の端へ火が移った。
時間がない。
車輪止めを外そうとした護衛が、顔をしかめる。
「楔が噛んでいます!」
油壺を投げた者が、深く打ち込んでいたのだ。
「クラウディア、楔を!」
クラウディアの剣が閃く。
木の楔が、根元から断ち切られた。
「動かせ!」
六人が車輪へ力を込める。
動かない。
地面に流れた油と土が混じり、車輪が沈んでいる。
火が荷台の天井へ回った。
「修司殿、離れてください!」
「まだだ!」
右腕は使えない。
自分一人が加わっても、馬車は動かない。
だが、六人の力が同時に車輪へ伝われば、動く可能性はある。
修司は、頭に残る痛みを無視して左手を伸ばした。
「《生活動作把握》」
六人の足。
腰。
肩。
回そうとする手。
ばらばらだった力の向きが見える。
「一度、力を抜け!」
「火が回ります!」
「押し続けても動かない! 一度抜いて、腰を落とせ!」
六人が息を吐く。
修司の光が、必要な動きだけをつないだ。
「《連携支援》」
広げない。
六人と、一台の馬車。
今の一歩だけへ、技能を絞る。
「三、二、一――回せ!」
六人の脚が、同時に地面を踏んだ。
車輪が泥を削る。
一度止まり、もう半周する。
重い馬車が動いた。
「そのまま! 止めるな!」
火のついた一台目から、二台目が離れていく。
開いた隙間へ、水と砂が一斉に投げ込まれた。
燃え移ろうとしていた炎が、白い蒸気の中で消える。
「離れたぞ!」
「二台目を守れ!」
人々の声が上がる。
修司は左手を下ろした。
頭の奥が大きく脈打つ。
膝が揺れた。
倒れる前に、クラウディアの腕が背を支える。
「言ってくださいと、お願いしたはずです」
「倒れる前に言おうとは思った」
「今のは、ほとんど倒れています」
「でも、動いた」
「それとこれとは別です」
厳しい声だった。
だが、支える腕は少しだけ震えていた。
◇
屋根の上で、白い羽根の仮面の女が両手を広げた。
「では、もう一度試しましょう」
緑色の魔法陣が、先ほどより大きく開く。
地面に落ちた偽布告が、再び浮かび上がった。
火の残る一台目から、無数の火の粉が吸い上げられる。
「まだやる気か!」
リーゼが矢をつがえる。
だが、女は修司たちを見ていなかった。
狙いは、石造りの物資庫。
負傷者たちが避難している場所だ。
「エヴァ先生!」
修司が叫ぶ。
女が腕を振り下ろそうとした、その瞬間。
屋根の背後から、青い布が広がった。
大きな布が女の頭から肩へかぶさる。
魔法陣が歪んだ。
「何――」
布を投げたのは、休息所の女主人だった。
その隣には、厨房の男と、足を包帯で巻いた御者がいる。
「うちの屋根で、勝手なことをするんじゃないよ!」
女主人が叫ぶ。
女は布を切り裂き、風を放った。
三人の身体が後ろへ押される。
だが、その一瞬で十分だった。
リーゼの矢が、女の深紅の外套を屋根板へ縫いつける。
クラウディアが壁際の樽へ足を掛け、屋根へ跳んだ。
剣が白い仮面へ迫る。
女は留め具を外し、外套だけを屋根へ残した。
その下には、旅装用の黒い服。
短く切った銀色の髪が、朝日に光る。
女は屋根の反対側へ身を投げた。
「待ちなさい!」
クラウディアが追う。
屋根の向こうから、馬の嘶きが聞こえた。
修司が建物を回ったときには、銀髪の女は白馬へ乗り、南東の道へ走り出していた。
クラウディアが屋根から地面へ降りる。
追跡用の馬は火から遠ざけている。
すぐには追えない。
銀髪の女が、馬上から振り返った。
「セラフィナ様!」
捕らえられた白い鳥の男が、思わず叫ぶ。
女――セラフィナは、男を一度だけ見た。
助けようとはしない。
「第五版は、もうあなたより先に着くわ」
風が巻き起こる。
土煙が視界を塞いだ。
次に見えたとき、白馬は街道の曲がり角へ消えていた。
◇
火が完全に消えたのは、朝の鐘が三度鳴った頃だった。
一台目の馬車は、荷台の半分を失った。
冬用の毛布と包帯の一部が燃えた。
だが、残る五台と、二台目の薬草は守られた。
死者はいない。
火傷を負った者と、煙を吸った者は、エヴァと村の治療師が診ている。
修司も右肩を診られた。
「傷は開いていません」
エヴァが布を巻き直す。
「ですが、それは無茶をしていいという意味ではありません」
「分かっています」
「分かっている人の返事には聞こえません」
「さっき、クラウディアにも似たことを言われました」
「では、二人分聞いてください」
隣でクラウディアが、静かにうなずいた。
修司は反論を諦めた。
「タカセさん」
ミレイユが、煤で黒くなった布包みを持ってきた。
「捕らえた男が、これを火へ投げようとしました」
中には、焼けかけた大きな紙が入っていた。
手引きとして配られていた紙よりも、ずっと大きい。
同じ文章が、上下左右に四つ並んでいる。
端には十字の線。
色を重ねる位置を示す、小さな丸。
裁ち落とす場所を示す印。
修司は息を止めた。
「これは、配るための紙じゃない」
「分かるんですか」
「切る前の、印刷用の見本だ」
アナログ時代。
印画紙を切り、文字を貼り、色を指定し、印刷現場へ回す原稿を作った。
形は違っても、目的は同じだった。
どこで切るか。
色がずれていないか。
一枚の大きな紙から、何枚取るか。
量産する前に確かめるためのものだ。
「これを持っていた人間は、ただ配っていたんじゃない。作っている場所とつながっている」
ミレイユが、焦げた紙の裏を確かめる。
「薄く、何か書かれています」
煤を払うと、裏面に文字が現れた。
『白鷺商会 第三製版所』
白い鳥の印には、名があった。
「白鷺商会……」
クラウディアの表情が変わる。
「ご存じなのですか」
「十年前に潰れた商会です。王国北部の地図と通行証を作っていました」
「地図と通行証……」
街道の道筋。
村の位置。
王都からグランフェルへ向かう荷の数。
紙を作り、運び、人を信じさせるための知識。
敵が持っているものが、少しずつ一本につながる。
「第三製版所ということは、少なくとも三つある」
修司が言うと、ミレイユは紙の端を指した。
「タカセさん。問題は、そこだけではありません」
四つ並んだ文章のうち、一つだけ、焼けずに見出しが残っていた。
『辺境統治に関する緊急手引き 改訂第五版』
その下に、さらに大きな文字がある。
『グランフェル辺境伯ベルンハルト・フォン・グランフェル、急逝』
クラウディアの顔から、血の気が引いた。
「父は、生きています」
「分かってる」
修司は続きを読んだ。
『後継者クラウディアは王都で反逆の疑いにより拘束』
『領民は銀狼旗を掲げる者を城内へ入れず、王都より派遣される暫定代官へ門と兵糧を引き渡すこと』
何一つ、起きていない。
だが、起きたことにする紙は、すでに作られている。
紙の隅には、発行数が記されていた。
『初刷 四千部』
そして、その下。
『北方各所へ発送済み』
セラフィナの言葉が蘇る。
――第五版は、もうあなたより先に着くわ。
修司は、北へ続く街道を見た。
敵の次の狙いは、村でも物資でもない。
ベルンハルトが守り、クラウディアが帰ろうとしている場所。
グランフェルそのものだった。
「ミレイユ」
「はい」
「今ある紙を全部出してくれ」
「何を作るんですか」
「第五版より先に届ける、本物の知らせだ」
修司は焦げた印刷見本を机へ広げた。
「ここからは、逃げた紙を追うだけじゃない」
左手で、白鷺商会の名を押さえる。
「俺たちの紙で、先に道を作る」




