第五十九話 生活支援士対《白盾》
白い大盾が、一本の石橋を城壁へ変えていた。
橋の幅は、大人が三人並べるほどしかない。
左右には手すりもない。
遥か下では、青緑、赤紫、黄、黒の魔力が濁流となって渦巻いている。
落ちれば、石床へ着くより先に身体を焼かれるだろう。
「お前の支援で、この盾を越えてみせろ。タカセ・シュウジ」
カシウスの背後で、中央制御室の扉が脈打つ。
脈動のたび、天井から淡い光の粒が降り、四色の流れへ吸い込まれていた。
王都の人々から奪われた生命の力だ。
「証明なら、もう始まっています」
修司は答えた。
「あなたの後ろへ流れている光を見てください。あれが魔力だけに見えますか」
「中央核が、余剰魔力を回収している」
「なら、なぜ地上の人々が倒れているんです」
「再起動が終われば、奪った分も治癒として戻る」
「ゲルハルトが、そう言ったんですね」
カシウスの眉が動いた。
「俺は奴の言葉だけを信じているのではない」
白い盾の縁を、強く握る。
「十五年前、南街区で熱病が広がった。治癒師も薬も足りず、俺は区画を閉鎖した」
低い声が、地下空間へ響く。
「門の外では、家族を返せと人々が叫んでいた。それでも開けなかった。開ければ、王都全体へ病が広がっていた」
「……中にいた人たちは」
「大勢死んだ」
短い言葉だった。
だが、カシウスはその数を一人残らず覚えているような顔をしていた。
「救えない者を選ばなければ、さらに多くが死ぬこともある。俺は、正しいと信じたい方を選ぶつもりはない。より多くが生きる方を選ぶ」
「だから、王都中から少しずつ命を奪うと?」
「次の脈動で四区すべてが焼けるなら、ほかに何がある!」
白い光が、盾の表面へ広がった。
「今は議論している時間がない。退け。再起動が終わったあと、ゲルハルトが嘘をついていたなら、俺がこの盾で奴を止める」
「終わったあとでは遅いんです」
修司は一歩も退かなかった。
「その選択で奪われる側に、あなたは何も聞いていない」
カシウスの目が鋭くなる。
「聞けば、全員を救えるのか」
「少なくとも、数へ変える前に一人ずつ見ることはできます」
「それで間に合わないから、俺はここにいる!」
大盾が石橋へ打ち下ろされた。
「《固定領域》!」
白い光が橋を走った。
修司の両脚へ、巨大な重りが巻きつく。
クラウディアの長靴が石床へ沈み、ヴェラの青い糸が空中で動きを止めた。
「交渉は終わりだ」
カシウスが盾を押し出す。
「ここから先へは、一歩も通さない」
◇
「では、力ずくで通ります」
クラウディアが剣を抜いた。
「待ってください。正面からでは――」
言い終わるより早く、彼女は床を蹴っていた。
重さの中でも速い。
青銀の刃が、盾の左上へ走る。
カシウスは避けなかった。
大盾をわずかに傾ける。
刃が白い光の表面を滑り、橋の外へ流された。
同時に、盾の下端がクラウディアの足元へ入る。
「くっ!」
持ち上げられた身体が、石橋の外へ傾いた。
青い魔導糸が彼女の腰へ巻きつく。
ヴェラが後ろへ引き戻した。
「一人で突っ込まないで」
「助かりました」
「礼はあとよ」
ヴェラが両手を開く。
十数本の糸が左右へ分かれ、カシウスの盾を上下から包んだ。
「固定するなら、その盾ごと縫い止める」
糸が背後の石柱へ結ばれる。
「クラウディア、右から!」
二人が同時に動いた。
クラウディアの剣が盾の右端へ入る。
ヴェラの糸が反対側へ引く。
大盾をねじり、道を開けるつもりだ。
カシウスは盾から手を離した。
「何を――」
クラウディアが目を見開く。
次の瞬間、白い盾だけが空中へ固定された。
カシウスはその陰から踏み込み、クラウディアの懐へ入る。
鎧の肩が彼女の胸当てへ当たった。
打ち倒すのではない。
橋の中央から、安全な後方へ押し戻す一撃。
クラウディアが修司の横まで滑る。
同時に、固定された盾が激しく回転した。
ヴェラの糸が一斉に引きちぎられる。
「盾を持っているから《白盾》なのではないようね」
ヴェラが切れた糸を見た。
「当然だ」
カシウスが大盾をつかみ直す。
「守る場所を決めた俺自身が、盾だ」
再び盾が前を向く。
今の攻防で、開いた道は一瞬もなかった。
強い。
力だけではない。
相手が何を狙うか読み、必要以上には傷つけず、それでも確実に止める。
カシウスもまた、大勢を守るために積み重ねてきた男だった。
「タカセ殿、下がってください」
クラウディアが立ち上がる。
「次は私が、盾を破ります」
「破らなくていいんです」
修司は、カシウスの背後を見た。
中央制御室の扉の手前。
石橋の右側に、胸ほどの高さの制御柱が立っている。
その周囲を黒い輪が回っていた。
輪が一周するたび、四色の濁流が中央核へ吸い込まれる。
「ヴェラさん。あの柱は何ですか」
「魔力の戻りを整える調整器よ。黒い輪が逆流を一つに束ねている」
「止めたら?」
「少なくとも、この経路からの回収は止まる。でも、術式の内側よ。近づく前にあの盾へ潰される」
修司は制御柱とカシウスを見比べた。
「近づく必要はありません」
「どういうことですか」
クラウディアが尋ねる。
「あの人に、止めてもらいます」
◇
中央核が、二度目の大きな脈動を放った。
修司の視界に残っていた四色の光が、一斉に細くなる。
地上で《連携支援――広域展開》につながった人々が、力を奪われている。
北の救護所。
東市場の荷車。
南の船着き場。
西の旧市街。
顔は見えなくても、流れが弱っていくのは分かった。
時間がない。
だが、焦って身体を動かせば、今の自分は一度で崩れる。
修司は左手を、自分の胸へ当てた。
「何をしている」
カシウスが問う。
「身体の確認です」
「この状況でか」
「この状況だからです。もう若くありませんから」
修司は息を吐いた。
これまで《生活動作把握》を使うとき、見ていたのはいつも目の前の誰かだった。
立てない人。
食べられない人。
痛みや恐怖で、動けなくなった人。
できないことを数えるのではなく、その人の中に残っている力を探してきた。
だが、自分自身へ向けたことはない。
右腕が使えなくても。
頭痛で視界が欠けても。
まだ動けると言い続け、残っている力まで使い潰そうとしてきた。
それは支援ではない。
ただの無理だ。
「《生活動作把握》」
淡い光が、左手から修司自身の身体へ広がった。
右肩。
動かせる角度は狭い。強く引けば、傷が開く。
左腕。
握る力は残っている。
両脚。
疲労で震えているが、右足で踏み込み、左の腰を回す動きなら一度だけできる。
呼吸。
速すぎる。
修司は三つ数えながら吸い、六つ数えながら吐いた。
肩から余分な力が抜ける。
治ったわけではない。
強くなったわけでもない。
今の身体で、できる動きと、してはいけない動きが分かった。
「《個別支援》」
支援する相手は、自分自身。
淡い線が、右足から左の腰、左肩、手のひらへ一本につながる。
使える力だけで、一つの動作を完成させる道だった。
「自分まで技能の対象にするなんて、聞いていません」
クラウディアが言った。
「今、思いつきました」
「失敗したら?」
「俺を引き戻してください」
「やはり無茶ではありませんか」
「無茶を一人でしないために、お二人がいるんです」
クラウディアは険しい顔のまま、剣を構え直した。
「あとで怒る項目が、また増えました」
「受け付けます」
ヴェラの青い糸が、修司の腰へ巻きついた。
「落ちたら引く。それ以上は期待しないで」
「十分です」
修司は二人へ、短く作戦を伝えた。
クラウディアが耳を疑うような顔をする。
ヴェラは制御柱を見て、細い息を吐いた。
「失敗すれば、あなたとカシウスが一緒に橋から落ちるわ」
「成功させます」
「根拠は?」
「あの人は、最後まで盾を捨てません」
修司はカシウスを見た。
「だから、その盾を信じます」
◇
「話は終わったか」
カシウスが問う。
「はい」
修司はクラウディアとヴェラの間から、一人で前へ出た。
「タカセ殿!」
「約束どおり、俺が合図するまで手を出さないでください」
傷めた右腕を身体へ沿わせる。
左手だけを、胸の前へ上げた。
武器はない。
鎧もない。
五十二歳の、疲れ切った身体一つ。
カシウスの表情が険しくなる。
「俺を愚弄するつもりか」
「いいえ」
修司は静かに答えた。
「あなたの力を借ります」
「断る」
「それでも、借ります」
カシウスが大盾を構えた。
「ならば、その身で知れ!」
盾の周囲へ白い光が集まる。
今まで橋全体へ広げていた《固定領域》が、大盾とカシウスの身体へ収束した。
止めるための術が、今度は前へ進む城壁になる。
一歩。
石橋が揺れた。
二歩。
速度が上がる。
三歩目で、カシウスは突進した。
逃げ場のない橋を、白い壁が埋め尽くす。
「タカセ殿!」
クラウディアの叫びを背に、修司は動かなかった。
盾を見るのではない。
その下に見える足。
鎧の隙間から動く肩。
盾の光と身体の動きが、完全には重なっていない。
大治癒陣と同じだった。
右上の光が、ほんのわずかに遅れている。
祭礼門を固定したときの負担が、盾を支える右肩へ残っている。
左足を踏み込むたび、身体は無意識に右へ戻ろうとする。
版ずれを見抜いてきた目が、光のずれを捉える。
介護で身につけた観察が、重心の移動を読む。
合気道で繰り返した身体捌きが、力の行き先を示す。
これまで別々だと思っていた年月が、一つの動きへ重なった。
まだ早い。
盾が迫る。
あと二歩。
まだ。
あと一歩。
カシウスの左足が石床を捉えた。
次の右足を出すため、固定領域が一瞬だけ地面から離れる。
「今です!」
クラウディアの剣が、橋の左側を打った。
火花が散る。
カシウスの視線が、わずかにそちらへ動く。
その一瞬に、修司は前へ入った。
逃げるのではない。
盾の右端、光の遅れている側へ斜めに踏み込む。
左の手のひらが、大盾の縁へ触れた。
「《生活動作把握》!」
触れた場所から、カシウスの力の線が見えた。
肩から盾へ。
腰から前足へ。
全身の力が、修司を押し潰す一点へ集まっている。
だから、その一点から外れる。
左手で押さない。
右腕でも受けない。
右足を軸に、左の腰を円へ回す。
盾の縁へ触れたまま、カシウスが進みたい方向へ自分の身体を滑らせた。
「なっ――」
正面にあった抵抗が消える。
カシウスの巨体が、半歩だけ前へ流れた。
同時に、光の遅れた右上だけが外へ引かれる。
わずかなずれ。
だが、《固定領域》で一つの塊となった身体は、盾だけを戻せない。
盾が回る。
肩が回る。
腰が回る。
白い城壁そのものが、右へ向きを変えた。
修司は投げていない。
ただ、突進の行き先を変えた。
その先に、黒い輪の回る制御柱がある。
「止まれええっ!」
カシウスが叫ぶ。
止めようと盾へ力を込める。
だが、その力が《固定領域》をさらに強くした。
白い大盾が、制御柱へ激突する。
轟音。
黒い輪がひしゃげた。
「《固定領域》――解除!」
カシウスが術を解こうとする。
間に合わない。
盾と柱が白い光で一体となり、回転していた黒い輪を完全に固定した。
四色の濁流が、石橋の下で弾ける。
中央制御室の扉へ、大きな亀裂が走った。
爆風が修司を襲う。
右腕に鋭い痛みが走り、足が石橋から離れた。
腰へ巻かれた青い糸が張る。
「だから落ちると言ったでしょう!」
ヴェラが修司を引く。
クラウディアが左腕をつかみ、橋の中央へ戻した。
一方、カシウスの身体は制御柱の外側へ投げ出されていた。
片足が橋を外れる。
手には、柱へ固定された盾の取っ手。
「盾を離してください!」
修司が叫ぶ。
「これを離せば、黒い輪がまた動く!」
カシウスは手を離さなかった。
「なら、三人で引きます!」
修司は左手でカシウスの腕をつかんだ。
クラウディアが修司の腰を支える。
ヴェラの糸がカシウスの胸当てへ巻きついた。
「せーの!」
三人の力で、巨体を橋の上へ引き戻す。
カシウスは膝をついた。
荒い息を吐きながら、修司を見る。
「俺まで、助けるのか」
「あなたは、王都を守ろうとしていただけです」
「その俺が、お前を殺しかけた」
「俺も、あなたを柱へぶつけました」
「……同じにするな」
カシウスの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
石橋の下で、四色のうち黒い流れが急速に弱まっていく。
天井から吸い込まれていた生命の光も、目に見えて減った。
「調整器を止めれば、四区が焼けるはずだった」
カシウスが呟く。
「だが、逆だ。人々から奪う力が弱まっている」
「ゲルハルトは、あなたへ一部しか見せなかったんです」
「一部だけの真実は、嘘より人を動かす」
ヴェラが言った。
中央制御室の扉が、内側から軋む。
カシウスは立ち上がり、制御柱へ大盾を押しつけ直した。
「行け」
「団長は?」
「俺が盾を離せば、黒い輪が再び動く。ここは俺が固定する」
白い光が、盾から柱へ広がる。
カシウスの両腕が震えた。
それでも、盾は動かない。
「俺の負けだ、生活支援士」
「勝ち負けではありません」
「戦った相手は、皆そう言う」
カシウスは正面を向いたまま笑った。
「だが、これほど気持ちよく俺の盾を使った男は初めてだ」
亀裂の入った扉へ顎を向ける。
「王都を救え、タカセ・シュウジ。今度こそ、俺が後ろを守る」
「お願いします」
修司は深く頭を下げた。
クラウディアが剣を振るい、亀裂を広げる。
ヴェラの糸が扉の破片を引き剥がした。
三人は、中央制御室へ踏み込んだ。
◇
そこには、もう一つの王都があった。
円形の広間を埋める、白い立体地図。
王宮。
白塔区。
東市場。
南の水路。
西の旧市街。
一つ一つの建物に、小さな光が灯っている。
その上を、四色の巨大な透明板が回っていた。
青緑。
赤紫。
黄。
黒。
四枚の板に刻まれた魔法陣は、少しずつ位置をずらしながら重なっている。
巨大な印刷機の中へ、王都そのものを入れたようだった。
その中心に、ゲルハルト・ヴァルナーが立っている。
逃げる様子はない。
むしろ、客を待っていたように微笑んだ。
「見事でした、タカセ殿」
「中央核を止めてください」
「広場でも、地下でも、あなたは私の想像を超えてくれた」
ゲルハルトは修司の言葉を聞いていない。
「文字を読めない者にまで意味を伝える四色の印。そして、何千人もの役割を一つへまとめる広域技能」
透明板の上で、四つの印が浮かび上がった。
青い丸。
黄色い矢印。
赤い三角。
黒い交差線。
「まさか……」
修司の背中が冷えた。
「中央核から、地上の魔力の流れはすべて見えていました」
ゲルハルトが黒い板へ手を置く。
「散らばった数千の命を直接扱うのは難しい。ですが、あなたが役割ごとに整理し、一つの支援網へつないでくださった」
「タカセ殿から離れなさい!」
クラウディアが剣を抜く。
ヴェラの魔導糸がゲルハルトへ走った。
透明な壁が立ち上がり、剣も糸も弾く。
床の白い線が、修司の足元へ集まった。
召喚殿で見た光。
同じ白い帯が立ち上がり、両脚と左腕へ巻きつく。
傷めた右腕まで引かれ、激痛が走った。
「ぐっ……!」
『中央制御因子を再確認』
冷たい声が広間へ響く。
「以前のあなたは、百七十人をつなぐだけで倒れかけた」
ゲルハルトの笑みが深くなる。
「今のあなたなら、王都すべてへ届く」
「俺の技能は、人から命を奪うためのものではない!」
「技能に目的などありません。使う者が、最も多くを救う形へ整えればよいのです」
ゲルハルトが制御石を押し込んだ。
四色の透明板が、初めて完全に重なる。
修司の視界へ、王都中へ伸びる光が現れた。
青い丸の下にいる患者。
黄色い矢印を運ぶ人々。
赤い三角を守る術師。
黒い交差線を掲げる衛兵。
救うためにつないだ全員の光が、逆向きに流れ始める。
修司を通り、中央核へ。
「さあ、完成させましょう」
ゲルハルトが両腕を広げた。
「誰一人、傷を持たない王都を。そのために何人が立てなくなろうと、救われる命の方が多い」
地上から、無数の苦痛の声が重なって届いた。
修司が人々を救うためにつないだ光は今、王都から命を奪う巨大な鎖へ変わろうとしていた。




