No.70 剥がれる仮面、あるいは幻影の狐
No.70 剥がれる仮面、あるいは幻影の狐
「あはは、はははははは……!」
舞台袖の薄暗がりの中、真は上体を深く折り曲げ、文字通り狂ったように笑い声を響かせていた。
狂気と嘲笑が綯い交ぜになったその異様な哄笑は、劇を終えたクラスメートたちの歓声さえも容易に侵食していく。
「『まこと、壊れちゃった……? でも、大丈夫だよ。私が、最〜後までちゃーんと面倒見てあげるからね』」
その姿を「決定的な精神の崩壊」と都合よく解釈したまどかは、慈愛に満ちた、けれど底の浅い笑みを浮かべて宙から見下ろす。
真を完全に自分の掌上に乗せたと確信している、全能感に満ちた声だった。
だが。
ピタリ、と。
刃物で断ち切るように、真の笑い声が止んだ。
「──いいです」
低く、地を這うような平坦な声。
そこには狂気の破片など、微塵も残っていなかった。
「『うん? なに?』」
「もういいです、と言ったんです」
くの字に折れ曲がっていた真の背筋が、操り人形の糸が引き上げられるように、ゆっくりと起き上がる。
網膜に焼き付いた舞台の残光のなかで、真は静かに、けれど明確に目の前の「異形」を拒絶した。
「姉さんの真似は、もういいですよ─────」
顔を上げた真の右目が、怪しくも美しい紫色に輝いていた。
世界を「書き割り」に変えていたノイズが走り、真の視界の中で、まどかの形をした輪郭だけが歪に浮き上がっていく。
「……欠落した獣」
真は、浮遊しているまどかを下から見上げるように見つめた。
その紫色に澄んだ瞳は、どこまでも冷徹で、哀れみすら含んでいる。
すべてを見透かすようなその眼差しを浴びて、まどかの身体がピクリと不自然に強張った。
張り付いた笑顔のまま、まだ正体を明かそうとせず、お姉ちゃんという「配役」を演じ続けようとする。
「『えー? 何を言っているの、まこと。私は君の、たった一人のお姉ちゃんなんだけど?』」
往生際の悪い、安っぽい芝居。
真は深く、深い溜め息を吐き捨てた。
その落胆の仕方は、あまりにもあっけない答え合わせに対するものだった。
「外身はともかく、中身のディテールはもう少し研究してきた方がよかったですね。……決定的なボロですよ。姉さんは『私』ではなく、自分のことを『ボク』と言うんですよ」
先ほど偽物が放った『私なら耐えられないよ』という、本物のまどかなら口が裂けても言わないであろう致命的なセリフ。
それを突きつけられた偽まどかは、動きを止め、顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「あー……。そう言えば「私」って、ずっと言ってたわね、私。いやねぇ、癖って。変なところでボロが出ちゃったじゃない?」
次の瞬間、目の前の存在から「姉」の気配が完全に消失した。
声のトーンが変わり、まどかの肉体から生々しい「他者」の気配が溢れ出す。
偽物はその場でポーンと軽薄に跳ねると、空中でくるりと身体を回転させた。
まどかという精巧な皮が内側から弾け飛ぶように霧散し、その中から全く異なる「本性」が姿を現す。
そこに立っていたのは、人間の胴体に狐の頭部を戴く、不気味で艶やかな獣頭人身の怪物だった。
「はーい、ごあいさつ! 私が「欠落した獣」――変異を司る千変万化な顔を持つ千両役者。万華の幻影狐よ。よろしこ~」
骨格そのものは細身の男性の体型。
しかし、その艶めかしい身のこなしといい、媚びるような口調といい、どう聞いても女性寄りのオネエ言葉だった。
剥がれ落ちた仮面の奥から、十王市を、真をも蝕んでいた「異変」が、ついにその牙を剥き出しにしようとしていた。
「……カレイド・ヴィクセン」
真がその歪な名を口にすると、獣頭人身の怪物は満足げに長い尾を揺らした。
「そうよん。ヴィちゃんって呼んでもらっても構わないわよ? だけど『カーちゃん』だけは勘弁ね、所帯じみてて嫌だわ。あははは!」
高く、調子の外れた笑い声を上げるヴィクセン。
その人を食ったような態度に、真は表情を変えないまま、腹の底で警戒の度合いを一段階引き上げた。
目の前の獣は、ライアーとはまた異なる質の、悪意の塊だ。
「あらあらあら? 私はも~っとあなたとお友達になりたいのに、心を全然開いてくれないのね。もっとオープンに行きましょう、オープンに!」
「残念だけど、僕はあなたのことを何も知らないからね。警戒心の一つくらいは抱かせてもらうよ」
「あら、そうなの? でも私は、あなたのことをよ~く知っているわよ」
ヴィクセンは細い指先を自身の狐顎に添え、獲物をいたぶるような、
陰湿な笑みをその細い眼窩に宿した。
「人にも、自分にさえも無関心。感情というエネルギーでさえ、ロジックを組み立てるための一つのパーツとしてしか考えない、冷徹で合理的な人間……。そう、あなたがそうなってしまったのは――」
一歩、ヴィクセンが真との距離を詰める。
その背後で、舞台袖の喧騒が急速に遠ざかり、世界の色彩が一段と薄れていく。
「過去に、家族を亡くしたから。自分だけが生き残ってしまったから。そのあまりに重い罪悪感から逃れるために、あなたの内側は伽藍堂になってしまったのよねぇ?」
どう? 苦しいでしょう? 痛いところを突かれて、泣き叫びたいでしょう? ――言葉にせずとも、ヴィクセンの歪んだ表情がそう雄弁に物語っていた。
しかし。
「……はあ。なるほど。やはり、あなたはうわべだけだ」
真は、目の前の怪物の言葉を羽毛ほどの手応えもなく受け流した。
その口調にあるのは怒りでも絶望でもなく、ただの「呆れ」だった。
「なによその態度! 図星でしょうが! 苦しくないの!? 悲しくないの!? ほら、もっと後悔しなさいよ!!」
期待した反応が得られず、ヴィクセンのオネエ言葉がヒステリックに尖る。
真はそんな彼を、淡々と見据えた。
「苦しみも、悲しみも、後悔もありますよ。ですが、それを否定すれば、僕が僕でなくなってしまう」
かつて失ったものも、その後に残された空白も、すべてをひっくるめて「繭住真」という人間を構築している。
それを他者に憐れまれ、歪められる筋合いなどない。
「キッ~~! ムカつくガキね……! いいわ、いいわよ。私には、こっちの素晴らしい『オモチャ』があるもの!」
ヴィクセンが不快そうに爪を立てると、その隣の空間が歪み、一人の少女が姿を現した。
九尾ヶ坂麗。
先ほどまで舞台の上で万雷の拍手を浴びていたはずの彼女は、完全に生気を失った瞳のまま、まるで見えない糸で吊られた人形のように宙に浮いていた。
「……彼女と、契約したのか」
「けいやく~? まさか。この子はそんなことしなくたって、はじめから伽藍堂の子、心が空っぽの子だったのよ。たまにいるのよねぇ、こういうな~んにも持てない人間って。……でも、そうね。面白そうだから、あなたのその合理的な脳みそ、徹底的に叩き潰してあげるわ!」
ヴィクセンの身体が、一瞬にして眩い光の粒子へと変換された。
光の群れは愉悦の笑い声を残響させながら、宙に浮く九尾ヶ坂麗の周囲を激しく飛び回り、やがて彼女の肉体へと融解するように吸い込まれていく。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、九尾ヶ坂麗の面影を残しながらも、完全に「異形」へと変貌を遂げた存在だった。
身に纏うのは、漆黒の美しいタキシード衣装。
その背からは、現実感を狂わせるほど巨大な九つの尾が扇状に広がっている。
そしてその顔面の上半分には、不気味に目を細めた狐を模した半面が、吸い付くように張り付いていた。
「ふふ。さあ、あなたはどうする? あなた以外、だ~れもいないこの隔離された空間で、私とどう戦うつもり?」
ヴィクセンが両腕を広げる。
いつの間にか、周囲の舞台袖の景色は消え失せ、底の知れない暗闇だけが広がる絶対的な孤立空間へと変貌していた。
真の身体を動かすためのロジックさえ、この空間では無意味であると言わんばかりに。
だが、真は「やれやれ」と、本日何度目になるか分からない深い溜め息を吐くだけだった。
「……やっぱり、あなたの嘘は軽いな。ライアーの嘘の方が、まだ重く、真実を突いてきていたよ」
「はあ!? 手も足も出せないこの状況で、なに負け惜しみ?その右目だけで、私に何ができるっていうのよ!」
ヴィクセンの鋭い爪が、真の喉元を目がけて振り下ろされようとした、その瞬間。
「ええ。ですから、こうします――」
真は目の前の敵ではなく、遥か彼方、この隔離空間の「外側」にある、確かな一点を見つめて叫んだ。
「――姉さん! 僕はここです!」
その声が響いた刹那。
絶対に壊れないはずの隔離空間の虚空に、バリバリと耳障りな音を立てて巨大な「亀裂」が走った。
ガラスが粉々に砕け散るような轟音と共に、闇の一部が乱暴に割れ、そこから眩い光が差し込む。
「『――まこと! 大丈夫!? お姉ちゃんが、ボクが来た!!』」
ひび割れた世界の隙間を抉じ開けて現れたのは、小さな身体に、絶対に揺らがない確固たる意志を宿した、本物の繭住まどかだった。
彼女の口から放たれた力強い「ボク」という一人称が、ヴィクセンの偽物の結界を完全に粉砕していく。
割れ落ちる闇の破片のなかで、真は、至福とも言える確信に満ちた微笑みを浮かべた。
「ええ。待ってました」
本物の光が、今度こそ戦場を照らし出そうとしていた。




