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No.69 歪む時間、あるいは新たな契約




 No.69 歪む時間、あるいは新たな契約




 「『――うわあああん、まことぉ! 急にいなくなるからお姉ちゃん心配したんだからね!!』」


 空間の裂け目から飛び出してきた本物のまどかは、真の姿を認めるなり、涙目でその細い腕をぶんぶんと振り回しながら、抱き締められない真を抱きついてきた。


 先ほどまでの冷徹な「私」とは違い、鼓膜を容赦なく震わせるやかましい声。


 しかし真にとっては、これ以上ないほどに求めていた「本物の姉」の体温だった。


 「すみません、姉さん。どうやらあちらの方に、少々手酷く囚われていたようで」


 真がまどかの頭を軽く宥めながら、簡潔に視線で促す。


 まどかは涙を指先で拭いながら、真が示唆した方向――タキシードを纏い、九つの尾を揺らす異形へと顔を向けた。


 その瞬間、彼女の丸い瞳が驚愕に交差する。


 「『えっ!? だれ!? うわっ、ちょっと待って、あれって「無明の面」!? ってことはあの子、想像主(イマジニア)なの!? ならここは……ボクたちのいるここは、識蘊(しきうん)箱庭(にわ)!? ええっ!? どういうこと、まこと!?』」


 矢継ぎ早に飛び出す疑問の銃弾。


 頭を抱えて混乱するまどかの騒がしさに、真は「間違いなく本物だ」と、深い安堵とともに確信を深める。


 「落ち着いてください。想像主は一年の九尾ヶ坂麗さんです。ですが、彼女主体の意識は現在、表層には無いようです。代わりに『欠落した獣』――カレイド・ヴィクセンが彼女を依代として操っている状態ですね。……この識蘊の箱庭にいつから引き込まれていたのかは、僕にも定かではありません。僕自身、この世界の違和感に確信が持てたのは、本当に先ほどのことですから」


 真は努めて冷静に、現状のロジックを組み立てて姉に説明する。だが、まどかはさらに目を丸くして、パチパチと瞬きを繰り返した。


 「『九尾ヶ坂って……あの、ゆるふわちゃん!? いつ入ったかって、だってまこと、デッドスペースの休憩所で休みの時にコタローたちとキャン、旅行の話になって、そのときにちょっと落ち込むことがあって、そこにゆるふわちゃんが声をかけに来て……。その直後にまことの姿が急に消えちゃったから、ボク慌ててライアーやレグルスにも声をかけたんだよ!? でも全然反応がなくて……』」


 「……落ち込んで? 兎束さんがリハビリのために早期の夏季休暇に入ったときの話、ですか。それは――」


 真の言葉が、ふと止まる。右目の紫色の光が、微かに揺れた。


 「それは、二ヶ月くらい前の話ですよね?」


 「『うん……? え、二ヶ月? 何言ってるのまこと、それって「今日」の、ついさっきの話だよ?』」


 世界が、奇妙な音を立てて軋んだような気がした。


 まどかにとっては、つい数時間前の出来事。


 しかし真にとっては、あの学院で、あのクラスメートたちと過ごした、あまりにも長くて不条理な「二ヶ月間の日常」。


 「なるほど……そういう話ですか」


 真の 論理的思考回路が、即座にこの箱庭の最悪な構造を理解する。


 時間は均等に流れてなどいなかった。


 真を「役割」にハメ込み、心を伽藍堂にするために、この空間そのものが時間を引き延ばし、終わらない演劇をループさせていたのだ。


 真は静かに息を吐き出し、宙で九つの尾を不気味に蠢かせるヴィクセンへと視線を戻した。


 「もう~~! なんなのよ、なんなのよ一体全体!! せっかくこっちが緻密に計画を立てて、あの子の心を完〜璧な伽藍堂に仕立て上げようとしてたのに、全部台無しじゃないのよ!!」


 空中を浮遊しながら、子供のように地団駄を踏んで悔しがるヴィクセン。


 まどかの乱入によって舞台をめちゃくちゃにされた千両役者は、ヒステリックに叫び声をあげる。


 そんな狐の醜態に、空間の影から、意地の悪い、底暗い嘲笑が木霊した。


 「――クックックッ、アハハハハ! いい気味だなあ、クソ狐。テメェのその薄っぺらい安物のウソじゃ、このクソ生意気な理屈屋を落とせなかったってわけだぁ!」


 闇を裂いて姿を現したのは、狂気的な笑みを顔面に張り付かせたライアーだった。


 ヴィクセンを心底見下し、蔑むような視線を隠そうともしない。


 対するヴィクセンも、一瞬で表情を冷徹なものに切り替え、虚勢を張るように鼻で笑った。


 「あ、あら。どこぞの薄汚い野良犬かと思えば、あなたなのね。ずいぶんと素敵な『首輪(アクセサリー)』を、その彼から頂戴したみたいじゃないの?」


 ヴィクセンの視線が、ライアーの首元に嵌められた見えない束縛の鎖を射抜く。


 バチバチと火花が散るような、二匹の獣の睨み合い。


 ライアーは舌をちっと鳴らし、ヴィクセンから無理やり視線を外すと、真へとその狂暴な眼差しを向けた。


 「……おい、理屈屋。俺を使え」


 「え?」


 「今回ばかりは、テメェの言いなりになってやるって言ってんだよ。あのクソ狐の顔を抉り取れるなら、首輪のリードを引かせてやる」


 ライアーからの、まさかの共闘の提案。


 あの凶暴な獣が、プライドを捨ててまで真の武器になると申し出た。


 まどかが緊張に身を固める中、真は――ただ、淡々と首を横に振った。


 「悪いけど、君の提案は受け入れられない。嘘に嘘を重ねたところで、この状況での勝機は無いからね」


 「あぁ!? ならどうするつもりだ、おい! レグルスの野郎か? あいつがテメェにまともな力を貸すと限らねぇぞ!」


 拒絶されたライアーが歯を剥き出しにして唸る。


 しかし真の視線は、ライアーでも、規律の獣でもなく、この「識蘊の箱庭」のさらに奥、自身のシステムの内側へと向けられていた。


 「だろうね。それに、今回はレグルスの力も必要ない。……僕が今回、力を借りるのは、彼からだ」


 真は深く、腹の底から大きく息を吸い込んだ。


 ライアーの虚飾でもなく、レグルスの正しさでもない。


 この千変万化の幻影を操る「空っぽの虚構」を正面から粉砕するために必要なのは、整合性のあるロジックなどではない。


 ただ純粋な、圧倒的な――理不尽の力だ。


 真は、その|男(獣)の名を叫んだ。


 「――アジテージ・ラビット!!」


 「『ちょっ!? 本気、まこと!? またあのバナナを熱く語るハメになるわよ!!』」


 名前が響いた瞬間、まどかが悲鳴のような声をあげて真の、掴めぬ服の袖を引っ張った。


 まどかの言葉に、真の脳裏には瞬時に、彼にとっての「二ヶ月前」に起きたあの忌まわしき黒歴史が鮮明にフラッシュバックした。


 思い出すだけで胃のあたりが酸っぱくなるような精神的ダメージ。


 だが、今回に限ってはライアーの悪意ある嘘を重ねても勝機はなく、


 レグルスの規律の力でもこの搦め手は崩せない。


 真が今、引き出せる手札のなかで、もっとも打てる最強の選択肢は彼しかいなかった。


 「ラビット、来てくれ!!」


 恥を忍んで、もう一度強く声をかける。


 絶対的な暗闇の空間。静寂が満ちる中――真のすぐ足元の地面から、ヌッと、何かが突き出てきた。


 それは、スポーツ刈りに切り揃えられた頭。


 そして、どんよりと濁った、やる気の欠片も感じられない瞳。


 地面から頭の上半分だけを突き出したアジテージ・ラビットが、この世の終わりみたいな低いテンションで真を見つめていた。


 「…………呼んだ?」


 蚊の鳴くような声だった。


 あの暑苦しい筋肉の塊とは思えないほどのローテンション。


 「ラビット。頼む、君の力を貸してくれないか」


 「……えー。やだ。今、筋トレで忙しいから」


 地面に埋まったまま、面倒くさそうに瞳を逸らすラビット。


 だが、真は騙されなかった。


 この偽りの学園で過ごした二ヶ月間、クラスメートたちの顔色を窺い、人間の感情の揺らぎを観察し、ロジックを組み立て続けてきた真の頭脳が、目の前のウサギの「本音」を正確にプロットする。


 (……いや、違う。こいつは本当にやる気がないわけじゃない。僕が困窮しているのを見て、報酬を吊り上げるためにわざと焦らしているだけだ。この二ヶ月で学んだんだ、人間も怪異も、こういう時の態度は大体狙ってやっている)


 真はためらうことなくラビットの側へと歩み寄り、その岩石についた耳の近くへと顔を寄せた。


 「ラビット。力を貸してくれるなら────」


 真が、ラビットの耳元で静かに「ある条件」を囁く。


 それは真の合理性が導き出した、この筋肉ウサギを確実にハメ落とすための悪魔の提案だった。


 言葉が終わるか終わらないかの瞬間。


 ラビットの濁っていた瞳が、カッと見開かれた。


 その奥で、太陽の如き琥珀色の輝きが爆発する。


 「フハハハハハハハハハハ!!! ――ケボッ、ケボッ……ッ! ゲフン! ……その提案、至高の喜びと共に承ったァ!!」


 あまりの勢いに自分の唾で激しくむせ込みながらも、ラビットは地面を爆破するように飛び出してきた。


 一瞬にして周囲の空気が熱波を帯び、むせ返るような筋肉の圧が隔離空間を支配する。


 狂喜乱舞するウサギは、己のビルドアップされた肉体を誇示するようにポージングを決めた。


 「さあ! 往こうではないか、プロテインの導く約束の地へ! 共に行こう、未だ見ぬ筋肉の世界へぇええええ!!」


 「『まこと……ボク、あなたが何を言ったのかは知らないけど。それ、絶対に早まったわよ……』」


 一瞬で限界突破したラビットの暑苦しさに、まどかが完全に引きながら真の肩を叩く。


 激しくポーズを変えながら吠え続けるウサギの背中を見つめながら、真はほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、眉間を抑えて後悔の念を滲ませるのだった。


 「……大丈夫。これがベストな選択だ」


 その言葉は若干不安げではあったが。










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