No.68 筋肉第一体操、あるいは崩壊の肉体
No.68 筋肉第一体操、あるいは崩壊の肉体
「あなた……!? なに考えてるのよ、正気!? なんでそんな筋肉バカをわざわざ呼び寄せるのよ! 私の、私の完璧な舞台を壊す気ぃいい!?」
先ほどまで余裕を崩さなかったカレイド・ヴィクセンの顔が、恐怖と嫌悪に激しく歪んだ。
九尾ヶ坂麗の肉体を借りたその声が、裏返って隔離空間に響き渡る。
対する真は答えない。
いや、答える余裕がなかった。
額や頬から流れ落ちる汗は、明らかに冷や汗だ。
それでも彼は、自分の合理性が導き出した「最悪の正解」を信じ、確固たる覚悟を瞳に宿して二つの影を見つめる。
「姉さん。ラビット」
「『嫌だなあ、もう! ラビット、あんまりボクの方に近づかないでよ、暑苦しい!』」
「ハッハッハッ! 案ずるな、お嬢さん! 俺の心は、この鍛え上げられた大腿四頭筋のようにデカくて広いぞ! ハッハッハッ!」
ラビットは自分の太ももを盛大に叩く。
「『ダメだコイツ、全然会話が成立してない……! もう、まこと! あとで絶対にボクの可愛いお願いも聞きなさいよね!!』」
まどかが半ばヤケクソ気味に叫んだ、その瞬間。
まどかの銀の身体と、ラビットの琥珀色の巨体が、同時に眩い光の粒子へと変換された。
銀と琥珀。
対極にある二つの光が激しい螺旋を描き、真の身体を軸にして猛烈に渦巻く。
その奔流が、真の肉体内へと一気に溶け込んでいく。
光が収まったそこには――「彼ら」の力が混ざり合った、歪な変貌を遂げた真の姿があった。
身に纏うのは、いつもの夜空の銀河を描いた濃紺の魔法使いのローブ。右目には知性を象徴する片眼鏡が嵌められている。
だが、左手にあるはずの魔道書は消失していた。
代わりに、真の左顔半分には、およそ戦場には似つかわしくない、縁日の露店で売られているようなチープなウサギのお面が、不気味に張り付いている。
そして、片眼鏡の奥にある真の右目が――太陽のような琥珀色に燃え上がった。
「フハハハハハハハハハッ! 行くぞエンジン全開! フルスロットル! 轟け! 叫べ! 銀河への一直線! オンユア・マーク……レディ───」
「ちょっ、待ちなさ――」
ヴィクセンが焦燥に駆られて制止の声をあげようとする。しかし、それよりも遥かに速く、世界が引きちぎれた。
「――ゴォオオオオ!!!!」
真の喉から放たれたのは、彼自身の意志ではない。肉体の制御権を完全に明け渡されたことで、アジテージ・ラビットの暑苦しい咆哮が、真の声を完全に置き去りにして爆発する。
ドォン!! と空間そのものを踏み荒らすような爆音が響き、真の身体が空中を一直線に駆け抜けた。
超スピードという生易しいものではない。肉体の耐久限界など最初から計算に入れていない、理不尽な質量弾の射出だった。
「そうぉらぁああ! 筋肉第一体操ーーーッ!! 腕を大きく振り上げ、相手に拳を叩きつけるぅぅぅうううううッ!!」
ウサギの面をつけた真の右腕が、ヴィクセンの眼前に肉薄する。
避ける暇など与えない。
大気を圧縮した真の右拳が、ヴィクセンの腹部へと容赦なく突き刺さった。
「がッはあぁっ!?」
内臓を破砕するような重苦しい衝撃音が響き、ヴィクセンの細身の身体が、そのまま直下の地面へと超高速で叩き落とされる。
劇の舞台だった床がクレーター状に爆砕し、土煙が上がった。
だが、筋肉ウサギの「体操」は、まだ第一種目すら終わっていない。
「足の運動も忘れるなァ! 膝を腰の高さまでしっかりと上げて、足踏みだぁあ! そぉれ、それそれそれそれそれそれそれそれぇええええ!!」
ズダダダダダダダダダダダダタッ!!!!
轟音。
それはもはや人間の足音ではなかった。
地面を強固に踏み固めるランマー機械の如き質量と速度で、叩き落とされたヴィクセンの身体の上に乗り直した真が、高速の足踏みを繰り出す。
一撃ごとに結界の床がひび割れ、隔離空間そのものが激しく揺れる。
「『きゃあぁあ!? 速い、速すぎるってば! 体が! まことの体が壊れちゃう!!』」
変身のシステム内部から、まどかの悲痛な悲鳴が響き渡る。
当然だった。
今、この肉体を動かしているのはアジテージ・ラビットの力であり、その出力は「人間の肉体」という器の限界を遥かに超越している。
超高速の足踏みを狂ったように続ける真の肉体からは、ミシミシ、ベキベキと、筋肉が断裂し、骨に無数のひびが入る最悪の音が鳴り響いていた。
それだけではない。
内臓のどこかを完全に痛めたのか、ウサギの面の隙間から、ドロリと生々しい吐血が溢れ出し、濃紺のローブを汚していく。
まどかは必死になって銀の光を巡らせ、真の肉体を内側から修復し、守ろうと盾を張る。
だが、アジテージ・ラビットの琥珀色の暴走エネルギーが強すぎる。
壊れる速度が、治癒の速度を完全に上回っていた。
意識の奥底に沈んだ真の肉体は、文字通りボロボロに崩壊しながら、それでもなお、理不尽な暴力で偽りの千両役者を圧倒し続けていた。
「─────ふ……」
細く、長く、地を這うような呼吸の音が、爆発の粉塵が舞うクレーターの底から漏れ聞こえた。
それは恐怖によるものではない。
あまりの屈辱と、限界を超えた怒りによって、喉の奥からせり上がってきた呪詛の塊。
「ふざけんな……ふざけんなよ、このクソウサギがぁああああ!!」
ドォン! と、残った結界の床を蹴り上げて、ボロボロに引き裂かれたヴィクセンが飛び出してきた。
美しいタキシードは泥と血に汚れ、自慢の九つの尾は無残に逆立っている。
荒い息を激しく吐き出しながら、その細い眼窩に宿る怨嗟の瞳で、真を――いや、真の肉体を乗っ取っているラビットを狂暴に睨み付けた。
「私の完璧な舞台を壊しただけでなく! この私に、この千両役者の私に傷をつけやがって! テメェええ! ブッ殺してやる!!」
完全に頭に血が上り、怒り心頭となったヴィクセン。
先ほどまでの艶めかしいオネエ言葉はどこへやら、剥き出しの敵意を荒々しい言葉遣いに変え、弾丸のような速度でラビットへと突撃していく。
対するラビットはといえば、激しい吐血と骨折でボロボロになった真の肉体の有様を、他人事のように見つめていた。
「うむ。腕と足が折れているな。どうやらカルシウムが足りないようだ」
「『バカなの!? あんた本当にバカなの!? 何がカルシウムよ!!』」
大事な、本当に大事な弟の身体を、まるで大型トラックに正面衝突されたかのような惨状にされて、システム内部のまどかも完全にキレる一歩手前だった。
しかし、ヴィクセンの猛襲はその怒声さえも置き去りにする。
「死ねや! クソがぁあああ!!」
肉薄。
ヴィクセンの腕が容赦なく振るわれた。
その指先から伸びる、大鎌のように巨大で鋭利な爪が、無防備に立つ真の肉体を容赦なく貫く――はずであった。
「――はあ?」
隔離空間に、ヴィクセンの間の抜けたような声がぽつりと響く。
手応えは、ゼロ。
大鎌の爪が引き裂いたのは、ただの空気だった。
ウサギの面をつけた真の身体は、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、霧を裂くようにしてその場から掻き消えてなくなったのだ。
「だから言ったろう。君は人をうわべだけしか見ず、その中身を知ろうとしない、と」
「ハッ! ざまぁみやがれ、良い気味だなぁクソ狐!」
唐突に、ヴィクセンの真後ろから二つの声が重なって聞こえた。
冷徹で合理的な真の声。
そして、それを愉しそうに囃し立てるライアーの邪悪な声。
「――っ!?」
驚愕に目を見開き、ヴィクセンが光速で振り返る。
しかし、それよりも遥かに速く、あらかじめ仕込まれていた「絶対の合理」が起動した。
「――レグルス!」
真の短いコール。
刹那、あらゆる場所から無数の蒼白の蛇が這い出るようにして、眩い「規律の鎖」が鋭く飛び出した。
それは一切の不条理を許さない絶対的な法。
ヴィクセンが回避行動をとるよりも速く、その細身の身体を、四肢を、九つの尾を、雁字搦めに縛り上げた。
「な、にこれ……動けな、嘘、これは、『規律の……鎖』……!?」
「これで幕締めだ、千両役者」
レグルスの鎖に身動きを完全に封じられたヴィクセンを見据え、真が静かに宣告する。
その手にはいつの間にか、ウサギの面ではなく、本来の彼の武器である魔道書――『真実を綴る書』が握られていた。
「ふざけるなぁああああああッ、私が、この私がこんなところでぇえええ!!」
縛られ、地に引き摺り下ろされながらも、ヴィクセンは狂ったように叫び、呪詛を撒き散らす。
だが、その悪あがきを完全に塗りつぶすように。
真の掲げた魔道書から、世界そのものを書き換えるような、圧倒的な銀の輝きが解き放たれ、不条理に歪んだ識蘊の箱庭を真っ白に照らし出した。




