No.73 聖母の代償(サクリファイス)、あるいは甘美な浸食
No.73 聖母の代償、あるいは甘美な浸食
体育祭の熱狂が去り、学院には学芸祭に向けた独特の浮き足立った空気が流れ始めていた。
しかし、2ーCの教室だけは、重く沈んだ沈黙に支配されていた。
中央に立つ真は、痛む足首を庇いながら、クラスメートたちに嘘偽りない現状を報告した。
「……まあ、しゃあねぇんじゃねーか。お前にしては熱くなってた気もするが、それも祭りの熱ってやつだろ」
「そうそう。まことくんが頑張ってたのはモニターで見てたし、格好良かったよ」
「階段をぽーんと飛び降りた時は、見てるこっちがハラハラして声出ちゃったもん」
クラスメートたちの反応は概ね好意的だった。
真の懸命さを責める者は一人もいない。だが、現実は残酷だった。
「でも、僕は主役だ。この足では舞台に立てない。代役を立てるか、演出を大幅に変えるしか……」
その言葉が出た瞬間、教室の温度が数度下がった。
脚本担当の生徒が、冷や汗をかきながら台本を捲る。
「ええっと、ここの殺陣を削って、出番を回想シーンに回せば……」
「ちょっ、ムリムリ! まことくんの代わりなんて誰もできないって!」
「台本を今から書き換えるのは、時間的に絶望的だよ……」
説得を試みるものの、代役を買って出る勇気のある者はいない。
真は陣頭指揮官として、脳内で幾つものシミュレーションを重ねる。脚本の改変、演出の簡略化、あるいは棄権――。
その思考を強引に止めたのは、静かに、けれど決定的な「音」と「匂い」だった。
「すみません。失礼いたします」
鈴を転がすような透明な声。
そして、沈んだ空気を塗り替えるような、甘く陶酔を誘う花の匂いが、一人の少女と共に教室へ流れ込んできた。
「ああ、よかった。やっぱり、こちらにいらっしゃいました」
「……九尾ヶ坂さん」
シークレット鬼ごっこに出場していた、競技中一年の「聖母」と称された九尾ヶ坂麗。
その彼女が、なぜここに。
「どうしたの? 僕たちのクラスに何か用事かな」
「はい。昨日の体育祭で私を追いかけていたせいで、先輩が足を負傷されたと聞きまして……。学芸祭の劇で主役をなさることも存じておりましたから、どうなったか確認に伺いました」
「……見ての通りだ。先生からは止められている。降板して代役を立てるつもりだけど、まだ決まっていないんだ」
真がクラスメートたちを見渡すと、皆が気まずそうに視線を逸らした。
九尾ヶ坂はその様子を静かに観察し、微笑むようにわずかに口角を上げた。
「無駄にならなそうで、よかったです」
「無駄? 何が?」
「先輩たちの出番は明日の午後ですよね。私のクラスは明後日の午前です。……ですから、私なら『時間』が取れます」
その提案の意味を、真は瞬時に理解した。
理解してしまった。
「ちょっと待って、九尾ヶ坂さんの方だって主役だろう? 代役なんて頼めるわけが――」
「大丈夫ですよ。私の方は主役と言っても、ほとんど台詞も出番もありませんから。なにより、クラスの方たちにはちゃんと許可をいただいて参りました」
物腰は柔らかい。
けれど、一切の拒絶を許さない「圧」がそこにはあった。
真は助けを求めるようにクラスメートへ視線を送る。
「いや、うーん……」
「どうなの、みんな」
「問題は、ないとは思うけど……一年に主役を任せるのは……」
歯切れの悪い反応に対し、九尾ヶ坂は畳み掛けるように言葉を重ねる。
「先輩に無理をして舞台に上がっていただくのは気が引けますし、代役を立てられるほどの人員もいらっしゃらないようです。私なら、指示さえいただければ問題なくこなせる自信があります。そして、なにより」
彼女は真を真っ直ぐに見据え、その「仮面」の裏側にある光を覗き込むように言った。
「弟妹たちが、お世話になったのです。旺隼や小燕が、先輩には特によくしていただいたと家でも話しておりました。その恩返しを、私にさせていただけませんか?」
「お世話って……ジュースを奢った程度だよ」
「その『程度』でも、私にとっては大切なことなのです。……それでもと言うのであれば、今回は機会がなかったと引き下がらせていただきますが」
押し付けがましくなる寸前で、スッと身を引く。
その鮮やかな引き際に、クラスメートたちの「申し訳なさ」と「期待」が限界まで膨れ上がった。
「……リーダーはまことだ。お前がどうするか決めろ。俺たちはそれに従うよ」
それは、クラス全員の運命を真の肩に預けるという宣告だった。
真はしばし黙考し、動かない右足の疼きを感じながら、決断を下した。
「……わかった。みんなで頑張ってきたものを、僕のせいで終わらせたくない。九尾ヶ坂さん、迷惑をかけるけれど……お願いしてもいいかな」
「はい。お任せください」
花が綻ぶように笑う彼女。
教室を包んでいた暗雲が、一瞬にして祝福の光に塗り替えられた。
その時だった。
「『――――』」
真の耳に、まどかの声が届いたような気がした。
不穏な、あるいは何かを警告するような響き。
真は隣で浮遊する姉に目をやる。
「(何か言った、姉さん?)」
「『え? 何も言ってないわよ。どうかした?』」
まどかは心底不思議そうに、いつもの調子で首を傾げているだけだった。単に空耳だったのか。
「では、時間もありませんし。通し稽古をしながら、全体の把握をさせてください」
こうして、主役の座は九尾ヶ坂麗へと引き継がれた。
トラブルの末に掴み取った「解決策」。だが、真の胸の奥には、正体不明の違和感だけが沈殿していた。
九尾ヶ坂麗の「通し稽古」が始まった。
彼女は自ら宣言した通り、真の指示を一度聞くだけで完璧に己の血肉へと変えていった。
しかも、その演技は回を重ねるごとに洗練され、研ぎ澄まされていく。
彼女の何が凄まじいのか。それは「場の空気を支配する力」に他ならなかった。
本来、素人である学生たちの演技には必ず揺れが生じる。
セリフの間の取り方、視線の泳ぎ、声の震え。
しかし、九尾ヶ坂はそれらをすべて計算し尽くしているかのように、相手に合わせて自分の出力を微調整し、相手を立て、舞台全体の流れを一本の美しい糸のように繋ぎ合わせていく。
それは、プロの演出家が魔法をかけているのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な調和だった。
「……おお、おおおっ! なんだいまの!? すっげー気分良く演じられたぞ!」
「見てるこっちも別人に見えた……! え、どういうこと? 私たち、こんなに上手かったっけ!?」
クラスメートたちの反応は、戸惑いと興奮が入り混じっていた。
自分たちの中に眠っていた「才能」を、彼女の手によって無理やり引きずり出されたかのような、心地よい錯覚。
「……凄いな。あれは、僕にはできない」
真は独白のように呟いた。
真自身、相手の思考を読み、誘導する術は持っている。
だが、麗のそれは質が根本的に異なっていた。
彼女は「誘導」しているのではない。
周囲を彼女の創り出す「虚構」の中に完全に同化させているのだ。
「ふぅ……。もう流れは掴みました。あと数度やれば、台本なしでも大丈夫です」
九尾ヶ坂の額から、真珠のような汗が滴り落ちる。
その白磁の肌が上気しているのを見て、真は我に返った。
「いや、一旦休憩しよう。九尾ヶ坂さん、もう連続でやってるじゃないか。疲れも出ているはずだよ」
「ありがとうございます。ですが……もう少しだけ、やらせてください。皆さん、すみませんがもう一度、最初からお願いします」
彼女の凛とした声に、クラスメートたちは弾かれたように持ち場へ戻る。
拒否感など微塵もない。
むしろ、彼女が作り出すあの「心地よい空間」に早く戻りたいと願っているかのように。
『――僕たちは、なぜ役割を与えられているのだろう』
九尾ヶ坂の台詞が放たれた瞬間、教室の空気は再び演劇の世界へと変貌した。
真は止めようとした声を喉の奥へ押し込み、パイプ椅子に深く座り直した。
その瞬間、忘れていた右足の激痛が走り、思わず奥歯を噛み締める。
「『まこと。痛いの?』」
「……少しね。やっぱり、無理はできないか」
主役の座を奪われた悔しさか、あるいは己の不甲斐なさか。
真が残念そうに呟くと、隣で浮遊していたまどかが、不思議そうに彼を覗き込んだ。
「『ねえ、まこと。なんで……右目を押さえてるの?』」
「右目……?」
指摘されるまで、自分でも気づいていなかった。
真の右手は、無意識のうちに己の右目を強く覆い隠していた。
あたかも、そこから漏れ出す何かをせき止めるように。
あるいは、そこから見える「何か」を拒絶するように。
真は震える指を退け、周囲を観察した。
そこには、九尾ヶ坂麗と共に、熱に浮かされたような表情で演技に没頭するクラスメートたちの姿があるだけだった。
だが、その光景が、いまの真の瞳にはひどく歪んだ、色彩の欠落した「書き割り」のように映っていた。




