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No.74 落日の追跡者、あるいは聖母の凱旋




 No.74 落日の追跡者、あるいは聖母の凱旋




 『九尾ヶ坂麗選手か! 繭住真選手か! いま、歴史的瞬間の決着が着くぅうううう!!』


 鶏島の絶叫が、講堂の壁を震わせる。


 モニターを凝視する全校生徒は、瞬きすることさえ忘れていた。


 砂煙が舞うモニターの向こう側。


 そこには、先にセットへ到達していた生徒たちと手を取り合い、聖母のような微笑みを浮かべる九尾ヶ坂麗の姿があった。


 そしてその数メートル手前――。


 無慈悲な勝利のバロメーターが振り切れる音と同時に、力なく地面にうずくまる真の姿が映し出された。


 『おおっと!? 繭住真選手、地面に倒れている! どこか負傷したか!? 救護班! 救護班、至急確認をお願いします!』


 鶏島の声に弾かれたように、待機していた運営側の生徒たちが真へと駆け寄る。


 激しい呼吸を繰り返す真に数言確認を取り、その足首を見た救護担当が、周囲にバツ印を出した。


 モニターが、赤く大きく腫れ上がった真の右足首を無慈悲にアップで映し出す。


 『あれはもしや……! 先ほど、二階分近い階段を飛び降りた際、一瞬だけ顔をしかめていた。あれが原因か!? 判断は――ダメだ! ドクターストップ! 2ーC・繭住真選手、ここで無念の負傷退場(リタイア)です!』


 『ふふ、競技に夢中になりすぎて、怪我を負ってしまったようですね。熱中するのは構わないのですが、皆さんもお気をつけください』


 凰千鶴のたおやかな声が、残酷なまでの正論として響く。


 『繭住真選手、リタイア! しかしまだ、チェイサー側は他にも残っている! エスケイパーもミッションをクリアし、残り時間はあと十五分を、いま回った! さあ、逃げ切るか! それとも全滅か! まだ予断を許さないぞ!』




 「『……無茶したわね。まあ、まことにしては珍しく積極的に動いてたから、お姉ちゃんからのお説教はこれぐらいにしておくわ。で、本当に大丈夫なの?』」


 「……ちょっと、足の痛みがひどい。折れてはいないと思うけど……まともに歩くのは無理そうだ」


 「『ひどい捻挫ね。専門家じゃないから素人判断はダメだけど、あそこに救護の先生がいるみたいだから、処置ついでにしっかり診てもらいなさい』」


 真は救護班の生徒に肩を貸され、設置された救護テントへと引きずられるように向かう。


 無念さと痛みが混ざり合う、苦い沈黙。


 そこに、風を切るような足音が近づいてきた。


 「先輩! お怪我をされたんですか?」


 九尾ヶ坂麗だった。


 先ほどまでデッドヒートを繰り広げていたとは思えないほど、乱れのない呼吸。


 彼女は、負傷した上級生を純粋に案ずる後輩――そんな完璧な「仮面」を貼り付けて駆け寄ってくる。


 「……九尾ヶ坂さんを追うのに、少し無理をしただけだよ。それより、まだ競技中だ。僕のことはいいから、集中した方がいい」


 突き放すような真の言葉に、麗はふわりと、どこか超然とした微笑を浮かべた。


 「そうですね。でも、あれほど私を追い詰められる方が、今のこの場所に他にいるとは思えませんので。たぶん、もう大丈夫ですよ」


 それは余裕か、自信か。あるいは、真という脅威を排除したことへの確信か。


 彼女は一礼すると、軽やかな足取りで再び喧騒の渦中へと戻っていった。


 「『……底知れない子ね』」


 去っていくその後ろ姿を見送って、まどかがポツリと呟く。


 その声には、実体のない幽霊である彼女ですら感じ取る「冷たさ」への警戒が混じっていた。


 「いっ……!」


 不意に、鋭い痛みが真を襲った。


 足の捻挫とは違う、もっと内側を抉るような熱い痛み。


 「『まこと、大丈夫!? 足!?』」


 「大丈夫だよ、姉さん。ほんの少し……痛みが走っただけだから」


 「『そう? ならいいけど。顔色が悪いわよ』」


 まどかは心配げに真の顔を覗き込む。


 真は、自分でも気づいていなかった。


 激痛に耐えかねて反射的に手が向かった先が、捻挫した足ではなく、自らの右目の部分であったことに。


 喧騒から切り離された救護用のテントに一歩踏み入ると、そこには消毒液の匂いと共に、鋭い、それでいてどこか懐かしい威圧感が漂っていた。


 「随分と派手にやらかしていたな、繭住」


 低く、よく通る声に真は肩を跳ねさせた。


 そこにいたのは、かつて規律局の頂点に君臨し、学院の秩序そのものだった女性。


 「『志那ちゃん!?』」


 「獅子井先輩……っ!?」


 「そう驚くことか? 局から退いたとはいえ、これほどの大規模行事だ。人手の要請があれば私とて動く」


 獅子井志那都は、現役時代と変わらぬ凛とした佇まいで真を見据えた。


 白衣を羽織った彼女は、迷いのない足取りで真のそばに歩み寄る。


 「さて、怪我であったな。見せてみろ」


 「はあ……お願いします」


 促されるままに、真は折りたたみ椅子に腰を下ろした。


 痛む右足を差し出すと、獅子井はその前に膝をつく。


 真の脳裏に、かつて彼女に傷を癒やしてもらった記憶が鮮明に蘇った。


 「こうして手当てをするのは二度目か……。よくよく縁があるということなのだろうな。……少し捻るぞ」


 「くッ……!!」


 不意に走った激痛に、真は奥歯を噛み締め、漏れ出しそうな悲鳴を必死に飲み込んだ。


 獅子井の指先は驚くほど繊細で、正確に患部の状態を探り当てていく。


 彼女は真の表情から痛みの度合いを読み取ると、傍らに控えていた救急医へと視線を向けた。


 「捻挫です。先生、確認をお願いします」


 「獅子井さんが診たなら平気だと思うけど」


 「いえ、私はあくまで経験上からの判断です。資格もありませんし、素人判断に過ぎませんから」


 獅子井が謙遜して席を譲ると、医師が真の足首を慎重に触診し始める。


 数秒の沈黙の後、医師は困ったように眉を下げた。


 「うーん、これは全治一週間ってところかしら」


 その言葉に、真の心臓がどくりと跳ねた。


 「すみません。僕は学芸祭の方にも参加する予定なのですが……可能ですか?」


 「動きは激しいの?」


 「……演劇で、主役を務めます」


 一縷の望みをかけて問うた真に対し、医師は無情にも首を横に振った。


 「うーん……。医者として言わせてもらうと、やめなさい。少なくとも二、三日は痛みでまともに歩くことすらままならないわよ」


 「『そんな……』」


 目の前が真っ暗になるような絶望感が、救護所の空気を重く沈ませる。


 主役が舞台に立てない。


 それは、積み上げてきた準備のすべてが崩れ去ることを意味していた。


 静まり返ったテント内に、突如として地鳴りのような咆哮が響き渡った。


 学院全体を覆い尽くすほどの、爆発的な歓喜の声。


 「……どうやら、競技の方が終わったようだな」


 獅子井が静かに呟いたその瞬間、スピーカーからノイズ混じりの終了合図が鳴り響く。


 『シークレット鬼ごっこ、終了です! 勝者はエスケイパー! 繰り返します、勝者はエスケイパーです!!』


 放送が流れた瞬間、真の脳裏には一人の少女の姿が鮮烈に浮かび上がった。


 九尾ヶ坂麗。


 勝利を手にしたはずの彼女。


 けれど、真には確信があった。


 今、大歓声の中でスポットライトを浴びているであろう彼女の顔には、心からの喜びなどではなく、仮面のような、張り付いたような不気味な笑顔が浮かんでいるはずだと。


 勝鬨の声が遠くで鳴り響く中、真は動かない足を見つめ、苦い沈黙に沈んでいった。









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