No.77 空虚な慈愛、あるいは無機質な鏡
No.77 空虚な慈愛、あるいは無機質な鏡
真は九尾ヶ坂家の弟妹たちを連れて職員室へと向かい、滞在の許可を取り付けた。
「そうなのかい? ならば一時避難という形で処理しておこう。今日も暑いし、熱中症も怖いが、子供だけで帰すのも危ないからね」
幸い、職員室にいた教員は融通の利く人物だった。
放送で麗を呼び出してもらう間、真は子供たちを廊下のベンチに座らせ、ひとまず一息つかせることにした。
「すみません、繭住さん。飲み物まで奢っていただいて」
「いいんだ。僕が勝手に連れてきたようなものだから」
真は、これまでのタスク(学院からの依頼)で、使わずに貯めていたポイントを使い、自販機で子供たちの人数分の飲み物を買い与えた。
「おにいちゃん、ありがとう! おいしいよ」
「『そう。よかったわねぇ~、さよちゃん! 遠慮しないでいっぱい飲むのよ!』」
末っ子の小燕がジュースを喉に鳴らすのを見て、まどかがとろけるような声を出す。
真が飲み物を買い与えた理由の半分以上は、まどかからの(物理的な干渉を伴わない)絶え間ない命令によるものだったが、それは伏せておくのが正解だろう。
しばらくすると、廊下に慌ただしい靴音が響いた。
「旺隼くん!? え、梓鶴ちゃんに虎河くん、それに小燕ちゃんまで……どうしたんですか? もしかして、何かあったんですか!?」
現れた九尾ヶ坂麗は、顔を蒼白にして駆け寄ってきた。
その表情、声の震え、指先の動き――真の目には、それは完璧な「家族を深く案じる聖母のような姉」に映った。
「あ、れいちゃん!」
小燕は麗を見つけるなり、ジュースを握ったまま全力で駆け出し、その腰に抱きついた。
「『ああ……さよちゃん……さよちゃんが……』」
最愛の存在を奪われたかのように哀愁を漂わせる姉に、真は呆れを通り越して憐れみを覚えた。
そもそも認識すらされていない相手に対して、まどかが求めている感情のやり取りは成立しようがないのだ。
「麗ねぇ、すみません。小燕がどうしても麗ねぇに会いたいって聞かなくて……」
「そうなの? 小燕ちゃん、どうしたの?」
麗は小燕の目線に合わせて膝をつき、優しく問いかける。
「れいちゃん、おうちにいないの。いまはなつやすみだって、まいちゃんいってたよ」
「そう。舞蝶ちゃんが言う通りにお休みなんだけど、私はクラスのみんなと学芸祭に向けての準備があるの。ごめんなさいね、寂しい思いをさせて」
麗は「妹の駄々に困る姉」として、小燕にも分かる言葉で根気強く諭している。
しかし小燕は、溜まっていた寂しさを爆発させるように頬を膨らませ、言葉にならない抗議を続けていた。
その様子に苦笑を漏らしながら、麗はふと提案する。
「クラスの方たちと、私がどんなことをしてるか、少し見てみる?」
小燕は少し考え、コクリと頷いた。「……みる」と短く答えた彼女は、次に、隣で静かに立っていた真の制服の裾をぎゅっと握った。
「おにいちゃんも、いっしょ」
「小燕ちゃん。先輩もお忙しいんだから、ご迷惑をかけてはダメよ」
「いや。おにいちゃんも!」
一度火がついたわがままは止まらない。
小燕の強固な意志に、麗は困り果てたような顔で真を見上げた。
その表情は、どこからどう見ても「手に負えない妹のわがままを申し訳なく思う、良き姉」のそれだった。
「申し訳ありません、先輩。もしお時間があるなら……少しだけ、お付き合いをいただけませんか?」
「『まこと、行きなさい! さよちゃんと一秒でも長く一緒にいるためよ! 行くわよ!』」
目的意識がどこかへ飛んでいってしまった姉の叫びはともかく、真は携帯端末を取り出し、今日登校しているクラスメイトに連絡を入れた。
「――ええ。すみません、少し遅れます。ええ、用件は済ませてから合流します」
通話を終え、真は小燕に告げた。
「少しだけなら、いいよ」
その瞬間、小燕の表情がパッと花が開いたように明るくなる。
まどかはその笑顔を見て、背後で勝利の小躍りをしていた。
「ありがとうございます、先輩。ほら、小燕ちゃんも先輩に『ありがとう』って言いましょうね」
「ありがとう、おにいちゃん!」
麗は小燕と共に、丁寧な動作で真に頭を下げた。
微笑みながらそれに応える真。
だが、その視界に映る麗の姿は、周囲の人間が見ているものとは決定的に異なっていた。
(……彼女、一切感情が動いていないな)
目尻の下げ方も、声のトーンも、指先の振るえも、すべてが「完璧なレスポンス」として出力されているだけだ。
妹のわがままに困るという状況に対し、最も適切な回答を演算して吐き出しているだけの機械。
それはかつて、心を伽藍堂にしていた真自身が、他者と関わるために用いていた手法そのものだった。
(九尾ヶ坂麗……君も、僕と同じか)
目の前の「聖母」が、中身のない空虚な器であることを、真は改めて確信していた。
九尾ヶ坂家の弟妹たちに連れられ、真は麗のクラスの教室へと足を踏み入れた。
室内では、数人の生徒たちが熱心に芝居の稽古に励んでいた。
どうやら麗のクラスも、真たちのクラスと同様に学芸祭では演劇を披露するらしい。
あちらが「現代の歪み」を描くオリジナル劇なら、こちらは古典をベースにした物語のようだった。
舞台は平安。鳥羽上皇が一人の美女に深く溺れていく、狂おしくも美しい伝説。
「玉藻、玉藻の前はどこにおる。姿を見せよ」
舞台に見立てた教壇付近で、上皇役の男子生徒が切実な声を上げて周囲を見渡す。
すると、少し離れた場所で椅子を御簾に見立てて座っていた麗が、伏せ目がちに、しかし通る声で応じた。
「鳥羽様。私は、ここでございます……」
「おお! 玉藻、何ゆえそのような場所に隠れておる。さあ、もっと近くへ。こちらへ寄って参れ」
「『……寄ってこいって割には、結構強引に引きずり出してるわね。何この劇、権力にモノを言わせて女の子を侍らせる、パワハラ全開な物語なの?』」
「(……解釈が極端ですよ、姉さん。これは九尾ヶ坂が演じる玉藻前が、上皇を誘惑して国を意のままに操ろうとし、最終的に陰陽師・安倍晴明に正体を見破られて退治される物語です)」
「『ふーん。甘いラブロマンスかと思わせておいて、最後は正体を現したモンスターをぶっ倒すバイオレンス・アクションなのね。……あながち九尾ヶ坂さんに合ってるかもしれないわね、その役』」
真は「バイオレンス」という表現に首をかしげたが、麗が「化け物」を演じるという点においては、否定しきれない何かを感じていた。
そんな中、隣で静かに姉の演技を見ていた旺隼が、真の顔をじっと見つめて声をかけてきた。
「……繭住さん。麗姉さんとは、本当にただの『顔見知り』なんですか?」
「少しばかりの、ね。それがどうかしたかな?」
「……いえ。麗姉さんは、学院でもずっと『あんな感じ』なんですか?」
旺隼の問いかけに対し、真は慎重に思考を巡らせる。
彼が姉のどの部分を指して「あんな感じ」と言っているのか。
その真意を測りかね、真は言葉を選んで返した。
「……それは。彼女が場所や相手によって、態度を使い分けている……と言いたいのかい?」
できる限り、麗を中傷しないような婉曲的な表現。
だが、旺隼はそれを遮るように、静かな、しかし確信に満ちた声で告げた。
「いえ。……もっとはっきりと、機械的だとか、心がないと言っていただいて構わないんですよ」
真の背筋に、冷たい感覚が走った。
身内であるはずの弟の口から出た、あまりに身も蓋もない「姉」への評価。
それは、先ほど真が確信したばかりの「伽藍堂の器」という結論と、完璧に一致していた。
「……麟太郎って言う、うちで一番下の弟がいるんです」
旺隼は、舞台上で「玉藻前」を完璧に演じる姉から目を逸らさず、ポツリと漏らした。
「あいつ、まだ幼いんですけど、麗姉さんのことを『お人形みたいだ』って言ったことがあって。その時、姉さんは困ったような顔をして笑ってました。でも、僕にはそれが……どうしても笑っているようには見えなかった」
旺隼の表情に、耐え難い苦渋の色が混じる。
「麗姉さんがいつからああなのか。あるいは、いつからああなってしまったのか……。麗姉さんの次に年上の驍馬兄さんにも聞いてみましたが、覚えがある限り、最初からああだったと。他の兄弟――ここにいない舞蝶姉さんや、蒼狼、紗羚にも確認したことがあります。……みんな、麗姉さんの『あれ』を、薄々理解していました」
家族全員が、一人の姉の異常性を共有し、沈黙の中でそれを受容している。その事実に、真は微かな戦慄を覚えた。
「末っ子の小燕は、まだ理屈では分かっていないみたいです。でも、本能で察しているんでしょうね。だからあんな風に、わざとわがままを言って姉さんを困らせて、どうにかしてその感情を揺さぶろうとしている……そんな気がするんです」
九尾ヶ坂家の子供たちが、なぜあれほどまでに麗に執着し、群がるのか。
それは「消えそうな姉」を必死に繋ぎ止めようとする、無意識の防衛本能なのかもしれない。
「家族は、もうあの空虚さに慣れてしまいました。でも、学院の人たちから見れば、あれは『気味の悪いもの』に映るんじゃないか。家族思いな虎河は特にそれを恐れています。だから、繭住さんに強い警戒心を向けてしまった……あいつなりに、麗姉さんの正体を守ろうとしたんだと思います」
「……なぜ、僕にそんな話をするんだい?」
真の問いに、旺隼は一瞬、自分でも計りかねるというように言葉を詰まらせた。
「……なぜでしょうね。小燕が繭住さんに懐いたからかもしれませんし、単に……麗姉さんの知り合いだと言ってくれたあなたに、麗姉さんを誤解してほしくなかっただけかもしれません。……すみません。自分でも、よく分からないんです」
そう言って力なく笑う旺隼の顔は、あまりに年相応で、危うかった。
真は何も答えず、視線を舞台へと戻した。
そこでは、国を滅ぼす大妖怪を演じる少女が、今この瞬間も「誰からも愛される完璧なヒロイン」としてのレスポンスを返し続けている。
(……彼女に、心はない)
旺隼の言葉をなぞるように、真は思考を沈める。
愛する家族にすら「中身がない」と断じられながら、それでも「姉」という役割を全うし続ける彼女の在り方は、果たして救いなのか、それとも終わりのない刑罰なのか。
真は、自分の中にある「伽藍堂」と、彼女のそれを重ね合わせながら、夏の陽炎に揺れる舞台を静かに見つめ続けていた。




