No.78 灼熱のアンサンブル、あるいは重なる影
No.78 灼熱のアンサンブル、あるいは重なる影
九月に学芸祭と体育祭という二大行事を控えているにもかかわらず、学院の教職員たちは非情だった。
彼らは「夏季休暇」という名の空白を、更なる試練――すなわち膨大な量の宿題で埋め尽くしたのである。
「バカじゃねぇのか、教師陣はよう! こんだけ課題出されたら、まるまる夏が終わっちまうじゃねえか!」
教室で配られたプリントの束を叩き、宇賀が盛大に憤慨する。
しかし、教壇に立つ九頭見は表情一つ変えない。
「ならば宇賀、代わりに君は夏休みの間、学院に来て授業をするか? 私は一向に構わんが」
「……すみません。勘弁してください。宿題を、どうか少しでも減らしてください」
「断る。休みの間の課題は、授業を行わない代わりだ。それが嫌なら毎日登校して講義を受けるか。二つに一つだ」
九頭見の冷徹な正論に、宇賀は力なく崩れ落ちた。
「『コタロー。若いうちの苦労は買ってでもしろ、って言うでしょう。要は「諦めなさい」ってことよ』」
まどかの言葉は微妙に諺の使い方が違う気もしたが、真はその意図を正確に理解していた。
「まあまあ琥太郎。学芸祭の準備で集まる時にでも、みんなで知恵を絞って片付ければいいじゃないか」
「まこと……お前、なんていい奴なんだ……!」
感激に震える宇賀を見ながら、まどかが呆れたように呟く。
「『そのうち「おお、心の友よ……!」とか言い出しそうよね、コタローは』」
「(……姉さん、それ劇中にセリフとしてありますよ)」
「『ウソ!ホントに!? うわ、ホントだわ! お姉ちゃん予言者になっちゃったじゃない!』」
冗談で言った言葉が台本通りだったことに、まどかも驚きを隠せないようだった。
こうして真は、怒濤の勢いで夏季休暇へと突入していった。
休みに入っても、真のルーティンは揺るがない。
いつもと同じ時間に目覚め、朝食を作り、自分も休みたいとぐずる美弥を「ほら、お仕事ですよ」となだめて送り出す。
家事を一通り済ませてから、ようやく学院へと向かうのが真の夏だ。
夏季休暇中とはいえ、学院内には驚くほど多くの生徒の姿があった。
「おはよう。すごいね、他のクラスもかなりの人数が来ているみたいだ」
「おはよう、まことくん。お盆の頃には半分以下になるんだろうけどね」
「そうそう。始めのうちだけだよ。人がいるうちに終わらせておかないと、宿題まで重なったら宇賀じゃないけど屍の山ができちゃうから」
作業の手を休めずに答えるクラスメイトたち。真の指揮のもと準備は進んでいるが、スケジュールは常にギリギリの線を綱渡りしている状態だ。
「『まあ、未完成なら未完成なりに「味がある」って言われるのが学生の劇よ。お金を取ってるわけじゃないんだから、そこまで完璧主義にならなくてもいいのに』」
身も蓋もないまどかの言葉に、真は苦笑いを禁じ得なかった。
一週間、また一週間と時間は容赦なく過ぎていき、夏がその最盛期を迎えたある日のこと。
その日、真は午前中に用事を済ませ、午後から登校していた。
学院の校門付近まで来たとき、真は足を止めた。
中学生、あるいは小学生くらいに見える子供たちが数人、校門の影から中をチラチラと覗き見ていたからだ。
「『あら、あの子たち、どうしたのかしら。山の方へ行くにしても、こっち側には校舎裏を抜けるルートしかないわよね?』」
困り事だろうか。
最近の真は、以前よりも積極的に他者と関わろうとする変化を見せ始めていた。
彼は自然な足取りで、子供たちに声をかけた。
「どうかしたの――」
真の言葉が、途中で凍りついた。
「『うわ……これ、絶対ゆるふわちゃんの関係者だよ』」
まどかの直感は正しかった。
そこにいた子供たちの顔立ちは、九尾ヶ坂麗の面影をそのまま縮小したかのように、驚くほど彼女と酷似していたからだ。
声をかけてきたにもかかわらず、急に石像のように固まった真を見て、小さな「九尾ヶ坂」たちは不思議そうに首を傾げた。
「……おねちゃん、どうしたの?」
石像のように固まっていた真を、一番小さな女の子―が、不思議そうに首を傾げて見上げてきた。
「ばか小燕。麗ねぇと違う服だろ。この人は男の人だ。……申し訳ありません、うちの妹が失礼を」
中学生くらいの、眼鏡の奥に聡明そうな光を宿した男の子が小燕の勘違いを正した。
叱られた小燕は「おうくんが、バカっていった……」と口を尖らせ、今にも泣き出しそうな様子で潤んだ瞳を真に向ける。
「『いいのよ、お嬢ちゃん。さよちゃんって言うのね? 大丈夫よ、うちのまことがナヨナヨしてて紛らわしいのが悪いの。気にしないでいいわよ~』」
まどかが、もはや誰にも見えないことを忘れているかのような猫なで声で、触れることのできない小燕の頭を慈しむように撫でている。
「(……ナヨナヨしてて悪かったですね。僕はただ、人より少し筋肉がつきにくいだけなんですよ)」
真はまどかだけに聞こえる皮肉を内心で返しつつ、子供たちに威圧感を与えないよう、ゆっくりと膝を折って視線を合わせた。
「君たちは、九尾ヶ坂麗さんのご家族かな?」
「はい。僕たちは麗姉さんの弟と妹です。僕は旺隼。九尾ヶ坂旺隼と言います。こっちのは――」
「……虎河」
紹介を遮るように短く名乗った、小学生くらいの男の子は、真を射抜くような鋭い視線を向けていた。
口下手というよりは、家族に近づく不審な男を警戒している番犬のような眼差しだ。
「ごめんなさい、先輩さん。虎河くんは少しシャイな男の子なので、初対面の方にはつい、こんな態度を取ってしまうんです。私は梓鶴と申します」
虎河の不作法をたしなめるように、古風な落ち着きを纏った中学生くらいだろうか、少女がフォローを入れた。
彼女もまた、麗に似た優雅な気品を感じさせる。
「僕は、二年の繭住真。九尾ヶ坂さんとは少し顔見知りでね。今日は、彼女に何か用事で来たのかな?」
真が尋ねると、旺隼が少し言いよどみ小燕を見た。
その隣で小燕が我慢できないといった様子で口を開く。
「あのね、れいちゃんね、なつやすみなのに、ずっとおうちにいないの。さより、れいちゃんとあそびたいの!」
「『そうなの~! さよちゃん寂しいのね、分かるわよ~。よーし、お姉ちゃんが代わりにいっぱい遊んであげちゃうぞ~!』」
「(……姉さん、残念ながらあなたは僕以外には認識されませんよ)」
かつての祈里寧々子の時もそうだったが、まどかは小さな子供が絡むと思考能力が一気に低下する悪癖がある。
透明な姉が虚空で小燕をあやしている光景を想像し、真はズキズキと痛むこめかみを押さえた。
姉、麗の帰りを待ちわびて、わざわざ学院まで足を運んできた幼い弟妹たち。
この「幸せな家族の光景」が、なぜか真の胸をざわつかせた。
九尾ヶ坂が家を空けてまで学院で演じている「役割」の重さを、改めて突きつけられたような気がしたのだ。
「それじゃあ、そっちの小燕ちゃんが寂しくなっちゃったから、ここまで来た……ということでいいのかな?」
「はい。学院に来たところで麗姉さんに会えるとは限らないよ、とは言ったのですが……」
旺隼が困ったように眉を下げると、その袖を引いて小燕が不安げに尋ねた。
「れいちゃん、いないの……?」
その潤んだ瞳を見せられては、真でなくとも胸が痛む。
そして、その感情を誰よりも爆発させたのは、真の隣に立つ不可視の姉だった。
「『まこと。お姉ちゃん命令よ。今すぐ校舎へ、さよちゃんたちを連れていきなさい』」
「(……姉さん。たとえ家族だとしても、部外者の不必要な立ち入りは禁止されているはずですよ)」
「『そんなことは分かってるわよ! そうじゃなくて、この暑さを見てなさい。さよちゃんをこんな炎天下に放っておいたら、熱中症で倒れちゃうじゃない。そっちの方が一大事でしょ!』」
まどかの放った、あまりに「正論すぎる正論」に、真は思わず目を丸くした。
常に論理的であろうとする真も、この人道的な緊急事態には反論の余地を見出せない。
「……分かりました。君たち、この暑さだ。一応の対策はしてきているみたいだけど、小さな子もいるしね。僕から先生には話しておくから、ひとまず校舎の中に入ろうか」
「えっ? よろしいんですか? その、ご迷惑では……」
旺隼が申し訳なさそうに遠慮するが、真は苦笑いを浮かべて首を振った。
「ここで放っておくと、後で僕の耳元でうるさく騒ぐ人がいるんだ。気にしなくていいよ」
「『うるさいとは何よ、うるさいとは! 乙女の真心って言いなさいよ!』」
まどかの抗議を無視し、真は校門を潜った。
「は、はあ……。では、お言葉に甘えさせていただきます」
促された九尾ヶ坂兄妹は、真の背中を追って歩き出した。
先頭を歩く真と、その後ろをちょこちょこと連なって歩く子供たち。
その光景は、あたかも真の背後に「尾」がいくつも連なり、揺れているようでもあった。
真夏の日差しが生み出す焼けつく熱気も、 校舎の扉が開いた瞬間、嘘のように押し流される。
その奇妙な一行は冷房の効いた校舎という「異界」、もしくは「口を開けた獣の中」へと吸い込まれていった。




