No.160 深淵のカレー、あるいは星海への緊急避難
No.160 深淵のカレー、あるいは星海への緊急避難
転校初日から様々な出来事を経験した真、まどかの二人は、夕日の赤い光が完全に闇と変わり、辺りに街灯が暗闇に沈む町並みを点々と照らし、家々から漏れる家族を迎える暖かな光、そして夜空を彩る星々の輝きの中、家路についていた。
家の前まで行くと玄関先の電灯が煌々と二人の帰りを待つように点けられている。
二人は保護者であり同居人の美弥がもう帰宅しているの事に驚いていた。
「『……美弥ちゃんがもう帰ってる……えっ!? これ、大丈夫なの?』」
玄関先の電灯が、手ぐすねを引いて待つ主人のように煌々と輝いている。
仕事で遅くなるはずの同居人、美弥が既に帰宅しているという異常事態。まどかは期待よりも先に、「何かとんでもないことが起きているのではないか」という本能的な恐怖を抱き、透けた身体を細かく震わせた。
真が無機質な手つきで玄関の扉を開け放った、その瞬間だった。
鼻腔の奥に錆びた鉄の棒をねじ込まれたような、あるいは脳髄を直接汚物で殴打されたような、言語を絶する「異臭」が津波となって二人を襲った。
「『まこと! これ絶対美弥ちゃんがやらかしてる! はりー! はりー! 早く止めないとこの家が地図から消えちゃうよぉ!』
まどかは鼻をつまみ、涙目で真の背中を激しく叩く。
だがその手は質量を持たず、虚しく真の身体をすり抜けるだけだ。
対する真は、五感のスイッチを半分オフにしたかのような無表情のまま、玄関で靴を脱ぎ、ミリ単位の狂いもなく揃えてから、異臭の源泉たるリビングへと歩を進めた。
「あ、まーちゃんおかえり。今ご飯作ってるから、その間に手洗いうがいをしてきて」
キッチンでは、エプロン姿の美弥が、煮込み料理らしき「何か」を大きな鍋でお玉を使い、ぐるぐると回していた。
その動作は優雅ですらあるが、鍋から立ち昇る蒸気は明らかに、食卓に並ぶべきものの色彩をしていなかった。
「『……美弥ちゃん、なに作った──ぐわぁっ!?』」
好奇心に勝てず鍋を覗き込んだまどかが、断末魔のような叫びを上げて目を押さえ、フローリングの床に倒れ込んだ。
ジタバタと身悶えするその姿は、まるで強力な毒ガスを吸い込んだ小動物のようだ。
「『目が……!? 目がぁぁ……!?』」
真は美弥に何を作っていたのか淡々と問うた。
「え? カレーだけど? 匂いでわからない?」
美弥は不思議そうに小首を傾げた。
その表情は純粋そのものであり、自らの生み出した錬金術的な失敗作への自覚は微塵も感じられない
美弥が作っていたものはカレーだと言うと、まどかは床からすっくと立ち上がり。
「『美弥ちゃん。カレーって言うのはもっとスパイシーな匂いがするものでしょう! そんなくさや(食べたことないけど)やシュールストレミング(こっちも食べたことないけど)みたいな匂いはしないでしょう!』」
まどかは美弥が作ったカレーに、幽霊特有のオーバーリアクションで憤慨を見せる。
「『え~~、美弥ちゃん。あなた~~、いったいカレーにカレーの具材以外にもなにを入れたんですか~~?』」
どこかで見覚えのある名探偵のような手つきで額を叩きながら、美弥を問い詰めるまどか。
真の方もキッチンの中を見回す。
市販のルーの空き箱、肉、玉ねぎ……。
視覚情報の中に異常は見当たらない。
美弥にここにあるもの以外の材料を使ったかを尋ねた。
美弥は「んー、市販の材料以外使ってないわよ」と答えて、まどかからは「『嘘だ!』」と突っ込まれ。
ひとつ忘れてたと言うような顔をしてから──
「愛情はいれたわ。テヘッ」
──と、愛嬌ある顔をしたが、その瞬間、まどかと真の間には、獅子井志那都がその場に降臨したかのような絶対零度の静寂が走った。
美弥の愛嬌は、氷結の処刑人の腕章に刻まれた『規律』の一文字に粉砕され、霧散したかのような、そんな凍てつく沈黙だった。
真は、この不条理を物理的に解析すべく、小指の先に一匙のカレー(と美弥が呼ぶ、形容し難き物質)を掬い、口に運んだ。
「『……まこと、大丈夫?』」
まどかがカレーを一口食べた真を心配そうに見つめるが、真は微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
それは数秒。
あるいは、永遠にも等しい停滞。
「『……ま、まことが、真っ白に燃え尽きてる……』」
真の意識は、その一口が舌に触れた瞬間に味覚神経を蹂躙した、酸味と苦味と「存在してはいけない熱量」の暴風雨に耐えきれず、銀河の果てへと緊急避難していった。
「『規律局長は!』」
「『絶対零度!』」
「『全身凍結!』」
「『歩く校則!』」
「『見よ! あれが氷結の処刑人獅子井志那都なりー!』」
冥王星辺りか意識を取り戻した真はリカバリー不可能な『物体エックス』を鍋ごと封印して、新たに自分で料理を作ることにした。
その際に美弥には手伝わなくて良いから座ってて欲しいと戦力外通知を勧告。
リビングのテーブルの椅子に座らされた美弥の横でまどかは、その美弥の肩をポンッと置くようにして。
「『美弥ちゃん…。ボクらのような料理下手にカレーなんて、宇宙を凝縮するような難易度の高い料理は、そもそも無理だったんだよ……。大人しくレトルトに頼ろう……?』」
それが励ましなのか、決定的な死刑宣告なのかは誰にも分からない。
そしてキッチンでは真が、一から「人間が食べられる料理」を作り始めていた。
その手捌きは、先ほどの美弥の混沌とは対照的に、きわめて「きちんとした」ものだった。
夕食が終わり、真が洗い物をしている頃、暇を持て余したまどかは、リビングの隅で妙な動きを始めた。
それは、某師弟関係にある格闘家が行う儀式のような武踊……。
いや、重力から解き放たれたタコが盆踊りを踊っているような、あるいは軟体動物が未知の信号を受信して悶えているような、言語化を激しく拒絶する動きだった。
もし、美弥がまどかの今の姿を見ていたら、腹筋が壊れるほど大笑いをしていたことだろう。
だが、その滑稽な舞踏は、ただ静かなリビングの空気を、意味もなく掻き回すだけに終わった。
片付けが終わり入浴を済ませた真は、美弥に挨拶をしてから自室へと戻ろうとしたところ、美弥は電話をしているところだった。
「えっ!? キツネさん例の件オッケ!? ありがとう助かる~。じゃああとでURL送っておくから、そこから一緒に送るIDで登録を済ませてね。いい、絶対だからね、約束よ!」
美弥は電話口に真の姿を見かけると、電話をしながら手を振る仕草をしていた。
真はその「キツネさん」という妙な名前に一瞬だけ思考のリソースを割いたが、すぐに「家族の交友関係」というフォルダに放り込み、自室へと足を向けた。
「『ほらまこと、明日の準備をしちゃいない。忘れ物があってもお姉ちゃん知りませんからね』」
部屋に戻るなり、まどかは口うるさい姉、あるいは世話焼きすぎるオカンと化して、真の周囲をせわしなく飛び回った。
そんな声が届いたとは思えないが、真は明日の定期学外清掃の準備を行うのであった。
そしてその準備が整うと掛けていた眼鏡をナイトテーブルへ『カタンッ』と置き。
天井の電気のスイッチを押すと、静かに電灯は消えていく。
真はベッドに潜り込むと、そっと目蓋を閉じる。
明日、北王子の森で待ち受けている「お楽しみ」が何であれ、今はただ、泥のような眠りが必要だった。
静まり返った部屋の中で、幽霊の少女だけが、何かを思うように暗闇をじっと見つめていた。




