No.161 黄昏のプロトコル、あるいは影の舞踏
No.161 黄昏のプロトコル、あるいは影の舞踏
「『……うわぁ。ねえ、見てよ。空が、燃えてるみたい……』』
まどかが燃えるような茜色の空を見上げて、不安げに呟いた。
まどかが真に触れようと伸ばした指先は、夕暮れの淡い朱色を透かし、虚しく空を切る。
昼と夜の境界線――逢魔が時。
「『でも、なんだかこの時間って、世界が少しずつ削られて、なくなっちゃいそう。……ねえ、怖くないの?』」
真はその問いに答えない。
影が長く、濃く伸びる校庭を、一定の歩幅と無機質なリズムで横切っていく。
乾いた土の匂いと、放課後の熱気が冷めていく空気。
自閉した彼の意識にとって、この終末的なまでに美しい黄昏の色彩さえも、意味を持たないただの視覚情報、あるいは処理されるのを待つだけの「色彩データ」に過ぎなかった。
その時、前方から「――おーい、撤収だぞ! 片付け入れー!」という声と、砂を蹴る音、金属製の用具がぶつかり合う音。
残光の中に溶け込んでいた人影の中から、聞き覚えのある声が真の名を呼ぶ。
「あれぇ? まことくんじゃん、どうしたのこんな時間まで?」
足を止めた真の視界に、陸上競技用のハードルやスターティングブロックを片付けていた一団がいた。
その中の一人、スポーティーに短く切られた髪に、ジャージの袖を捲り上げていた女子生徒が、流れる汗を拭きながら、こちらに気づいて歩み寄ってくる。
真は近寄ってくる女子生徒に「だれ?」と言う感じに首を傾げた。
「あたしだよ! 同じクラスでとなりの席の!」
そう言われなんだか覚えがある人物だと納得する真だった。
そんな真に女子生徒は肩を落としながら、自分も名前も告げていなかったことを思い出し、照れ隠しのように自分の鼻先を指差す。
「あ、えっと……兎束。兎束雛! もー、初日からこれ? あたしってそんなに影が薄いのかな、それともまことくんの関心が薄いのか……間違いなく後者だよね」
「『あはは……。初日から隣の席の子を忘れちゃうなんて、ぷんすかもんだね。でも、雛ちゃんって子、なんだか元気いっぱいで眩しいなぁ……』」
まどかが苦笑いしながら、兎束の周りをふわふわと蝶のように漂う。
もちろん兎束の瞳にはまどかの姿も、その声も届いていない。
真は記憶の引き出しの隅から、今朝のホームルームで隣に座っていた宇賀と共に話していた女子生徒だと言うのを思い出した。
真は感情の起伏がなく、淡々とした声で、兎束に思い出したと呟く。
兎束は呆れたように笑いながら、手にしたタオルで首筋の汗を乱暴に拭った。
「そうだよ、忘れないでよね。……で、こんな時間まで何してたの? さっき局長がグラウンドの方を巡回してたから、見つかってたら大変だったよ。あっ、局長って、獅子井先輩って人なんだけど、この学院の風紀員をしてる人なんだ、で、その人に目をつけられたら、初日から居残りで『規律の再確認』コース確定なんだから」
兎束の言葉に先程獅子井に会ったことを告げると。
「えっ!? 会ったの!? なにもされなかった!?」
「『あはは……。いまの雛ちゃん、完全にワン子ちゃんと同じリアクションしたね。やっぱりあのポニテちゃん、この学校のラスボス扱いなんだ……』」
まどかが可笑しそうに、けれどどこか引きつった笑みを浮かべて兎束の周りを回る。
兎束は、真が「さっきテラスで会った」と淡々と答えるのを聞いて、まるで心臓が止まりかけたかのように自分の胸を押さえた。
その瞳には、真が無事であることを奇跡だとでも言いたげな、驚愕の色が浮かんでいる。
「無事……なんだよね? 魂抜かれたり、正座のしすぎで膝が笑ったりしてない? あの局長だよ? 取得したポイントで学院の生徒のみならず先生に至るまでの風紀の取り締まり権限を得たって、あの、歩く校則、鋼鉄の女、氷結の処刑人って言われてる。あの獅子井先輩だよ!?」
兎束は信じられないといった様子で、真の顔をまじまじと覗き込んだ。
そして真がまったく変わらない、感情の起伏がない無機質な表情のままであることに気づくと、呆れたように、あるいは感心したように、大きく息を吐いた。
「……そっか。まことくん、ある意味最強なんだね。普通、転校初日にあの人とサシで話して、そんな平気な顔してられる人いないもん。宇賀なんて、局長の足音が聞こえただけで、廊下の角を曲がって逃げるんだから」
「『コタロー、そこまで……? でも分かるよ、ボクもさっき、自分が消えてなくなるかと思ったもん……』」
まどかは先程の獅子井との邂逅を思い出し、その体が揺れ霞む。
「『でも……そんなすごい権限を持ってるってことは、やっぱりあの人、ただの怖い先輩じゃないんだね。歩く校則、かぁ……。ボクのこの姿も、校則違反とか言われて消されたりしないよね?』」
まどかは自分の透ける腕をさすりながら、冗談めかして首をすくめた。
しかし、その瞳の奥には、獅子井が放っていたあの『正しさ』への根源的な恐怖が、澱のように残っている。
兎束はそれまでの驚愕を少しだけ脇に置くと、手にしたタオルで首筋から流れる汗を拭い、真剣な眼差しを彼に向けた。
その表情には、クラスメイトとしての純粋な懸念が混じっている。
「局長は……獅子井先輩は、たしかに厳しいよ。でも、悪い人じゃないんだ。ただ、ある事件があってから、あの日から――」
兎束は言いかけて、言葉を飲み込んだ。大口から聞いた凄惨な過去を知る由もない真に対し、どこまで話すべきか迷ったのだろう。
兎束は、沈みかけた夕日に目を細め、無理やり明るいトーンで言葉を継いだ。
「とにかく! 明日の学外清掃、あんたも参加するんでしょ? 無理して局長に近づく必要はないからね。あたしら陸上部も、現場の整理とかで駆り出されるだろうし。……あ、そうだ。明日の場所、宇賀から聞いた? あいつ、意地悪して言わなかったでしょ」
「『あっ、そういえばコタロー、明日のお楽しみとか言ってニヤニヤしてた!』」
まどかが思い出したように指を鳴らす。
「場所はね、学院の裏にある『北王子の森』の境界線あたりだよ。あそこには『空因寺』って言うお寺があるの、ちょっとしたハイキングコースにもなっていて、ちっちゃい子達ともかも結構登っていたりするんだ。でも、そこの周りの森って結構不法投棄する人が多いのよ。だがらその子達が怪我とかしないように、あたし達が定期的に清掃活動するって言うのがあるの」
「『お寺、ハイキングコース……。なんだか、今日聞いた話の中では一番まともというか、爽やかな響きだね。……でも、コタローがニヤニヤしてたのが気になるなぁ。ただのゴミ拾いを『お楽しみ』なんて言うかな?』」
まどかは期待と不安が半分ずつ混ざったような顔で、空に浮かぶ。
「……まあ、落ちているものはその時によって大なり小なりってところね。去年なんか宇賀のバカはポイント欲しさに、大きな冷蔵庫一人で抱えて持っていこうとしてたからね。もしそんなの大きなもの見つけたら、他の人に声かけなさいよ。無理しても良いことないから」
「『れいぞうこ……。コタロー、ポイントのためなら怪力無双になっちゃうわけ? というか、お寺の周りに冷蔵庫が落ちてるって、それハイキングコースとしての難易度が高すぎない!?』」
まどかは呆れたように頬を膨らませ、冷蔵庫を背負う宇賀の姿を想像してクスクスと笑った。
しかしすぐにその笑みを収め、兎束の横顔をじっと見つめる。
「とにかく! 明日は軍手と、汚れてもいい靴を忘れないこと。まあ、軍手は忘れても学生会の人達が用意してくれてるけど、それでも余分に持っていた方がいいからね。わかった?」
真は感情の起伏を一切見せず、短く、無機質な承諾を返した。
兎束にとっては拍子抜けするような返事だったかもしれないが、彼にとってはそれが精一杯の『合意』の示し方だった。
そうして話していると、顧問であろうか。
兎束がいつまでも話し込んでいたために「兎束ー! こっちの手伝いをしろー!」と、声を掛けてきた。
「やっば、怒られちゃった。じゃあまた明日ね」
「『じゃなあねー、雛ちゃん』」
彼女は走り去ろうとする兎束に手を振りながら声を掛け、彼もまた片付け頑張ってと、声を掛けた。
その掛け声を聞いた兎束が表情が少しだけ歪んだように見えたが──
「うん! ありがとう、ガンバってくるよ!」
──と、笑顔で返したことから黄昏時の光によって見えた幻のようなモノだったかもしれないと、真はその思考をノイズとして処理した。
「『……ねえ。いまの、雛ちゃん。……一瞬、すごく悲しそうな顔に見えなかった?』」
駆け出していく兎束の伸びた影が、地面に揺れる芒の間を縫って、奇妙な舞踏のように跳ねていく様に見え、それを見送りながら、まどかがポツリと呟いた。
夕闇のグラウンド。
残光がまどかの姿をさらに薄く透かし、その表情に不安な影を落としている。
「『……いま「頑張って」って言ったとき。雛ちゃん、なんだか……とても遠いものを見ているみたいな目をしてたよ』」
真はその言葉に、視線さえ動かさなかった。
真がそれを無機質に口にしたのは、ただの処世術――儀礼的なプロトコルでしかなかったのだから。
「『……ねえ。もしかして、この学校の人たち……みんな、何かを演じてるのかな?』」
まどかの囁きは、風が土を撫でる音に混じって消えていく。
真はその言葉を、意味を持たないノイズと同じように聞き流した
真にとって、兎束にかけた『頑張って』という言葉は、特定の感情を乗せた応援ではない。
相手が期待するであろう音を、適切なタイミングで出力しただけの、ただの『音響データ』に過ぎないのだから。
真は一度も振り返ることなく、濃くなっていく夜の闇へと、その無機質な一歩を踏み出した。




