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No.162 灰色の残響、あるいは凍土に咲く戒め




 No.162 灰色の残響、あるいは凍土に咲く戒め




 「……し、死ぬかと思いました……。まさか『氷結の処刑人(アイス・メイデン)』こと獅子井局長にエンカウントするなんて、今日という日は私の運勢、大凶を超えて絶滅の危機ですよ……」


 大口はテーブルに額を叩きつけるようにして突っ伏し、消え入りそうな声で呻いた。


 先ほどまでの、世界を冷笑的に観察していた快活な情報屋の面影はどこにもない。


 そこにあるのは、理不尽な天災に打ちのめされ、羽をもがれた小鳥の無様な姿だった。


 「『本当だよ!  なにあの人、歩く絶対零度?  触れただけで魂が凍ってバラバラに砕け散りそうだったよ……。ねえ、生きてる?  ボクたち生きてるよね!? まだこの世界の一部として形を保ってるよね!?』」


 真の背中から恐る恐る顔を出したまどかは、自分の体をペタペタと触りながら生存確認を行っている。


 もちろん、その指先は虚空を虚しく撫でるだけだが、必死な様子だけは十分に伝わってきた。


 真はうなだれる大口と獅子井が立ち去った店内の方を交互に見て、ようやく肺に溜まっていた冷たい空気を吐き出した。


 獅子井志那都、彼女が放っていた『規律』という名の重圧は、去った後もなお、このテラスに薄氷のような緊張感を残していた。


 「『ワン子ちゃん。あの人になにしたの!? って言うかなにされたの!? やっぱ拷問!? 爪を剥がされたり電気を流されたりしたの!?』」


 まどかの矢継ぎ早な、想像力のたくましすぎる問いかけに対し、大口はすぐには答えられなかった。


 ただ、無意識に右手を額に当て、苦渋に満ちた表情でこめかみを押さえている。


 まるで、脳の奥深くに刻み込まれた「不快な記憶の棘」が、再び疼き出したかのようだった。


 「……たはは、お見苦しいところをお見せしました、あ、あの……さっきの志那都さんの言葉、真に受けちゃダメですよ?」


 大口が、錆びついた機械のような動作で、のろのろと顔を上げた。


 その瞳には、恐怖を通り越した諦念と、どこか深い傷跡のような色が混じっている。


 「規律に違反しなければ寛容、なんて。あの人にとっての『規律』は、この学院の校則だけじゃないんです。彼女の基準で少しでも『悪』と判断されたら最後、……風紀の特別指導室。通称、『反省房』に連れてかれ、規律を守る正しさと、それに違反することへの悪様の説教という名の精神汚染マインド・コントロールコース、あるいは奉仕活動という名の強制労働コースが待ってるんですから……。嗚呼、思い出すだけで胃酸が逆流しそう……」


 「『うわぁ……。やっぱりブラックだ。氷結の処刑人、名前負けしてないね……。絶対その反省室、壁に「タスケテ」とか「かゆ……ウマ」とか、血文字とか書いてあるやつだよ……』」


 まどかはブルブルと大袈裟に身震いをし、真の肩に顔を埋めた。


 大口は乱れた髪を整えようとして、自分の手がまだ微かに震えていることに気づき、苦笑いしてその手を、真から見えないようにテーブル越しに隠した。


 そして、無理やり居住まいを正し、情報屋としての「仮面」を貼り直そうと試みる。


 「まあ、とはいえ。志那都さんの人柄は『融通がまったく利かない生真面目な人』の極致なので。私のように怯えなくて大丈夫ですよ。あれでも本当は、彼女なりの『慈愛』に満ちた人なんですから」


 憔悴しきった顔で、必死に獅子井をフォローする大口。


 その言葉は、救いようのない絶望を美しい包装紙で包んでいるような、歪な響きを持っていた。


 「『優しい!? どの口が言ってるのさワン子ちゃん! ついさっきまで絶滅の危機とか言ってたじゃない! 詐欺だよ、それ絶対、新手の詐欺だよ!』」


 背中のまどかが身を乗り出して抗議するが、大口は力なく、しかしどこか遠い記憶の底を覗き込むような目で微笑んだ。


 「……先程の鍵のお話なんですが、私、その鍵を探しにあちこちに奔走してまして、その際に彼女の家は江戸時代にまで遡れる程に古い家柄なので、もしかしてそこにあるかなぁって……」


 「『……まさか…不法侵入……を……!?』」


 まどかが驚愕のあまり、透けた体をさらに薄くして絶句した。


 大口は、乾いた笑いを喉の奥で鳴らしながら、視線を泳がせ。大口は、思い出すのも恐ろしいと言わんばかりに肩をすくめた。


 「結局、不法侵入者として捕まる前に、偶然(?)帰宅した彼女に玄関先で見つかりましてね。『貴様の不純な動機は、その瞳の濁りが証明している。門をくぐる前に、まずはここで三時間、己の罪を数えろ』と言われ……」


 「『……それって、玄関先で正座させられたってこと?』」


 「……三時間、微動だにせず吹雪の中で『規律と公徳心』についての講義を拝聴させられたんですよ。傘も差さずに」


 大口の言葉に、真は思わずこめかみを押さえた。


 暴力で追い払うのではなく、法と規律の正論で相手を屈服させる。


 まさに獅子井らしい、逃げ場のない『教育』だ。


 「『……吹雪の中で、三時間も? それ、普通に生命の危機じゃない! やっぱりあのポニテちゃん、中身はゴリゴリの軍人か何かなの!?』」


 まどかが幽霊らしからぬ必死さでツッコミを入れるが、その叫びは誰の耳にも届かない。


 テラスに響くのは、遠くで鳴る校内放送のチャイムと、大口の震える吐息だけだった。


 真は、大口の憔悴しきった様子を見つめながら、「獅子井は軍人か何かの家系なのか?」と短く問いかけた。


 大口は遠い目をして、力なく首を振る。


 「軍人ではないですが、志那都さんの家系は代々、この十王市を守る警察官を排出している家なんです。家系図を遡れば江戸時代には同心をしていたと、お話を聞いたことがあります。それに志那都さんの場合、あれは心からの『善意』なんです。本気で私の魂を浄化しようとしている……。あの真っ直ぐな瞳で見つめられながら正論を叩き込まれるのは、どんな拷問器具にかけられるよりも精神を削られますよ」


 大口は、まるで冷気が今もそこにあるかのように自分の腕をさすった。


 隣でまどかが「『善意が一番タチ悪いよぉ!』」と身悶えしているが、大口の視線は虚空を通り抜け、ただ真の瞳の奥、その暗がりに焦点を合わせていた。


 「ですが、その三時間の『講義』の最中……私は見てしまったんです。彼女がふと視線を逸らした先は、実家の奥に鎮座する古びた蔵を。あの吹雪の中でも、そこだけがさらに深い闇に沈んでいるような、妙な威圧感がありました」


 大口の表情から、おどけたような色が急速に消えていく。


 代わりにあるのは、深淵を覗き込んでしまった者特有の、冷ややかな確信だった。


 「彼女は言いました『あの場所は、『穢された場所』だ。取り壊したい所だが、私としても色々な意味で思いでのあり。戒めとなる場所でもある。出来れば立ち寄らないで貰いたい』って、そこで私はあって、思ったんです。志那都さんには……ここから先は有料情報ですから、悪しからず」


 「『……ちょっと! ここで有料!?  空気読んでよワン子ちゃん! ボク、今めちゃくちゃいいところだと思って身を乗り出してたんだよ!?』」


 まどかが虚空をポカポカと叩きながら抗議するが、当然その声は大口には届かない。


 まどかの指が、まるでノイズのように大口の鼻先を通り抜けていく。


 彼は感情の動かない冷めた瞳を向け、人の事情に首を突っ込むつもりはないと、返事を返した。


 「『うおいっ!? 気にならないの!? ボクは気になるよ! 木になるくらいに気になるよ! 聞けー! 聞けー! 情報を聞き出せー!』」


 何やら意味の分からない言葉を吐くまどかは、真の周りで「『聞け、聞け、』」と、まるでダンスを踊るように騒ぎ立てる。


 しかし、真はその喧騒さえも遠い世界の出来事のように、ただ視線を低く落としていた。


 「……そうですか。人の事情には首を突っ込まない。それはまた、この十王市では賢明な生き方かもしれませんね」


 大口は拍子抜けしたように瞬きをすると、唇の端を少しだけ吊り上げた。


 真から放たれる、他者への関心の希薄さ――。


 それは、情報屋として数多の人間を見てきた大口にとっても、少しばかり異質に映ったようだ。


 「ですが、今日の情報はすべてサービスと口にした以上は、これだけは置いておきます。……いつか、まことくんが志那都さんの『規律』に深く触れる日が来るかもしれない。その時のための、優しい先輩から転校してきて間もない後輩に贈る、ただの予備知識とでも思ってください」


大口は、テーブルの中央に身を乗り出した。彼女の影が、傾き始めた夕日に長く伸び、真の足元を侵食していく。


 首元まで顔を近づけた大口。


 その口元が、獲物を喰らう獣のように、そっと開いた。


 「……志那都さんが『穢された場所』と称したあの蔵。あそこはかつて、彼女の両親が殺害された場所なんです」


 「『…………えっ?』」


 それまで騒いでいたまどかの動きが、石化したようにぴたりと止まった。


 「志那都さんの父親は、かつて警察官として、とある軽犯罪者を捕らえました。ですが、その男はあろうことか志那都さんの実家を襲い、その場で志那都さんの両親を手にかけた。……正当な法執行が、最悪の結果を招いてしまったんです」


 大口の声は、夕暮れのテラスに、氷の礫のように冷たく響く。


 「志那都さんにとって、あそこは消したくても消せない不条理の象徴。自らへの『戒め』として、あの日犯人が持ち込んだ『悪意』を、彼女は『穢れ』と呼んで封じ続けている。……小さな罪が、いつか取り返しのつかない不幸に繋がる。彼女が異常なまでに規律に執着するのは、その恐怖に今も縛られているからなんですよ」


 大口の告白を聞いても、真は眉ひとつ動かさなかった。


 同じように家族を亡くし、心の奥底で何かが決定的に壊れてしまった真にとって、その凄惨なエピソードは『何処にでもあるよくある出来事』でしかなかった。


 他人の痛みに共鳴する回路は、とっくの昔に焼き切れている。


 ただ、目の前の大口が発する言葉が、真の中に沈んでいる泥のような虚無感を、かすかに揺らしただけだった。


 「『……そんな……。あんなに怖い人なのに、そんな……悲しい理由があったなんて……』」


 まどかが自分の肩を抱くようにして、消え入りそうな声で囁いた。


 まどかが獅子井の境遇に共感の涙を流しているのに対し、彼にとってそれは、獅子井志那都という人間性の「構造」を理解するための、単なる付随情報に過ぎなかった。


 大口はそこで言葉を切り、再び髪を整えて立ち上がった。


 「……さて、長居しすぎました。私もこれ以上ここにいると、本当に自分まで『戒め』の対象にされてしまいそうですから。また。気が向いたら、今度は情報を買ってくださいね」


 大口は軽やかな、それでいてどこか逃げるような足取りで、今度こそ雑踏の中へと消えていった。


 夕闇のテラスに残されたのは、冷え切った紅茶の香りと、誰にも届かない幽霊の囁きだけ。


 「『ねえ……。ボク、なんだか苦しいよ。……ねえ、聞いてる? あんな話、聞いちゃったら、もう普通の顔してあのポニテちゃんに会えないよ……』」


 まどかが真の肩口から覗き込み、縋るような声を上げる。


 しかし、真はようやく重い腰を上げると、大口が残していった情報を、感情の伴わない無機質な記号として記憶の奥に仕舞い込んだ。


 真は一度も振り返ることなく、夕闇に溶けゆくテラスを後にした。






















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