No.82 選択の天秤、あるいは賑やかな不協和音
No.82 選択の天秤、あるいは賑やかな不協和音
夏休み明けの九月の末に行われる、「体育祭」と「学芸祭」。
九頭見からの通達以来、学院内はこの「体育祭」と「学芸祭」の話題で持ち切りとなっていた。
平穏という名の膜に包まれた北王子学院において、この二大行事は数少ない「公式な狂騒」であり、生徒たちにとって楽しみの場であった。
「俺? 俺は去年ボイコットしてやらかしたからな。今年は意地でもどっちかには出るぜ」
休み時間、宇賀が自席にふんぞり返りながら宣言した。
朝の悶絶が嘘のような、彼らしい切り替えの早さだ。
「俺的には、学芸祭でバンド仲間を呼んでライブ一発ぶちかますのが理想だけどな。……まあ、俺以外はここの関係者じゃねえから、外部の立ち入りは無理だろう。だから、無難に体育祭の方にするわ」
消去法による、至極現実的な選択。
それを聞いたまどかが、真の肩越しに首を傾げた。
「『え、なに? 学芸祭って、出し物とか決まってるものじゃないの? 普通、クラスで演劇とか模擬店とかやるでしょ』」
まどかの至極まっとうな疑問を、真はそのまま宇賀へと横流しする。
「学芸祭は、クラス単位での出し物はないのか?」
「ああ。基本は個人か有志のグループ申請制だな。舞台に上がって何か披露するのがメインだ。去年は劇をやる連中もいれば、一人だけで延々と歌ってるやつもいたらしいぞ。自由と言えば聞こえはいいが、要はパフォーマンスの場ってわけだ」
「なるほど。自己表現の場というわけか。……そうなると、学芸祭に人が偏りすぎた場合、体育祭の方は何を行うんだ?」
真の問いに、宇賀は「それか……」と言葉を詰まらせ、周囲のクラスメイトを巻き込んだ。
「おい、誰か知ってるやついるか? 去年の体育祭」
「知ってるよ。くじ引きでチームメンバー作ってやった野球大会。参加人数に応じて、その年にやる種目を決めてるみたいだね」
「おれも聞いた話だと、数年前は『十王市マラソン』とか言って、ただ市街地を延々と走らされる行事もあったらしいぞ」
クラスメイトたちの言葉に、宇賀が顔を引きつらせた。
「……マジか。当たり外れがありすぎじゃねえか。だからって、一人で舞台に立つのも勘弁だしな。……なあ、一緒にやるか? まこと」
宇賀の視線が、期待を込めて真を捉える。
真は思考を巡らせた。
時間は、コンマ数秒も必要なかった。
今の彼にとって、「選択」を迷う理由はどこにもない。
「構わないよ。両方やるつもりではいたから」
その瞬間、宇賀だけでなく、周囲の喧騒がふっと止まった。
宇賀は、未知の生物でも見るような目で真を凝視し、引き気味に声を漏らす。
「……おまえ、両方って……。いや、いいんだけどよ。おまえ、マジか?」
積極的すぎる真。
かつての「効率の塊」だった彼を知る者にとって、それは明らかな違和感だった。
だが、今の真が浮かべている柔らかな笑みがあまりに自然で、かつ完璧であったため、宇賀は「……まあ、これが今のまことなんだろうな」と、飲み込まれるように納得してしまった。
「『まこと……両方って、本気?』」
まどかの声だけが、喜びと不安の入り混じった複雑な響きを伴って、真の耳元で震えていた。
真は再確認のため職員室に訪れ、九頭見に両方参加の意思を伝えると。
「……本気か、宇賀。繭住ともかく」
「なんで俺は正気を疑われてるんスッかね!?普通こっちもでしょう」
一緒についてきていた宇賀に疑惑の目を向けた九頭見だが、すぐにいつもの事務的な表情に戻る。
「参加は個人の自由であり、その結果生じる負担もまた自己責任だ。学院としては、やる気のある生徒を拒む理由はない」
九頭見は淡々と説明を済ませる。
「知っての通り、体育祭・学芸祭それぞれの優勝者、および最優秀パフォーマーには、鳳グループから『特別な進呈物』が用意されている。将来の進路に対する強力な推薦状か、あるいは望むだけのポイントか。……お前が何を求めているのかは知らんが、精々、壊れない程度に励むことだ」
「ありがとうございます。全力を尽くします」
真が深く一礼して職員室を出ていくと、宇賀が待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「聞いたかよ、まこと! 鳳グループからの進呈物だぜ。あそこのグループが出すもんだ、ただのトロフィーなわけがねぇ。人生勝ち組のチケットみたいなもんだって手に入るって噂だしな」
宇賀の目は、期待と野心で輝いている。
この学院の生徒にとって、鳳グループの評価を得ることは、この「十王市」という閉じた世界で勝者になることを意味していた。
「『まこと……本当に大丈夫? 無理してない?』」
まどかの声が、不安げに真の意識を叩く。
かつての「空虚な弟」なら、そもそも優勝という概念に興味すら持たなかっただろう。
だが今の彼は、鳳グループという強大な存在が示す「価値」に対して、驚くほど素直に、あるいは貪欲に反応している。
「大丈夫だよ、姉さん。僕は今、自分がどこまで『できる』のか、確かめてみたいんだ」
真は宇賀に聞かれないよう小さくまどかに返事を返した。
その思考の端々に、如是和尚が語った「流れ」という名のエネルギーが、黒い泥のように静かに渦を作り出し始めていることに、彼自身はまだ気づいていなかった。
「で、学芸祭の方は何やるんだよ? 体育祭はまだなにするか決まってねぇみたいだけど、ステージの方は一人じゃきついぜ?」
「……そうだね。琥太郎と一緒にできることがあればいいんだけど」
「お、おう! 任せろ。こうなったら俺とお前で、最高に『北王子』らしい、ぶっ飛んだ出し物を考えてやろうじゃねぇか!」
宇賀の威勢のいい声が静かな廊下に響く。
その賑やかな不協和音の中で、真だけが、窓の外に広がる十王市の景色を見つめていた。
その視線の先には、街のどこからでも見える鳳グループの巨大な本社ビルが、沈黙を守ったまま聳え立っていた。
真は自分の携帯端末を取り出し、タスク一覧から『体育祭。学芸祭参加の申し込み』の項目を見つけ、なんら迷いなく『両方』の項目を選択し、送信完了の表示が淡く灯る。
それは未来の自分に届かせるように。




