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No.83 深まる情愛、あるいは加速する摩滅




 No.83 深まる情愛、あるいは加速する摩滅




 朝の光が差し込むキッチンで、真はいつものように立ち働いていた。


 正確な角度で包丁を下ろし、寸分の狂いもなく食器を並べていく。


 その一連の動作は相変わらず「完璧」ではあったが、以前のような、ゼンマイ仕掛けの機械が刻む無機質なリズムとはどこか違っていた。

 

 味噌汁の出汁の香りを確かめる際にふと見せる、微かな満足げな口元。


 いつもなら思考停止して選ぶはずの朝の番組を、リモコンを数回押して「吟味」してから決定する指先。


 そこには、かつての彼には欠落していた「情緒」という名のゆらぎが、確かな体温を持って宿り始めていた。


 「あ、姉さん。見て、この人。確か学院の理事長代理の方じゃなかったかな」


 真が箸を休め、壁掛けのテレビを指差す。


 画面の中では、上品な和服に身を包んだ老婦人が、朝のワイドショーのコメンテーターとして、穏やかな、それでいて有無を言わせぬ威厳を湛えて微笑んでいた。


 「『……あ! ホントだ。このおばあちゃん、清掃ボランティアの時に来てた人だよ。うんうん、覚えてる。すごく優しそうな人だったもんね』」


 まどかが真の隣へふわりと寄り添い、画面を覗き込む。


 彼女の声は明るく、弾んでいた。


 昨夜の闇の中での葛藤など微塵も感じさせないほど、彼女は完璧に「真の理想とする姉」を演じていた。


 「最近、よくテレビで見かけるな。……代わりに、旦那さんの方はテレビへの露出が少なくなっているみたいだけど」


 真が何気なく口にした言葉に、まどかが顎を乗せるようにして空中で頷く。


 「『あー……そういえばそうかも。前はよく出てたもんね。政治家の、ほら、国の偉い人と一緒に』」


 「神蛇(かんじゃ)首相のこと? 確かに、あの首相は事ある毎に、彼を『代えがたい盟友だ』とか口にしていた記憶があるね」


 真はどこか楽しげに、世間話に花を咲かせる。


 かつての彼なら、政治家の名前も企業のトップも、ただの「記号」として処理していたはずだ。


 それが今や、隣に座る姉と共通の話題を分かち合うための「彩り」へと変わっている。


 「『あのおじいちゃんの方、病気でもしたのかな? 最近、顔色もあまり良くなかったみたいだし』」


 「どうだろう。公式な発表は何も出ていないし、そんな噂も耳にしたことはないけど」


 真はそう言って、いつもより少しだけ贅沢に素材を選んだ朝食を口に運んだ。

 

 以前であれば、会話は事務的な確認事項だけで終わっていた。


 それが今では、テレビの向こう側の見知らぬ権力者の体調を案じたり、かつての記憶を照らし合わせたりといった、豊かではあるが、一見無意味で平穏な「雑談」が食卓を埋めている。


 「……でも、こうして姉さんと話しながら食べる朝食は、以前よりずっと美味しい気がするよ」


 真が向けた屈託のない笑み。


 まどかはそれを眩しそうに見つめ返し、「『そうでしょ! お姉ちゃんのおかげなんだから、感謝しなさいよね!』」と、努めて快活に笑い声を上げた。


 テレビの中では、凰千鶴が慈悲深い眼差しで視聴者へ語りかけている。


 その光景はあまりにも平和で、どこまでも不自然なほどに「正しい」朝の風景だった。



 学院の正門を潜る真の足取りは、驚くほど軽やかだった。


 これまでの真は、登校という行為を「地点Aから地点Bへの効率的な移動」としか捉えていなかった。


 今日の彼は、校庭の隅に咲く名もなき花に目を留め、微かに目を細める。


 「よお、まこと。……なんだ、今日はずいぶんスッキリした顔してんな」


 下駄箱で鉢合わせた宇賀が、少し意外そうに声をかけてきた。


 昨日の一件以来、彼の中で、真へのわだかまりは確実に低くなっている。


 だが、同時に困惑も混じっていた。


 「おはよう、琥太郎。そうかな?いつもと同じなはずだけど」


 真が自然な笑みを浮かべて答える。


 宇賀は、あからさまに言葉を詰まらせた。


 以前の真なら、今の言葉を音声データとして、平坦な音節で出力しただろう。


 だが、今の彼の声には「体温」がある。相手の目を見て、その反応を楽しみながら言葉を紡いでいる。


 その「あまりの普通さ」に、宇賀は背筋に言いようのない冷気が走るのを感じた。


 「……ああ、いや、別に。……おまえ、なんか変わりすぎじゃねってくらい変わったな」


 「どうだろう?僕自身は何かが変わったと言う気はないけど、心構えみたいなのは違うかもしれない」


 真はどこまでも無垢に首を傾げ、教室へと向かう。


 教室に入っても、その「変化」は波紋のように広がった。


 いつも一人だけ、別の空間にいるような透明な壁を張っていた真が、隣の席の生徒と消しゴムの貸し借りについて談笑している。


 その光景は、一見すれば「孤立していた少年がクラスに馴染んだ」という美談でしかない。


 しかし、その光景を教室の扉を開け、入室した瞬間から見つめる九頭見の瞳だけは、まるで別人を観察しているようだった。


 「おはよう。諸君、席に着け」


 朝のホームルームが始まる。


 九頭見はいつも通り淡々と連絡事項を読み上げていくが、その視線は折に触れて真の指先、微かに揺れる視線、そして隣人と同調して笑うその唇の動きを執拗に追っていた。


 九頭見は一度、雑念を払うように軽く頭を振ると、淡々と必要事項の連絡を告げた。


 「……もうすぐ夏季休暇となる。去年を知らない者もいるため確認のために報告しておくが、毎年九月の月末に体育祭、および学芸祭が行われる。生徒は毎年、そのどちらかへの参加を義務付けられている」


 「『え、一緒にやるの? かなり異例じゃない!?』」


 まどかの言う通り、普通の学校であれば時期をずらして開催するのが通例だろう。


 だが、ここは北王子学院だ。


 あらゆる基準が世間の常識から逸脱しているこの場所では、その程度の「規格外」は日常茶飯事だった。


 「もちろん両方参加しても構わない。参加すればポイントも付与される。そこは個人の自由だ」


 この学院独自のポイントシステムは、鳳グループが深く関与している。


 蓄積されたポイントは鳳グループから提供される品物だけでなく。


 学内での特権、将来の進路や鳳グループ関連企業への優待にも繋がる、生徒たちにとっては生命線とも言える代物だ。


 「……もっとも、両方不参加という選択も構わないぞ。なあ、宇賀」


 九頭見が、何かを白状させるような冷ややかな視線を宇賀へと送る。


 「やめてくれ、朱巳ちゃん! あんな卑怯なトラップ、普通わかるわけないだろう!」


 宇賀は当時の記憶が蘇ったのか、頭を抱えて机に突っ伏した。


 「『なに? コタロー、また何かやらかしたの?』」


 もはや確信犯を見るような目でまどかが宇賀を眺める。


 真は、後ろで悶絶する宇賀の方へ椅子ごと体を少し向け、穏やかな声で尋ねた。


 「去年、何かあったのか? 琥太郎」


 「……あったなんてもんじゃねぇよ。片方だけでもかったるいなって思って、ボイコットしたんだ。そうしたら……」


 宇賀は恨めしそうに言葉を溜め、吐き出すように続けた。


 「……『特別再教育テスト』をさせられた。しかも、合格点を出すまで終わらない、エンドレスなやつをな」


 ついに宇賀の精神が限界を迎えたのか、突っ伏したまま動かなくなった。


 真はその様子を視界に入れずとも、今の彼がどれほど無残な表情をしているか、手に取るように想像できた。


 「『……エンドレステスト。それ、何点で合格だったの? コタローがいまここにいるってことは、百点満点じゃないだろうし……三十点くらい?』」


 まどかの、微妙に辛辣で、かつ的を射すぎている予想に、真の口元から思わず苦笑が漏れた。


 「まあ、そういうわけだ。参加を希望する者は期日までに申請しておくように。連絡事項は以上だ」


 九頭見が教壇を離れると同時に、教室内は祭りの予感に浮き足立つ騒がしさに包まれた。


 「『ねえ、まことはどうするの? 体育祭? 学芸祭? それとも……テ・ス・ト?』」


 悪戯っぽく、一文字ずつ区切って「テスト」と口にするまどかに、真は呆れたような視線を送る。


 だが、その内心では、新たに提示された選択肢について思考を巡らせていた。


 体育祭か、学芸祭か。


 あるいは、どちらにも属さない道か。


 平穏な日常の延長線上に置かれたその「選択」が、自身の摩滅を早めるのか、それとも別の真実へ繋がるのか。


 真はまだ、それを知る術を持たず、ただなぜか少し楽しみだと思っていた。




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