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No.85落日の教室、あるいは誠実な一歩




 No.85落日の教室、あるいは誠実な一歩




 応接室から一歩外へ出ると、学院の廊下に全ての授業が終了したことを告げるチャイムが鳴り響いた。


 「今日は、一時限も授業に出られなかったな……」


 「『まあ、しょうがないんじゃない? 紆余曲折あったんだし。このまま、家に帰る?』」


 「帰るけど……鞄を教室から持ってこないと」


 「『コタローたちとはち合わせになるけど、大丈夫? ちゃんと話せる?』」


 「子供じゃないんだから、大丈夫だよ、姉さん」


 「『……そう? なら行きましょうか』」


 真は慣れ親しんだ自らの教室へと向かう。


 扉を開けた瞬間、騒がしかった室内が、水を打ったように静まり返った。


 居残っていた生徒たちの視線が一斉に真へと注がれ、教室内には針のむしろのような、ひどく気まずい空気が醸し出される。


 「『……やっぱり、このまま帰りましょうよ、まこと。鞄なんて明日でいいじゃない』」


 浴びせられる好奇の視線に、まどかは不愉快そうに顔を顰め、真の手を引くように提案する。


 だが、真はその場から動こうとはしなかった。


 「皆、今朝は不愉快な思いをさせて申し訳なかった。僕はもう平気だから、君たちも気にしないでくれ」


 真はそのまま、深々と、そして誠実に頭を下げた。


 自分の「乱れ」が周囲に波及したことに対する、一人の人間としての謝罪。


 「『……レグルスね。これは』」


 静寂の中で、まどかは独りごちた。


 自分を律し、場に正しき秩序を戻そうとするその姿に、真の内側に潜む「規律の獅子王」の気配が、今までにない穏やかな形で重なって見えていた。


 真が深々と頭を下げたまま静止していると、教室の静寂を破って真っ先に近づいてきたのは、やはり宇賀だった。


 「……俺らの方こそ、悪かった。お前の事情も知らねぇで、あんな風に追い詰めちまって。本当に、すまねぇ」


 宇賀に呼応するように他の生徒たちも寄ってくる。


 真は顔を上げ、彼らを見つめた。


 (……ああ、こういうことなのかな。如是和尚が言っていたことは)


 彼らの言葉、表情、体温。以前の真なら記号として処理していただろう。


 だが今は、差し出された想いが染み込むように自分の内側を満たしていくのを、真は感覚として理解した気がする。


 「ああ、大丈夫だ。僕はもう気にしていない。だから君たちも、どうか気にしないでくれ」


 「いいのかい……? 繭住、くん」


 「真と、呼んでくれないか。その方が僕も嬉しい」


  真の言葉に安堵の表情が広がる。


 「宇賀も、そうしてくれると僕が助かる」


 「……おう。無神経で悪かったな。それと俺も琥太郎でいい。ダチなら、特にな」


 宇賀は無骨な手を差し出し、真はその手をしっかりと握り返した。


 「『雨降って地固まる、ってやつかしらね。……にしても、あのまことがねぇ。社交性におべっかまで……。……ああ、もう! 気色悪い! 以前のまことを知ってるとものすごい違和感だわ! これあれよね、レグルス(ねこちゃん)だけじゃなくてライアー(わんちゃん)の影響まで出てるわよね!』」


 姉としてはどうにも我慢ならず、まどかが叫ぶと、それに応じるようにライアーとレグルスが姿を現した。


 「『だ、か、ら。誰がワンちゃんだよ、嬢ちゃん。……鼻が利くのは否定しねぇがな』」


 「『我をあの毛玉と同列に扱うか、縁者。言葉が過ぎるぞ。それに縁者よ、我は無闇矢鱈と力は使わぬ。力とは秩序を乱すもののみに振るわれるべきものよ。そこの駄犬と一緒にされては困る』」


 「『……ほう、この俺がむやみやたらと使ってると? はっ! さすが王さまは見る目が違うわ、俺とは違ってな』」


 バチバチと視線を交差させる二人。


 その間に挟まれてジタバタともがくまどか。騒がしさは増すばかりだった。


 「『いい加減離しなさいよこのワンちゃんが! 人の鼻を摘まむな!』」


 「『ああん? ならその「ワンちゃん」って呼び方を改めな。気色悪ィのはこっちの方だぜ』」


 獣たちが「嵐」に巻き込まれ、人間味を帯びていく。


 そんな中、教室内に九頭見が入ってきた。


 「ほらそこ、何をじゃれてる。席に着け、ホームルームを始めるぞ」


 真が和解している様子に、九頭見は若干優しい目を向けていた。


 それは成長を見守る大人、いや、母親的な慈しみだったのかもしれない。


 ホームルームが終わり、真は鞄を肩にかける。


 「……じゃあ、また明日。琥太郎」


 「ああ。また明日な、真!」


 背中で琥太郎の声を聞きながら、真は教室を後にした。


 十王市の街並みは深い茜色に染まっている。今朝の虚無が嘘のように、今は「また明日」を信じている。


 「……行こう、姉さん」


 「『まったくあの二人、騒ぐだけ騒いで消えてったわよ』」


 「いや、騒がしかったのは姉さんだけだと思うよ」


 真は坂を下っていく。


 やがて見えてきた家の灯り。


 そこには「夕飯を豪華にして待っている」美弥がいるはずだ。


 真は深呼吸をした。


 温もりのある場所へ帰る。


 それは、彼が見つけた新しい「戦い方」でもあった。


 「『ん? ちょっと待って……朱巳ちゃん、なんて言ってたっけ……?』」


 まどかは、恐ろしい出来事を思い出したように震えだした。


 「美弥さんが、夕飯を豪華にして待ってる……!?」


 真もある可能性に気がついた。


 「『美弥ちゃんが自炊してる可能性!』」


 ……真の、別の意味で新しい「戦い」が、今、玄関を開けて始まろうとしていた。











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