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No.86 再会の室、あるいは空席の調和




 No.86 再会の室、あるいは空席の調和




 空因寺を後にした真は、静かな足取りで学院へと戻った。


 職員室を訪ねたが、九頭見はあいにく授業で席を外していた。


 戻るまで教室で待とうとした真だったが、様子を察した他の教員から、静かな応接室で待機するようにと促される。


 それは、今の真の繊細な状態を慮っての、大人たちのささやかな配慮だった。


 真は素直にその言葉に従い、応接室の重厚な革張りのソファに腰を下ろした。


 「『ほらまこと。ちょっとそっちに詰めなさい』」


 まどかが真の隣に座ろうと、ぐいぐいと体を寄せてくる。


 物理的な干渉など無いはずなのに、まどかは「自分を隣に座らせろ」と言わんばかりに真を押し込んでくる。


 真は仕方なしに横へずれ、まどかが座れるスペースを空けた。


 まどかはその様子を嬉しそうにしながら、九頭見が来るのを待っていた。


 かつては「効率」を乱す非論理的な待ち時間だと感じたであろう空白の時間が、今は窓から差し込む午後の光と共に、ただ穏やかに過ぎていく。


 やがて、遠くで授業終了を告げるチャイムが鳴り、廊下から聞き慣れた規律正しい足音が近づいてきた。


 「すまない、待たせたな」


 扉を開けて現れた九頭見は、まず待たせたことへの謝罪を口にし、それから教え子の姿を確かめるように視線を向けた。


 九頭見は、その瞬間にわずかだけ目を見張った。


 真は、広いソファの端に、初見で見せていたような、あえて「一人分」の空白を作るようにして座っていた。


 朝、絶望の淵にいた真は、誰の介入も許さぬよう真ん中に鎮座し、世界を拒絶していた。


 だが今の彼は、隣に誰かが——他の誰にも目に見えぬ「姉」が、あるいはこれから共に歩む「誰か」が座るための場所を、当たり前のように用意している。


 九頭見はその変化に驚きつつも、即座に教員としての鉄仮面を取り戻し、真の対面に腰を下ろした。


 「……少し、顔色が良くなったか」


 「お世話を掛けました、九頭見先生」


 真の表情を深く読み取ろうとする九頭見。


 そこには、朝の凍りついたような虚無感はもうなかった。


 代わりにあったのは、自分の「欠落」さえも穏やかに見つめ直そうとする、瑞々しい生命の熱だった。


 九頭見は、眼鏡の奥で人知れず安堵の溜息を漏らした。


 そんな九頭見が眼鏡の奥に覗かせた、隠しきれない安堵の色。


 それを見た真は、自分がどれほどの心配を周囲に掛けていたのかを、今更ながらに突きつけられていた。


 と同時に、これまで自分がいかに他者の感情や関心に対して無頓着であったかを痛感し、自省の念が胸を去来する。


 「『だからお姉ちゃん言ったでしょう? まこは色々なことに、関心が無さすぎるって』」


 まどかの容赦ない、けれど正鵠(せいこく)を射た苦言。


 真は言葉を返すこともできず、傍目にもわかるほど静かに肩を落として落ち込んだ。


 「……ずいぶんと感情豊かになったな」


 九頭見は、わずか数秒の間に見せた真の変化——かつての無機質さが嘘のような、百面相とまではいかずとも「色」のついた反応——に、驚きと、そしてどこか満足げな表情を浮かべた。


 「ふふ……美弥のやつ。きっと悔しがるだろうな。自分に出来ず、和尚にしてやられたのだからな」


 独り言のように呟く九頭見。


 その言葉遣いと柔らかな眼差しからは、すでに「教員」としての強固な鉄仮面は外れ、一人の大人として、あるいは美弥の友人としての素顔がこぼれ落ちていた。

 

 真は、空因寺で和尚からどのような言葉を授かり、自分の中で何が変わったのかを、九頭見にありのまま伝えようと声を上げた。


 「九頭見先生──」


 だが、それを制するように九頭見が静かに片手を前に出した。


 「如是和尚が何を語り、君が何を感じ、思い、悟ったかを、今ここで私に詳しく話す必要はない」


 「……そうですか」


 意気込んでいた出鼻をくじかれ、真は少しだけ気落ちしたように視線を落とした。


 その様子は、かつての無機質な彼からは想像もできないほど、年相応の少年のように見えた。


 「──だが、私のこれからする質問にだけは、答えてくれ」


 九頭見は真剣な眼差しで真を射抜く。


 その瞳の奥には、教師として、あるいは一人の先達として、真の「核」を見定めようとする静かな意志が宿っていた。


 真は居住まいを正すように背筋を伸ばし、真っ直ぐに九頭見を見返した。 


 「わかりました」


 その返答に九頭見は一度深く頷き、問いを投げかけた。


 「……君は、誰だ。そして、これからどこへ行こうとする」


 それは哲学的な問いなのか、あるいはもっと単純な足跡を問うものなのか。


 真は一瞬、その真意を図るため思考の海に沈みかけたが、隣から柔らかな声が届く。


 「『まこと。まことが今、感じるままに話せばいいのよ』」


 まどかの言葉に、真は心の中で素直に頷いた。


 飾ることも、論理で武装することもなく、今この瞬間に内側で脈打っている言葉を、そのまま口に乗せる。


 「僕は、繭住真です。僕は、僕のまま、僕になるために進もうと思います」


 その言葉に、一点の揺らぎもなかった。


 九頭見は、その確かな響きを、教え子の到達した一つの「形」として受け止めたようだった。


 だが、彼女はわずかに、どこか残念そうな色を瞳に浮かべて真を見つめた。


 それは隣に座るまどかも同様であった。


 しかし、二人が浮かべたその眼差しの真意を理解する術は、今の真にはまだなかった。


 九頭見は、真の迷いのない答えを数秒の沈黙で受け止めた後、ふっと視線を窓の外へと逃がした。


 その横顔には、教師としての厳格さと、真実を知る者としての哀愁が混ざり合っている。


「……そうか。ならば、もう私から言うことはない」


 九頭見は立ち上がり、真の肩にポンと手を置いた。


 その重みは、彼の「今の決意」を肯定しつつも、いつか彼が直面するであろう過酷な運命を案じる、一人の大人の複雑な情愛だった。


 「繭住真。君が君として進むというのなら、私はそれを全力で支援しよう。……だが、もし道に迷い、自分という形が分からなくなった時は、いつでもここへ来なさい」


 「はい。ありがとうございます、九頭見先生」


 真は晴れやかな表情で一礼する。


 その隣で、まどかもまた、複雑な笑みを浮かべながら真を見つめていた。


 「『いつか、全部わかっちゃう時が来る。でも、今はまだ、そのままでいいよ……まこと』」


 声には出さないまどかの独白は、陽光の中に溶けて消えた。


 真が応接室を去ろうとした時、九頭見が背中に声をかける。


 「繭住。……美弥が、夕飯を豪華にして待っていると言っていたぞ。今日は早く帰ってやれ」


 「ええ。そうします」


  真は応接室の扉を閉めた。


 廊下を歩く彼の足取りは軽く、かつての「機械」のような正確さではなく、どこか心躍るようなリズムを刻んでいる。


 真を送り出した応接室で、九頭見は一人、真が座っていたソファの「空白」を見つめていた。


 そこにはもう誰もいないはずなのに、彼女には、去り際に一瞬だけこちらを振り返り、寂しそうに微笑んだ「少女」の残像が見えた気がした。


 「……皮肉なものだな。救われれば救われるほど、真実は遠ざかる。まるであの子には真実など不要だと世界が言うように……。まったく、美弥。私たちはなんて無力なんだろうな」


 九頭見の独り言に応える者は、もう誰もいなかった。











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