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No.87 回帰の足跡、あるいは鏡の残光




 No.87 回帰の足跡、あるいは鏡の残光




 和尚が淹れたての茶を手に戻ってきたとき、真は一言、寺の周辺を歩きたいと願い出た。


 和尚は湯気の向こうで、深く、温和な皺を刻んで頷いた。


 「うむ。好きになされよ。ここへ戻らずとも、今のまことどのなら平気であろうからな。あるがままに行かれるがよい」


 真は和尚に深く頭を下げ、空因寺を後にした。


 山門を抜けると、少し開けた広場が見える。


 そこはつい二月ほど前、清掃活動のボランティアのために生徒たちが集まった場所だった。


 「ここで……宇賀、に。……掃除道具をねだられたな」


 慣れない呼び方に、真はわずかだけ言葉を詰まらせた。


 これまでの彼なら、迷わず「宇賀琥太郎」という全データを口にしていただろう。


 その不自然な「間」を聞き逃さず、まどかがクスクスとおかしそうに笑う。


 「『あら。コタローって呼べばいいのに。まあ、名字だけで呼べるようになっただけでも、大きな進歩かしらね』」


 「……茶化さないでくれ、姉さん」


 「『そうね。コタローったら、腕章を付けてるってだけで「規律(オーダー)」の連中と同じだと思って毛嫌いしてたものね』」


 当時はまだ、真の意識に「まどか」という存在は確立されていなかった。


 しかし、同じ景色を共有していた彼女は、当時のことを懐かしそうに、おかしそうに笑う。


 真は歩く。


 かつての自分が辿った足跡を、今度は自分の意志でなぞるように。


 「ここで……祈里、に会い……」


 「『ネネちゃんのお友達のリュックが谷底に落ちて困ってたのよね。全く、その時のまことは躊躇なく崖を降りていくんだもの、お姉ちゃん心配したわよ』」


 「……そうだったのか。ごめん、姉さん」


 「『いいのよ。その後、志那ちゃんがまことを助けてくれたし。……ちょっと、まあ、あの時は怖かったけど』


 助けに来たはずの獅子井志那都の放つ圧倒的な威圧感を思い出したのか、まどかは少しだけ肩をすくめて震えてみせた。


 「ここで、宇賀と…兎束、の三人で掃除をした」


 真は参道から外れた横道を進み、ひっそりと佇む小さなお堂へとやってきていた。


 「『あの時も相当汚かったけど、今も汚いわね。そんな場所のゴミはいいわよって、お姉ちゃんは言ったんだけど、まことったら制止も聞かずに入ってくんだもの』」


 「その時は、姉さんの声すら聞こえていなかったはずだけど」


 真が淡々と正論を口にすると、まどかは唇を尖らせてそっぽを向いた。


 「『ふふーん。お姉ちゃんの言葉を聞かない悪い弟の言葉は、このお姉ちゃんの耳には届きません!』」


 理不尽な姉の返しに、真は思わず苦笑を漏らした。


 鍵のかかっていないお堂の扉を引くと、あれから誰も立ち入っていないのか、床にはあの時と同じように割れた鏡の破片が放置されていた。


 「「ここで…大口、の『識蘊(しきうん)箱庭(にわ)』へ初めて訪れて……」


 「『……そうね。なんとかまことは戻ってこれたけど、その後の後遺症みたいなのは、ずっと続いてたわね』」


 真は右目を押さえるように手を置き。ありがとう


 まどかは少し寂しげに目を伏せたが、すぐに暗い雰囲気を吹き飛ばすように胸を張った。


 「『でも、お姉ちゃんを「ノイズ」だの「不要なデータ」だと思って排除しようとしたことは、断じて許しません! 反省するように。いい、まこと?』」


 「……うん。あの時は、本当にごめん」


 真は床に散らばった鏡の破片に、そっと指先を触れた。


 かつて彼を「識蘊(しきうん)箱庭(にわ)」へと引きずり込んだ境界線は、今はもう開くことはない。


 ただ、冷たく無機質な鏡の質感が指先に伝わってくるだけだった。


 「『……ワン子ちゃんが望んだ嘘の世界は、もう壊れちゃったからね』」


 まどかの言葉には、どこか罪悪感に似た響きが混じっていた。


 自分たちが壊した、一つの祈りの形。


 たとえそれが歪んだ「嘘」であったとしても、そこには確かに救いを求めた魂があったことを、今の真は理解できる。


 真はお堂を後にし、再び山門横の広場へと戻ってきた。


 眼下には、午後の光を照り返す十王市の街並みが、精密な基板のように広がっている。


 「……あの辺りだよね」


 「『そうね。あの辺りに志那ちゃんの家があるはずよ』」


 ここからでは獅子井邸の正確な位置までは特定できない。


 それでも真は、規律の番人が座す邸宅の方角を静かに見つめた。


 「彼女は、自分の正しさを証明しようとしていた」


 「『でも、それは行き過ぎた行いよ。規律で人を縛り上げ、自由さえも与えない。レグルスが言ってたでしょう? 規律は統制するためのものであって、自由を奪うための道具じゃないって』」


 獅子井志那都の独善。


 それは多くの者を傷つけた。


 けれど、秩序を守ろうとした彼女の切実な願いそのものは、決して間違いではなかったのだと、真は思う。


 そして真は、立ち並ぶビル群の合間に、もう一つの目的地を探した。


 「『あっちの方よ、まこと』」


 まどかが指し示した先には、白亜の巨塔——兎束雛が居るであろう病院があった。


 「兎束は、強いと思った。折れても、何度でも立ち上がれる強さを持つ人だと」


 「『……それは、少し違うと思うわよ。雛ちゃんだって、本当は弱い部分があるはずだもの。だから、ああなってしまった。そして、欠落した獣——アジテージ・ラビットと呼応しちゃったんじゃないかな。まあ、あの脳筋ウサギにそこまでの思考があるとは思えないけど』」


 今頃もどこかの精神世界で無意味に筋トレに励んでいるであろう、暑苦しい巨漢の姿を思い浮かべ、まどかはふんと鼻を鳴らした。


 真が立ち止まっていると、ハイキングに来た親子連れだろうか。


 色とりどりのウェアを纏った数人が、穏やかな表情で真に会釈をして通り過ぎていく。


 彼らが纏う、どこまでも平穏な「日常」の空気。


 それが真の肌をなぞり、かつての事件がいかに世界の裏側に潜む危ういものだったかを突きつける。


 「……祈里は、救いになったのだろうか」


 「『少なくとも、ネネちゃんは笑顔だったよ。根本的な解決には至っていなかったとしてもね。……それ以上は、私たちが立ち入る領域じゃないよ』」


 忘却の獣、クレイドルと共に現れた祈里寧々子。


 彼女は争いを嫌い、ただ静寂を求めた。


 その純粋な祈りに、一部でも同調して力を貸したクレイドル。


 彼はなぜ、祈里と契約を結ばなかったのか。


 本人が語る「ただの怠惰」という理由は真実なのか、あるいはその奥に別の感情があったのか。


 本人が語らぬ以上、いかに論理的な推論を重ねても、その心の内を知る術を真は持たない。


 「僕は、彼女たちを変えてしまったのだろうか。それとも……()となったのだろうか」


 和尚の説いた「水」の話を思い出す。


 注がれた他者の想いや出来事は、自分という流れにどのような変化をもたらしたのか。


 「『おしょさんの言葉を借りるなら、それを決めるのはまことでもあり、彼女たち自身でもあるんじゃないの?』」


 まどかは、どこか投げやりな調子でそう答えた。


 だが、真はその言葉が決して自分を突き放したものではないと理解している。


 自分の考えも、思想も、生き方でさえも、他者から押し付けられるものではない。


 自分で考え、思い、悩み、そして血を流しながらでも自分自身で導き出すものなのだと、彼女は言いたいのだ。


 真は再び、眼下に広がる街を見つめた。


 そこには無数の「器」があり、無数の「流れ」がある。


 かつては「効率」という定規で測っていた街の灯りが、今は一つひとつが異なる熱量を持った、愛おしくも複雑なものに見えた。


 「行こう、姉さん」


 「『……うん。どこへ行く?』」


 「まずは……九頭見先生のところへ。それから美弥さんにも、僕が掴もうとしている『形』を、伝えに行かないといけない気がするから」


 真はもう、足元の感覚に迷いはなかった。


 色彩を取り戻した山道を、彼は一歩ずつ、確かな足取りで降り始めた。
















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