No.88 再生の兆し、あるいは響き合う孤独
No.88 再生の兆し、あるいは響き合う孤独
説法を終えた和尚は、真の表情を、その瞳の奥をじっと見つめていた。
凍りつき、静止画のようだった真の瞳の奥に、今は僅かながらも小さな灯火が再び灯ったことを、和尚は確信した。
和尚は、先ほどと同じように山林の隙間から見える景色を指差す。
「まことどの。何が見えますかな」
真は和尚の無骨な指を追い、その先にある風景をじっと見つめる。
先ほどまではただの意味を持たない情報の塊だった景色が、ゆっくりと形を結んでいく。
「……街が、見えます」
和尚は深く頷き、次に自らの耳に手を当てた。
「何が聞こえますかな」
真は促されるままに目を瞑り、意識を「外」へと向けた。
脳内を支配していたノイズの影から、世界が持つ本来の音色が立ち上がってくる。
「……林のざわめき。鳥や、虫の鳴き声」
和尚はまた満足げに頷くと、最後に自分の胸のあたりを掌で押さえた。
「まことどの。今、心は何を感じておられますかな」
真は目を閉じたまま、自分という「器」の内側へと対話を試みる。
壊れた論理の残骸、冷え切った焦燥。
その混濁した闇の底から、自分を呼ぶ声がした。
「『……まこと』」
すぐ側で、ずっと自分を支え、揺れ、心配し続けてくれた、記憶の中の、あるいは現実の隣から届いた、まどかの祈るような声。
真はゆっくりと目を見開いた。
「……僕を心配する人たちの声が、その想いを感じます」
その瞬間、真の視界を覆っていたモノトーンの世界が、波紋のように端から色彩を取り戻していく。
和尚の朱色の作務衣、庭の深い緑、そして隣で涙を浮かべた姉の、淡く優しい輪郭。
真は初めて、自分が「一人きりの完成品」ではなく、他者の想いという流れに支えられた「未完成な器」であることを、肌で感じ取っていた。
真の瞳に宿った静かな光を確かめ、和尚は満足げに鼻を鳴らした。
手元の湯呑みに指を触れると、そこにあったはずの熱はすでに失われ、茶はすっかり温くなっている。
「うむ、茶を淹れ換えてこよう。まことどの、しばし待たれよ」
和尚はお盆を持ち、軽やかな足取りで奥へと消えていった。
静寂が戻った縁側で、まどかは真の正面に立つようにして、その顔を覗き込む。
「『……まこと』」
「大丈夫。……もう大丈夫だよ、姉さん」
それは自分に言い聞かせる呪詛ではなく、隣にいる存在へ向けた、確かな「対話」としての言葉だった。
まどかはその響きの穏やかさに、ようやく胸のつかえが下りたような安堵の吐息を漏らした。
「『……ケッ。そのまま壊れてれば、テメェは幸せだったのによ』」
二人の間に割り込むような、不愉快そうな悪態。
少し離れた柱の影に、不敵な笑みを浮かべたライアーが姿を現していた。
「『なんでそんなこと言うの!』」
「『はっ! 事実だろうが。そいつの精神は戻ったわけでも強化されたわけでもねぇ。相変わらず目隠しのまま丸太の橋を歩いてるようなもんだ。だったら、そのまま知らずに谷底へ墜ちてた方がいくらかマシだろ』」
相変わらずの皮肉。
だが、真はその言葉を拒絶することなく、ただ静かにライアーを見つめた。
その、すべてを見透かすような、それでいて攻撃性のない視線に、ライアーはいぶかしげに眉を寄せる。
「『……なんだその目は。言いたいことがあるなら言えばいいだろ、ああん?』」
「ありがとう、ライアー」
予想だにしない言葉を投げかけられ、ライアーは呆気にとられたように目を点にした。
「『……はあ!? なんだそりゃあ! 気色わりぃ、ついに頭までイカれやがったか理屈屋!』」
「さあ、どうだろう。……ただ、君が僕のことを心配してくれているというのは、感じられたから」
「『ふざけるな! 誰がテメェの心配なんぞしてるか! おい嬢ちゃん、なんだその生暖かい視線は! 不愉快だ、今すぐやめろ!』」
真の言葉を受け、まどかは「やっぱりね」と言わんばかりにニマニマと意地の悪い——それでいて温かい笑顔をライアーに向ける。
それがライアーには何よりの屈辱だったが、さらに追い打ちがかかる。
背後から、ライアーの肩に「ボン」と、岩のような筋肉質の掌が置かれた。
振り返れば、そこには爽やかな笑顔で親指を立てる巨漢の大男——煽動の兎冠が立っていた。
「『何なんだテメェまで!! ああ、クソッ! 腹が立つ!』」
ライアーは苛立ちに任せて大男を蹴り飛ばそうとするが、男はひょいと軽快にそれを回避する。
そのまま、うさぎ跳びをしながら山林の奥へと消えていった。
ラビットがうさぎ跳びで消えていった林を、ライアーは忌々しげに睨みつけていた。
最後にもう一度、苛立ちに任せて地面を強く蹴りつける。
「『……けったくそ悪い』」
吐き捨てるようにそう言い残すと、彼は煙のようにその姿を掻き消した。
だが、その霧が晴れた跡には、代わりに静謐な威厳を纏った金髪の男性が佇んでいた。
「……レグルス」
真の呟きに応じるように、規律を司る獣はその精悍な貌をわずかに動かした。
「『真円を綴るものよ。混沌とは無秩序であり、規律とはその無秩序を統制し、世界を安定へと導くためのものだ。……決して、自由を奪うための道具ではない。努々、忘れることなかれ』」
その言葉は、かつて真を縛り上げた冷たい鎖ではなく、道を照らす灯火のような響きを孕んでいた。
レグルスもまた、それだけを告げると、風に溶けるようにその場から消えていった。
しばらく消えた皆の方を見ていた二人。
「『……みんな、まことを心配してたみたいだね』」
まどかの言葉に、真は静かに、だが深く頷いた。
彼らは「欠落」から生まれた獣たちだ。
真が自分を固く閉ざせば、真と繋がる彼らもまた歪むが、真が流れを受け入れたことで、彼らもまた本来の役割を思い出したのかもしれない。
真は自分の掌を見つめ、指を一本ずつ折っては開く動作を繰り返した。
血が巡り、肉が動く感覚。それは設計図通りの機械的な動きではなく、一刻一刻と変化し続ける「生」の律動だった。
「……うん。大丈夫。僕は、僕にしかなれないんだ」
「真」という鉄の器に自分を押し込めるのではなく、その器を満たしている「自分」という名の流れそのものを、彼は今、少しだけ受け入れられた気がした。
縁側の外では、西日に照らされた木々が黄金色に輝いている。
和尚が新しい茶を持って戻ってくる足音が聞こえる。
世界は再び、鮮やかな色と音を持って、真の前に広がっていた。




