No.89 混濁の器、あるいは流転の心
No.89 混濁の器、あるいは流転の心
和尚の手が離れたとき、真の視界はひどく明滅していた。
急激に流れ込んできた光に網膜が眩み、次いで、線香の香りと、湿った土の匂いが鼻腔を突く。
和尚は茶を一口啜り、静かに視線を庭へと戻した
。
風が竹林を揺らし、さらさらと乾いた音が耳を打つ。
「なるほど……。今のまことどのは、少しばかり『自分』というものを掴み損ねておるようですな」
その声は、真の脳内に響くノイズを押し流すように穏やかだった。
「よいか。そういうとき、人は、何かを失ったように感じるもの。しかし実のところ、失われたのではない。最初から、掴みきれるものなど無かっただけのこと」
「……掴みきれるものが、なかった?」
真は掠れた声で繰り返す。和尚は側にある手水鉢に目をやった。
絶え間なく注がれる水が、静かに波紋を広げている。
「人とは、形あるようでいて形なきもの。水のようだと言えば分かりやすいが──水とて、手で掴めば指の間をすり抜ける。掴めぬものを掴もうとするから、苦しくなるのですな」
和尚は、手元の茶碗に注がれた茶を見つめながら続けた。
「生まれたときは無味無臭の水も、時間が経てば酸いも甘いも交わり、その者なりの味が出てくるもの。その味と器で人は人を決めるが、味はこの先も変化し続ける。泥が混じることもあれば、蜜が混じることもある。それが生きるということですな。……色即是空、空即是色。形あるものは実体ではなく、実体なきものもまた形として現れる」
和尚の言葉が、真の思考の深層へ染み込んでいく。
「ゆえにまことどの、あなたが今感じておる『崩れた』という感覚も、最初から固まっていた何かが壊れたわけではないのです。ただ、固まっていると思い込んでいたものが、流れのままだと気づいただけのこと。……それを恐れる必要はない。人は、揺れてよいのです。定まらぬままでよいのですな。むしろ、定めようとするほどに苦しみは増す」
「ですが……僕は、真でなければならないんです。そうでないと、僕は……」
真の反論を、和尚は優しい沈黙で受け止めた。
「まことどのは今、『こうでなければならぬ自分』という鉄の器を必死に守ろうとしておる。しかし、それは仮の器にすぎぬ。器が揺らぐことを恐れるな。器は、もともと空なのですから。器はいつでも、どんな時でも変えることが出きる。変えようとする意思さえあれば、ですが」
和尚の大きな手が、真の肩にそっと置かれた。
「まことどの。あなたは壊れてなどおらぬ。ただ、固まっていたと思っていたものが、本来の流れに還っておるだけです。それでよいのです。立ち止まってもよい。揺れてもよい。……だが、忘れてはならぬ。あなたというものは、最初から『完成した形』ではないのだということを」
真は自分の指先を見つめた。
そこには、和尚の言う「流れ」の拍動が微かに感じられるような気がした。
「それを受け入れたとき、崩れは崩れではなくなる。ただの流れ、ただの生になるのです」
日に照らされた和尚の頭がキラリと光る。
にかりッと笑う和尚の顔を、この時初めて、真は見たのであった。




