No.90混濁の告白、あるいは掌の温もり
No.90混濁の告白、あるいは掌の温もり
真は九頭見に指示された通り、空因寺へと向かっていた。
それは目的地を目指すというより、与えられたタスクをただ無心にこなす機械的な動作に近い。
学院から寺へと至るルートは複数存在するが、今の真は自分がどの道を通っているのかさえ自覚していなかった。
断続的な静止画の連続のように世界が見えて、色彩を欠き、足元の感覚さえどこか頼りない。
まどかは、幽霊のように真の傍らに寄り添いながら、その横顔をただ見守ることしかできなかった。
「『こんなときにワンちゃんが出てきてちょっかいでも出してくれれば……ああダメ! 余計にまことの心が壊れちゃう!』」
ふと思いついた刺激。
だが、あの虚飾の人狼——ライアーが、素直に真の心のケアなどするはずもない。
むしろ、この精神的壊死を絶好の機会と捉え、さらに深い絶望へと追い打ちをかけにくるのが関の山だろう。
「『でも、だったらどうして出てこないの?』」
いつもなら「嘘」の気配を嗅ぎつけて、嘲笑うように現れるはずのライアー。
あるいは規律を説くレグルス、煽動のラビット。気まぐれな忘却のクレイドル……。
しかし、今はどの獣たちの気配もなかった。
まるで、今の真という「器」が、彼らを受け入れることすらできないほど空虚に、あるいは決定的に冷え切っていることを示唆しているかのようだった。
まどかの焦燥を他所に、真は空因寺へと辿り着く。
「うむ。待っておったぞ、まことどの」
山門には、作務衣を纏った如如是和尚が、真が来るのを今か今かと待ちわびるように立っていた。
和尚に招かれ、真は空因寺の奥へと足を進める。
案内されたのは、彼がこの寺を訪れる際、いつも通される静かな縁側だった。
「準備はしておったのだが、所々手間取ってしまった」
如是和尚はお盆を手に戻ってくると、湯呑み二つと素朴な茶請けを並べ、真の隣にどっかと腰を下ろした。
「頂き物だが、なかなかの代物でな。ささ、どうぞ」
差し出された湯呑みから、熱い茶の香りが白き湯気となって立ち上る。
和尚は自らも一口啜り、ふぅと深く息を吐いた。
だが、真は差し出された茶に指一本触れようとしない。
ただ、焦点の合わない瞳で、庭の先にある虚空を見つめ続けていた。
和尚はその横顔を静かに見つめ、真と同じ方向へ視線を移す。
切り開かれた山林の隙間から、十王市の街並みがいくらか覗いていた。
「……何か見えますかな」
「……なにも」
「……では、何か聞こえますかな」
「……ノイズが、響く。僕が、僕でなくなる」
「……今、まことどのの心は何を感じておられますかな」
「…………苦しい。僕が、僕でなくなるのが」
和尚の問いかけは、静かな湖面に落とされる小石のようだった。
真の口から漏れる言葉は、いつもの論理的な正解ではない。
防壁が崩れ、剥き出しになった魂の奥底から染み出した、血のような本音だった。
「……まことどのは、まことどのになりたいのですかな」
「…………僕は、真でなくてはいけない。真でないと──!」
瞬間、真の精神を激しい波紋が襲った。視界が歪み、世界が崩壊しそうになったその時。
和尚は即座に真の眼前に手を置き、その視界を塞いだ。
視界を塞ぐ温かな闇。
ただそれだけで、爆発しそうだった真の精神は、急速に凪を取り戻していく。
和尚が手を離した後も、網膜には年月を重ねた樹皮のような力強く優しい感触と、その熱が残像のように少しの間だけ残っていた。
和尚はそれ以上の問いを重ねず、しばらく空を見上げながら自らの顎を撫でた。
「なるほど……。今のまことどのは、少しばかり『自分』というものを掴み損ねておるようですな」
和尚の声は、風に揺れる木々のざわめきのように穏やかだった。
視界を塞がれた暗闇の中で、真はただ、自分の内側で軋みを上げる「論理」の残骸と、和尚の掌から伝わる静かな体温だけを感じていた。
壊れかけた器の中に、和尚は一体、何を注ごうとしているのか。
混濁した意識の底で、真は初めて、自らの「形」を失った器が、初めて自らの輪郭を探り始めていた。




