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No.91 日常の軋み、あるいは沈黙の拒絶




 No.91 日常の軋み、あるいは沈黙の拒絶




 真の日常は正常に戻された……戻されたはずだった。


 いつもと同じ時刻に起床し、いつもと同じ手順で朝食を用意する。


 だが、そのルーティーンの端々に、本人にしか、あるいは彼を深く知る者にしか分からない決定的な「差異」が生じていた。


 トーストを焼く秒数、皿をテーブルへ置く際の角度。


 あれほど機械的に精緻だった彼の動きから、劇的なまでに冴えが失われている。


 歯車の一つが摩耗し、回転するたびに微かな異音を立てているような、そんな危うい均衡。


 「『まこと……』」


 「問題ない。……大丈夫だ」


 まどかの気遣わしげな声を先読みするように、真は言葉を遮った。


 それは明確な、拒絶に近い響き。


 昨夜、デッドスペースでさらけ出してしまった「弱さ」を、強引に論理の奥底へ封じ込めようとする彼の必死な抵抗だった。


 まどかはそれ以上何も言えなくなり、宙に浮いたまま、ただ悲しげに押し黙るしかなかった。


 真は、自分の脳内にある「いつも通りの自分」という設計図をなぞるように、無理やり身体を動かし続ける。


 だが、その虚勢は、長年一緒に住む保護者であり、同居人の前ではあまりにも無力だった。


 「……まーちゃん。辛いんだったら、言葉にしなさいね」


 「……」


 カウンセラーである美弥は、真のわずかな変化を敏感に感じ取っていた。


 食卓に流れる空気の重さ、真の視線の、ほんの数ミリの迷い。


 けれど、本人がそれ以上の踏み込みを頑なに拒む「壁」を立てていることを察し、美弥はあえて深くは追求せず、祈るような最低限の言葉だけを投げた。


 家を出てから学院に着くまで、真の視界は色を失ったモノトーンの世界に沈んでいた。


 網膜は光を捉えているはずなのに、脳が情報の処理を拒絶している。


 行き交う生徒たちの話し声も、意味を持たないただの背景ノイズとして鼓膜を滑り落ちていった。


 教室に入ると、そこには不協和音のような空気が停滞していた。


 普段なら遅刻ギリギリで駆け込んで来る宇賀も来ており、昨日キャンプの話題で盛り上がっていたクラスメイトたちと、真の席を囲むように集まっている。


 腫れ物に触れるような、気まずさと申し訳なさが入り混じった視線が真の机に向けられていた。


 教室に入ってきたのを真っ先に気づいたのは、やはり宇賀だった。


 「おう、まッ……。昨日は、すまなかったな」


 普段の快活さは鳴りを潜め、宇賀は不自然に言葉を濁すと、真の傷口に触れないよう、慎重に視線を逸らした。


 「気にしてないから、大丈夫だ」


 真は、設定されたプログラムを実行するように、定型文を淡々と返す。


 声音に抑揚はなく、その瞳は宇賀の顔を見ているようで、その実、数メートル先の虚空を凝視していた。


 「いや、あ、うん。わりぃ」


  何が「悪い」のか、主語を欠いた宇賀特有の謝罪。


 普段の真であれば、その論理的欠落を冷徹に指摘し、定義を求めていたはずだった。


 だが今の真は、その言葉の揺らぎを正す気力さえ湧かない。


 何も言わず、機械的な動作で席へと腰を下ろした。


 宇賀以外の生徒たちも、真の顔色を窺いながら詫びの言葉を口にしようとした。


 だが、宇賀がそれを鋭い視線と突き出した肘で制し、彼らを無理やり散らせていく。


 その粗野な気遣いすら、今の真にとっては遠くの出来事のようにしか感じられなかった。


 始業を告げるチャイムが鳴り響き、朝のホームルームが始まった。


 いつもなら、残響が消えるか消えないかのタイミングで正確に教室へ現れる九頭見が、今日は珍しく数分の遅れを見せていた。


 「すまない。少し遅れた」


 九頭見は教卓に着く前に手短に詫びると、出席簿を開く。


 その際、一瞬だけ——だが確かな意図を持って——真の方へと視線を走らせた。


 それは教え子の登校を確認する教師の目というよりは、ひび割れた硝子細工の具合を確かめるような、慎重で、どこか痛ましさを孕んだ視線だった。


 淡々と出席確認が進んでいく。


 教室を支配するのは、嵐の前の静けさにも似た、不自然なほどに重い沈黙だ。


 「全体に対しての連絡事項は今日はない。……代わりに、繭住」


 九頭見が真の名前を呼んだ。


 ずっと虚空を彷徨っていた真の瞳が、焦点の合わないレンズを動かすように、ゆっくりと九頭見の姿を捉える。


 「……はい」


 一テンポ遅れて返された声は、自分の喉から出たものとは思えないほどに生気がなかった。


 九頭見はほんのわずかに眉を潜める。その微かな表情の変化を、今の真は読み取ることができない。


 「朝のホームルームが終わり次第、応接室に来なさい」


 「……わかりました」


 クラス内の空気が、一気に緊迫の色を帯びた。


 生徒たちの間で視線が交錯し、昨日の異常事態と今の呼び出しを繋ぎ合わせようとするざわめきが、無言の圧力となって教室に満ちる。


 だが、今の真にはそれを関知する感性すら残されていなかった。


 自分を囲む他者の感情も、空気の温度差も、すべては遠い世界の出来事のように処理される。


 九頭見は、誰にも気づかれないほど微かに、深く息を吐き出した。


 「ホームルームを終わる」


 事務的な宣言と共に、九頭見は背を向けて教室を出ていく。


 真もまた、糸を引かれる操り人形のように遅れて席を立ち、九頭見の残した足跡をなぞるように、ふらりと廊下へ踏み出した。


 応接室の扉をノックし、重い木製の扉を開ける。そこには、教室を先に出た九頭見が既に待っていた。


 「来たか。まずは座りなさい」


 促されるまま、真は備え付けのソファに九頭見と対面するように真ん中に腰を下ろす。


 対面する九頭見の視線を避けることもせず、ただ指示に従うだけの精巧な自動人形のように。


 九頭見は真のその空虚な佇まいにわずかだけ目を細めたが、特段気にする素振りも見せず、一度だけ眼鏡のブリッジを押し上げた。


 「繭住。昨日の授業のボイコットに関してだが、宇賀たちより経緯は聞いている」


 「……そうですか。申し訳ありませんでした」


 返した言葉に、誠意はない。ただ、その場を最短で切り抜けるためのプログラムを選択し、発声器官を動かしただけ。


 九頭見は、目の前の少年が抱える欠損が、聞いていたよりも遥かに「重症」に近いものだと、その沈黙の深さから判断した。


 「繭住。教員権限で、君の体調が芳しくないと判断した。よって、今日一日は療養を兼ねて、空因寺に 行きなさい」


 「…………美弥さんの指示ですか」


 「……なぜ、そう思った」


 「誰もが昨日とは違う視線で僕を見ています。……美弥さんにもそうでしたから、だからそう頼まれたんでしょう」


 冷徹なまでに客観的な推論。


 九頭見は一度、天井を見上げるように視線を逃がした。


 「私達教員は、君の事情を知っている。それは保護者である美弥から通知が来ているからだ」


 「……」


 「だが、だからと言って君を腫れ物として扱うつもりはない。それは君にとって、何よりの失礼に当たることだろう。だからこそ、私は君を他の生徒と同じように扱う。……だが」


 教員としての仮面。


 美弥の友人としての情。


 そのどちらでもない、剥き出しの人間としての顔を九頭見は見せた。


 「君を心配する者の気持ちだけは、汲んでやってもらいたい。私からは以上だ。……気持ちの整理がついたら行きなさい」


 それだけを言い残すと、九頭見は真一人を部屋に残し、早足で退室していった。


 扉が閉まる乾いた音が、広い応接室に空々しく響く。


 「『……まこと』」


 ずっと、壊れる前の真を見守るように押し黙っていたまどかが、ようやく声をかけた。


 「……大丈夫。僕は大丈夫だ。……大丈夫だ」


 呪詛のように、あるいは自分自身を縛り付けるプログラムの再定義のように繰り返される言葉。


 そう呟く真の表情は、やはり血の通わない人形のように、ひどく白く、無機質だった。










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