No.92 境界の再構築、あるいは見えない涙
No.92 境界の再構築、あるいは見えない涙
まどかの切実な絶叫が、真の精神に打ち込まれた楔となった。
九尾ヶ坂の「麻酔」によって溶けかけていた自我の境界線が、その一喝を起点に急速に凝集を始める。
泥のように淀んでいた瞳に、火を灯すように生気が戻っていく。
瓦解していた論理の防壁が、再び精緻な幾何学模様を描いて構築されていく。
その「覚醒」を、九尾ヶ坂は誰よりも早く、そして正確に察知した。
「……もう、大丈夫そうですね。私はこれで失礼します」
彼女は徐に立ち上がった。
つい数秒前まで真の孤独に深く侵食していたことなど、最初からなかったかのように。
にこりと、すべてを包み込む慈母のような笑みを浮かべ、彼女は夜の帳の中へと背を向ける。
引き止める間も、余韻を味わう暇もない。
未練の一欠片すら感じさせないその引き際は、あまりにも呆気なく、それゆえに彼女の「空虚」という正体をより色濃く残していった。
闇に溶けるように消えていく九尾ヶ坂の背中を、真は見送ることさえしなかった。
ただ、今の彼には確かな「重み」があった。幽霊のように実体のないはずのまどかが、必死に自分を繋ぎ止めるように、背後から抱きしめていた。
「……姉さん。苦しい」
真の口から漏れたのは、論理とは程遠い、掠れた喘ぎだった。
「『……嘘つきなさい。ボクは触れられないんだから、苦しくもないでしょう』」
まどかは、いつもの軽口を叩いて見せた。けれど、その声は微かに震えている。
「……苦しいんだよ」
本当は、物理的な圧迫など存在しない。幽霊の腕が肉体を締め付けるはずもない。
それでも、真の胸の奥には、どこが苦しいのか自分でも分からない、窒息しそうなほどの重圧が居座っていた。
「『……うん。わかった』」
まどかは優しく、ゆっくりと真の体から腕を離していった。
立ち尽くす真の表情は、暗がりのせいでまどかからは見えない。
きっと、いつもの鉄面皮のような無表情で、崩れた理論を懸命に組み直しているのだろう。
だが、今のまどかには、その沈黙の奥で真が激しく泣いているようにしか思えなかった。
「『まこと……帰ろ』」
どれほどの時間が流れただろうか。静寂が支配する休憩所で、まどかは静かに、壊れ物を扱うような慈しみを持って真を促した。
真はその言葉に従い、糸の切れた人形が再び無理やり動かされるように、幽鬼のような足取りで立ち上がる。
再構築されたとはいえ、論理の支柱を失った身体はひどく頼りなく、夜の闇に今にも溶けてしまいそうだった。
家路へ向かう二人の頭上では、薄雲に隠れた月が、不安定な足取りの真を隠すように、あるいは暴くように、淡く不確かな光で照らしている。
だが、その静謐な夜の底で、一匹、苛立ちを隠さずに吐き捨てる影があった。
「『……ッチ。イヤな匂いがしやがる』」
月光の届かない路地の闇。実体を持たぬはずの「嘘の獣」が、不快そうに鼻を鳴らす。
ライアーの鋭敏な感覚が、真の魂にこびりついた、あの「どろりと甘く、濃厚な香り」の残滓を敏感に捉えていた。
それは、真自身の醜い本音を暴き立てることを愉悦とするライアーにとって、すべてを白く塗りつぶし、思考を停止させる九尾ヶ坂の「救いの嘘」への接触は、生理的な嫌悪を催させるものだった。
(……救済だぁ? 虫酸が走るぜ。あんな空っぽの上に安っぽい『ヤツ』に絆されやがって……)
ライアーは、九尾ヶ坂という存在の奥底に微かに漂う、真の絶望とはまた別の、決定的に欠落した「何か」の気配を嗅ぎ取っていた。
だが、彼はそれを言葉にはせず、ただ真の不甲斐なさを嘲笑うかのように、闇の奥へと沈んでいった。




