表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/169

No.92 境界の再構築、あるいは見えない涙




 No.92 境界の再構築、あるいは見えない涙




 まどかの切実な絶叫が、真の精神に打ち込まれた(くさび)となった。


 九尾ヶ坂の「麻酔」によって溶けかけていた自我の境界線が、その一喝を起点に急速に凝集を始める。


 泥のように淀んでいた瞳に、火を灯すように生気が戻っていく。


 瓦解していた論理の防壁が、再び精緻な幾何学模様を描いて構築されていく。


 その「覚醒」を、九尾ヶ坂は誰よりも早く、そして正確に察知した。


 「……もう、大丈夫そうですね。私はこれで失礼します」


 彼女は徐に立ち上がった。


 つい数秒前まで真の孤独に深く侵食していたことなど、最初からなかったかのように。


 にこりと、すべてを包み込む慈母のような笑みを浮かべ、彼女は夜の帳の中へと背を向ける。


 引き止める間も、余韻を味わう暇もない。


 未練の一欠片すら感じさせないその引き際は、あまりにも呆気なく、それゆえに彼女の「空虚」という正体をより色濃く残していった。


 闇に溶けるように消えていく九尾ヶ坂の背中を、真は見送ることさえしなかった。


 ただ、今の彼には確かな「重み」があった。幽霊のように実体のないはずのまどかが、必死に自分を繋ぎ止めるように、背後から抱きしめていた。


 「……姉さん。苦しい」


 真の口から漏れたのは、論理とは程遠い、掠れた喘ぎだった。


 「『……嘘つきなさい。ボクは触れられないんだから、苦しくもないでしょう』」


 まどかは、いつもの軽口を叩いて見せた。けれど、その声は微かに震えている。


 「……苦しいんだよ」


 本当は、物理的な圧迫など存在しない。幽霊の腕が肉体を締め付けるはずもない。


 それでも、真の胸の奥には、どこが苦しいのか自分でも分からない、窒息しそうなほどの重圧が居座っていた。


 「『……うん。わかった』」


 まどかは優しく、ゆっくりと真の体から腕を離していった。


 立ち尽くす真の表情は、暗がりのせいでまどかからは見えない。


 きっと、いつもの鉄面皮のような無表情で、崩れた理論を懸命に組み直しているのだろう。


 だが、今のまどかには、その沈黙の奥で真が激しく泣いているようにしか思えなかった。


 「『まこと……帰ろ』」


 どれほどの時間が流れただろうか。静寂が支配する休憩所で、まどかは静かに、壊れ物を扱うような慈しみを持って真を促した。


 真はその言葉に従い、糸の切れた人形が再び無理やり動かされるように、幽鬼のような足取りで立ち上がる。


 再構築されたとはいえ、論理の支柱を失った身体はひどく頼りなく、夜の闇に今にも溶けてしまいそうだった。


 家路へ向かう二人の頭上では、薄雲に隠れた月が、不安定な足取りの真を隠すように、あるいは暴くように、淡く不確かな光で照らしている。


 だが、その静謐な夜の底で、一匹、苛立ちを隠さずに吐き捨てる影があった。


「『……ッチ。イヤな匂いがしやがる』」


 月光の届かない路地の闇。実体を持たぬはずの「嘘の獣」が、不快そうに鼻を鳴らす。


 ライアーの鋭敏な感覚が、真の魂にこびりついた、あの「どろりと甘く、濃厚な香り」の残滓を敏感に捉えていた。


 それは、真自身の醜い本音を暴き立てることを愉悦とするライアーにとって、すべてを白く塗りつぶし、思考を停止させる九尾ヶ坂の「救いの嘘」への接触は、生理的な嫌悪を催させるものだった。


 (……救済だぁ? 虫酸が走るぜ。あんな空っぽの上に安っぽい『ヤツ』に絆されやがって……)


 ライアーは、九尾ヶ坂という存在の奥底に微かに漂う、真の絶望とはまた別の、決定的に欠落した「何か」の気配を嗅ぎ取っていた。


 だが、彼はそれを言葉にはせず、ただ真の不甲斐なさを嘲笑うかのように、闇の奥へと沈んでいった。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ