No.93 誰でもない誰か、あるいは甘美なる鏡像
No.93 誰でもない誰か、あるいは甘美なる鏡像
「こんにちは、それとも……もう、こんばんはになるのかしら?」
世界は茜色に焼き尽くされようとしていた。
山々に溶け出す残照が、一刻一刻と影を長く伸ばしていく。
夕光を浴びた九尾ヶ坂麗の表情は、どこか神秘的で、惑乱を誘い、そして恐ろしいほどに美しかった。
真はその「美」に、既視感を覚える。
それは、あの日目にした、人智を超えた存在——『バケモノ』を対峙した時に感じた、生物としての格の違い、人ならざるものの完成された美学に似ている気がした。
「九尾ヶ坂……麗……」
「あら、ご挨拶をしたことがありましたか? ごめんなさい、私、まだあなたの名前を知らないの。教えてくださいます?」
九尾ヶ坂は一歩、いや、半歩だけ真の方へ近寄る。
その歩みは、相手が拒絶反応を起こさない限界を見極めているかのように、極めて自然で、それでいてどこか不自然にも取れる間合いの運びだった。
真は、彼女の纏う空気が、どこか「他者の期待」を鋳型にして創られたような、歪な演劇性を帯びている既視感がある。
しかし、今の彼にはその論理的矛盾を指摘し、防壁を立て直すだけの余力は残されていない。
思考の濁流に呑み込まれたまま、真は吸い込まれるように、彼女の問いに素直な解を差し出していた。
「……繭住、真だ」
「まことさん。それとも、まこと先輩とお呼びした方がよろしいですか?」
「好きにしろ」
「では、まこと先輩。……いえ、まことさんは、どうされたんですか? 何か思い悩んでいる……とても、ひどく苦しんでいるように見えますけれど」
九尾ヶ坂の声が、真の傷口にそっと触れる。
その響きは、真が今、心の底で無意識に求めている「誰か」のトーンへと、わずかに、だが確実に色を変え始めていた。
「ごめんなさい。不躾でしたね。もしよろしければお隣、座ってもよろしいかしら?」
そっと触れた手を離すようにして、その足をもう一歩進めようとする。
「好きにしろと言った」
思考の停滞に陥っていることで、論理の番人は眠りにつき、真の警戒心すらいまは機能していなかった。
「失礼しますね」
麗は、真の隣に座った。
ほんの一人分、あえて無機質な空間を残して。
茜色の残照が真の瞳から生気を奪い、代わりに従順な影を落としていた。
論理の番人が眠りについた彼の脳内では、もはや彼女を拒絶する数式など一行も残っていない。
隣に腰を下ろした麗は、そのまま一切の言葉を発しなかった。
慰めることも、励ますことも、ましてや事情を詮索することもしない。
ただ、真と同じ方向を見つめ、静かにそこに「在る」ことだけを選択した。
茜色の空が、ゆっくりと、しかし確実に黒く染まっていく。
世界の境界線が闇に溶けていくような感覚の中で、真は耐えきれなくなり、重い口を開いた。
「………………どうした」
「なにがですか?」
麗は、正面を見つめたまま、鈴を転がすような声で問い返す。
「……聞くことは、ないのか」
なぜ、こんな場所に一人でいるのか。
なぜ、声を荒らげていたのか。
なぜ、死人のような目をしているのか。
普通なら、誰もが口にするはずの「問い」を、真は半ば自傷的に待っていた。
「ありません。なんとなく、今は聞かない方がいい気がして」
「…………」
その言葉は、真の喉元までせり上がっていた「言い訳」や「拒絶」を、行き場のない虚空へと霧散させた。
何も聞かない。何も踏み込まない。
ただ、今の真が「放っておいてほしい、けれど独りは嫌だ」という、論理的に矛盾した無意識の渇望を、彼女は鏡のように完璧に映し出していた。
「…………僕は、誰だ……」
掠れた声が、自分の唇からこぼれ落ちる。
論理の柱を失った真の自己認識は、暗い海を漂う難破船のように実体を失いつつあった。
「……まことさん。この北王子学院に通う、私のひとつ上の先輩」
「……僕は、なんだ……」
「……少し冷たい、でも優しい人。傷つくことを恐れてる、繊細な人」
麗の声は、真の問いに対する「正解」を語っているのではない。
彼が今、自分自身の輪郭を保つために最も必要としている「定義」を、慈しむように上書きしているのだ。
「………僕は………」
「良いんですよ。無理に傷を深くしなくても。あなたがその痛みに耐えられないというのなら」
九尾ヶ坂の言葉は、真の心に、思考に、どろりととろかす様に染み込んでいく。
心地よい感覚。これまで独りで背負い続けてきた「真実」という名の重荷を下ろし、このまま全てを彼女に預けてしまいたい。
彼女が差し出す「優しい嘘」の中に溶けて消えてしまいたい——そう願うほどに、真の理性の堤防は決壊寸前だった。
だが、その甘美な泥沼の底で、彼の本能が、かつてないほど激しい警報を鳴らし続けていた。
(……ダメだ……。信じるな。これは……最適解じゃない……!)
無視したい。
その警報を切り捨てて、九尾ヶ坂の体温に縋り付きたい。
だが、その鈍りきった思考の鎖を引きちぎるように、聞き慣れた、けれどこれまでにないほど切実な叫びが、真の精神の深淵を貫いた。
「『まこと! しっかりしなさい!!』」
耳に届く音ではない。真の魂を直接揺さぶるような、まどかの絶叫。
その声が、九尾ヶ坂麗の「癒やし」という名の麻酔を、一瞬にして剥ぎ取った。




