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No.94 鏡像の聖域、あるいは甘美なる忘却




 No.94 鏡像の聖域、あるいは甘美なる忘却




 教室という名の喧騒を離れ、真は逃げるように廊下を突き進んだ。


 向かったのは、かつて定期テストの時期に、誰にも邪魔されず効率的に記憶作業を行うために見つけ出した「デッドスペース」。


 今も生徒たちに忘れ去られた、薄暗い休憩所。


 埃の匂いと、澱んだ空気。


 かつては「静寂」という名の最適解だったその場所へ、真は縋るようにその身を預けた。


 まどかは、彼の数歩後ろを付いて回り、その背中に何度も手を伸ばそうとしては、空を切る指先を震わせて躊躇っていた。


 今の真に触れることは、ガラス細工に鉄槌を下すようなものだと、彼女の直感が告げていた。


 項垂れるようにして、冷たい、安っぽいプラスチックのイスに深く腰を下ろす。


 視界の端に、ノイズが混じる。


 霧のように滲み出した「嘘」が、真の耳元で卑俗な声を形作った。


 「『よう、理屈屋。……いいや。今のお前は、俺らっていう異物を内側に取り込んだせいで、自慢の強固な論理が破綻し掛かってるな』」


 ライアーだった。


 彼は真のすぐ隣に腰掛け、覗き込むようにしてその顔を醜悪な笑みで歪めた。


 「『どうよ、それが『感情』ってやつだ。てめぇがガチガチに固めた殻は、今や薄皮一枚のボロだ。中のドロドロとした黄身が、今にも溢れ出してきそうじゃねぇか。隠しても無駄だぜ。いっちまえよ。てめぇが底の方に溜め込んでる、誰よりもクセェその――』」


 「黙れ! ライアー!!」


 それは叫びというより、獣の咆哮に近かった。


 『アジテージ・ラビット』という異常事態を除けば、常に沈着冷静、論理の体現者であったはずの真が、顔を真っ赤に染めて声を荒らげた。


 真は、まさに「親の敵」を目の当たりにしたかのような憎悪に満ちた眼差しで、ライアーを睨み付ける。


 ライアーはその視線を、面白くてたまらないと言わんばかりに真っ向から受け止めた。


 しかし、数秒の睨み合いの後、不意に興が削がれたように鼻を鳴らす。


 「『……ちっ、つまらねぇ。まあいい、その化けの皮が剥がれる瞬間を、特等席で拝ませてもらうつもりだしな』」


 飽きた、と言い捨てて。


 ライアーは嘲笑を残したまま、赤黒い霧へと霧散し、真の視界からその姿を消した。


 後に残されたのは、激しい心拍の音と、静寂に耐えかねて震え続ける、孤独な少年の残骸だけだった。


 ライアーが消え去った後、真は自らの顔を隠すように両手で覆った。


 指の間から漏れる吐息は熱く、しかし指先は死人のように冷え切っている。


 真の時間感覚の中では、それはほんの数秒の出来事だった。


 ライアーに罵倒され、感情の「黄身」を突きつけられた一瞬の。


 だが、現実は残酷に、そして無慈悲に彼を置き去りにして流れていた。


 不意に、遠くで授業の終了を告げるチャイムの音が鳴り響いた。


 その規則的な金属音が、石のように固まっていた真の意識を強引に現実へと引き戻す。


 一時間、あるいは二時間が経過していたのだろうか。


 完璧だったはずのスケジュール、狂いのなかったはずのルーティーン。


 その全てが、この「死角」で完全に欠落してしまったことを、音だけが告げていた。


 「…………」


 ゆっくりと、真は顔を上げた。


 そこに、かつての精緻な機械を思わせる冷徹な瞳はなかった。


 あるのは、酷く憔悴し、内側から暗い泥が染み出してきたかのような、底冷えする冷たい眼差し。


 論理で守りきれなかった「何か」が、彼の目から光を奪い去っていた。


 「『……まこと……』」


 塞ぎ込んだ彼をずっと見守り続けていたまどかが、消え入りそうな声でその名を呼んだ。


 声をかけたい、寄り添いたい。


 けれど、それ以上の言葉は、今の真の「孤独」という名の絶対領域を前にして、喉の奥に張り付いて出てこない。


 真はその場から動こうとはしなかった。


 立ち上がる理由も、教室へ戻る論理も、今の彼には見つけられない。


 コツ、コツ、コツ。


 一定の、まるでメトロノームで刻まれたかのように正確なリズムを伴って、足音が近づいてくる。


 右目の微かな痛み、それと同時だった。


 澱んでいたはずの休憩所の空気が、一変する。


 鼻腔を突くのは、意識をどろりと溶かしてしまうような、濃密で甘い香り。


 花の蜜のようでもあり、あるいは熟しきった果実のようでもあるその芳香が、真の思考を鈍らせ、辺りを深い霧のように満たしていった。


 「あら、またここでお会いしましたね」


 鈴を転がすような、しかしどこか実体のない透き通った声が静寂を切り裂く。


 九尾ヶ坂(くびがさか)(・れい)


 逆光を背負い、影の中から滲み出すようにして、彼女が一人そこに立っていた。


 絶望に塗りつぶされた真の視界に、唯一の「色彩」として現れた彼女の微笑みは、今の真にとって、あまりにも残酷で救いようのないほど美しく映った。










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