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No.95 境界線の変容、あるいは静かなる離別の予兆




 No.95 境界線の変容、あるいは静かなる離別の予兆




 数秒前までの騒がしさが幻覚だったのではないかと思えるほど、真は「日常」という名の防壁を強引に築き上げていた。


 皿に並べられたトーストと目玉焼き、美弥の出勤を見送る際の手を振る動作、そして学院へ向かう規則正しい歩調。


 それら一つ一つのルーティーンを、彼は精緻な歯車を噛み合わせるように実行していく。


 (……異常はない。計算外の『同居人』たちは、僕の認識の外側に追いやった。今、この道を歩いているのは、ただの僕だ)


 だが、その思考の端で、朝の食卓でライアーがニヤニヤしながらベーコンを掠め取ろうとした感覚や、庭からの地響きを「無」と断じた際の脳の軋みが、かすかなノイズとしてこびりついている。


 真はそれを強引に論理の塵箱へと放り込み、学院の門をくぐった。


 「席に着け。朝のホームルームを始める」


  担任の九頭見の声が教室に響く。


 その隣に立つ影を見た瞬間、真が築き上げていた「いつものルーティーン」という薄い膜に、鋭い亀裂が走った。


 松葉杖を突き、痛々しくも誇らしげな包帯を足に巻いた兎束雛が、そこにいた。


 「先ず、ここにいる兎束だが……」


 九頭見の淡々とした説明が続く。先日の事件——不慮の事故として処理された怪我のリハビリのため、今日から来学期まで長期の療養に入ること。



 「――ということだ。兎束」


 「はい。……えへへ、みんなごめんね。あたしだけ一足お先に、早めの夏休みをもらうことになっちゃった」


 兎束はいつも通りの、太陽のような屈託のない笑顔をクラスメイトに向けた。


 あの日に自ら痛みを伴う道を進むことを選んだ彼女の笑顔が、真にひどく眩しく見える。


 視線が交わり、彼女は真に笑顔で力強く頷いた。


 「いいなー! 兎束、リハビリって名目のバカンスだろ?」


 「お見舞い何がいい? ケーキ? それとも参考書?」


 「いや、怪我は大丈夫なのかよ、無理すんなよな」


 教室中から飛ぶ、心配と羨望が混じった喧騒。


 真は、その輪の中に加わることもなく、ただ静かに兎束を見つめていた。


 兎束の視線が、ふと真の方へ流れる。


 その瞳の奥には、以前の彼女にはなかった、何かを乗り越えた者特有の「深み」が宿っているように見えた。


 (彼女の救済は成功し……日常に戻った、はずなのに)


 真が心の防壁を築けば築くほど、その隙間を埋めるように日常が形を変えていく。


 計算式の解が書き換えられていくような、正体不明の焦燥が真の胸を焼いていた。


 そんな真の心の変化を、気がつけばいつも側にいるまどかは、微笑ましそうに、けれどどこか寂しそうに見つめていた。


 兎束は挨拶を終えると、長居は無用とばかりに、再び松葉杖を操って教室を後にし、病院へのとんぼ返りした。


 彼女が去った後の隣席は、切り取られたようにぽっかりと空白が居座っている。


 真はその「空席」に意識を奪われそうになるのを、鋼のような自制心で押さえつけた。


 教科書を広げ、教員の言葉を一言一句漏らさぬようノートに刻む。


 情報の処理に没頭することだけが、今の彼にできる唯一の防壁だった。


 授業終了と同時に、その防壁は後ろの席から飛んできた、締まりのない声によって容易に破られる。


 「やっぱあれだな」


 宇賀が、椅子を前後に揺らし、ぎりりと鳴らしながら脈絡もなく話しかけてきた。


 真は筆記用具を片付けつつ、背後へ冷淡な声を投げる。


 「以前にも言ったが、主語が抜けた会話は相手に理解されない。論理の欠如だ」


 「いやわかってるって。兎束がいなくなると、一気に騒がしさが減るよな、って話だよ」


 「『騒がしさならコタローだけどね。雛ちゃんはムードメーカー的な子だから』」


 宇賀の言葉に、真のすぐ側で浮かんでいたまどかが、くすくすと笑いながら相槌を打つ。


 当然、その声は宇賀には届かない。


 真はまどかの言葉を脳内で「一般解」へと変換し、宇賀へ投げ返した。


 「……彼女は場の潤滑油として、高いコミュニケーション能力を有していたからな。その不在が教室の音量を下げたように感じるのは、統計的にも妥当な推論だ」


 「おう、まあ、そうなんだけどよ。男二人、そこにパッと入ってこれる奴なんて、他にいねぇべ?」


 宇賀は少しだけ寂しそうに、窓の外へ視線を投げた。


 真と宇賀、この偏屈な二人の間に土足で踏み込み、無理やり笑いの輪に繋ぎ止めていたのは、間違いなく兎束だったのだ。


 「『いくら見えも聞こえもしないからとはいえ、ボクを忘れてもらっちゃあ困る。ほら、まこと通訳して、通訳!』」


 まどかがぷうっと頬を膨らませ、真の顔の前に割り込んでくる。


 (……この姉は、僕を困らせたいのだろうか。他人に見えない存在がここにいると説明して、相手がどう解釈すると考えているんだ。非論理的にも程がある)


 真は、目の前で浮遊する「存在しないはずの同居人」の言葉を伝えることはせず、ただ短く、そして軽く流すように返した。


 「……そうだな」


  その肯定が、宇賀の言葉に対してなのか、あるいは自分を無視するなと主張する姉に対してなのか。


 自分でも判別がつかないまま、真は前に向き直り、次の授業の準備を始める。


 「まっ、兎束の件はしゃあなしだな。朱巳ちゃんの話だと来学期にはまた登校できるようになるらしいし。……それよりまこと、あれだ」


 宇賀が椅子をガタつかせ、身を乗り出すようにして真のパーソナルスペースへ詰め寄ってくる。


 真は反射的に顔をしかめ、後ろから迫りくる宇賀を察知して、その顔面に掌を当てて、静かに押し返した。


 「……まずは主語を入れて話せと言ったはずだ」


 「おう、わりぃ。ついな」


  押し返されたにもかかわらず、宇賀はどこか嬉しそうな、犬が尻尾を振るような表情で語り出す。


 「ポンインだよ、ポンイン。この学院独自のポイントシステム。大概の奴らは貯めたポイントを、ここいらで豪華客船の旅とか海外旅行とかにぶっ放すらしいけど、まことはどうするんだ? 俺は毎年恒例の音楽フェスに行くつもりだぜ。……良ければ、お前も一緒に行くか?」


 『ポンインシステム』。


 この北王子学院において、生徒が『依頼(タスク)』と呼ばれる業務をこなした対価として付与される、特殊な通貨だ。


 交換リストにある物品やサービスは多岐にわたり、果てはリストにないものでさえ、申請が通れば「対価」として認められる。


 ある意味では、この学院における「自由の証明」とも言える数値。


 「『まことって、何だかんだで『依頼(タスク)』を効率よくこなしてるから、結構ポンイン貯まってるんじゃない? しかも一度も使ってないし』」


 まどかの言葉に促されるように、真は自身の携帯端末を操作し、現在の保有ポイントを表示させた。


 無機質なフォントで示されたその数値は、真自身が予想していたよりも、遥かに大きな桁を描いていた。


 「うわ……お前、四月に編入してきて、まだ二ヶ月ちょいだろ? どんだけ稼いでんだよ。俺なんて一年中コツコツ貯めて、やっとこれだぞ」


 宇賀が嘆息しながら見せてきた自身の端末画面。


 そこには、真の保有ポイントの約半分ほどしかない数値が並んでいた。


 「『……コタロー。なんでまことの半分くらいしかないのよ。あんた、サボりすぎじゃない?』」


 まどかの呆れたようなツッコミを背中で聞きながら、真は画面に並ぶ数字を見つめる。


 真にとって、タスクをこなすことは「データの収集」と「論理の構築」の副産物に過ぎなかった。


 その対価が、これほどまでに「欲望の種銭」として蓄積されているという現実は、彼にとってまた一つ、予測不能なノイズが積み重なったような感覚だった。


 真と宇賀が端末を突き合わせ、生活感の溢れる会話を交わしていると、周囲のクラスメイトたちがその輪に緩やかに加わってきた。


 「宇賀くん、繭住くん。もし良ければ君らも一緒に、夏休みにキャンプに行かないか?」


 「そうそう。綺麗な湖畔があるキャンプ場なんだってよ。そこでバーベキューとかさ!」


 数人の生徒が、屈託のない善意を持って誘いかけてくる。


 本来ならば、真はこれを「非効率な群像心理」と断じ、一言で断るはずだった。


 あるいは、宇賀がその横から強引に予定をねじ込もうとする、いつもの光景が繰り返されるはずだった。


 だが、その時の真の脳裏には、彼らの言葉を処理するためのメモリは一分たりとも残されていなかった。


(……湖畔?……夏休み……? キャンプ……場……!?)


 特定のキーワードが、真が必死に築き上げた論理の防壁の「綻び」をこじ開ける。


 視界が、教室の白光から一転して灰色に染まっていく。


 低く垂れ込めた、重苦しい曇天。


 地面に不自然な形で横たわる、動かなくなった両親の背中。


 そして、視界の中央で天を突くようにそびえ、赤々と、煌々と空を焼き尽くす巨大な木。


 その燃え盛る大木の根元、熱風に煽られる影の下で、静かに横たわる────


「────ッ!!」


  真の喉から、彼自身さえ聞いたことのないような、裂傷のような叫びが迸った。


 それは無意識のうちに、ある特定の人物の名前を形作っていた。


 「どうした!? まこと、急に!?」


 椅子が激しく倒れる音。


 突然の絶叫に、心配と驚愕を隠せずに詰め寄る宇賀。


 周囲のクラスメイトたちも、凍りついたように息を呑んでいる。


 真の肌からは、まるで土砂降りにでも遭ったかのように、じっとりと嫌な冷や汗が吹き出していた。


 焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨う。


 「……なんでも、ない」


 肺に溜まった熱を吐き出すような、酷く掠れた声。


 真はそれだけを切り捨てるように告げると、ガタガタと震える膝を強引に律して立ち上がった。


 そのまま、誰の視線も受け付けない速度で、教室の出口へと足を進める。


 「おい! まこと、どこ行くんだ!?」


 背後から飛ぶ宇賀の制止を、真は一切無視した。


 今の自分に必要なのは、他者の温もりでも、心配でもない。


 自分の中に溢れ出した「黒いノイズ」を、再び論理の牢獄へと閉じ込めるための、静寂だけだった。


 真は廊下を、誰もいない、冷たい無機質な場所を目指して歩き続けた。


 その後ろ姿を、まどかだけが、何も言えず悲しみに満ちた瞳で見つめていた。










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