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No.97【幕間:祈里寧々子】




 No.97【幕間:祈里寧々子】




 「─────!」


 「──────!」


 夜の静寂を切り裂くように、祈里家のリビングから男女の怒鳴り合う声が響いてくる。


 自室のベッドで丸まっていた寧々子は、その不協和音で意識を浮上させた。


 (……また、パパとママがケンカしてる)


 布団を頭まで被っても、罵声は薄い壁を透過して侵入してくる。


 争いの火種は、寧々子の教育について。


 どちらがより「正しい」寧々子の未来を考えているかという、独りよがりの正義のぶつかり合い。


 (なんでケンカするんだろう? ネネは、別にどっちでもいいのに……)


 寧々子は何度も、その嵐の中に割って入ろうとした。


 自分の気持ちを伝えようとした。


 けれど、パパもママも「子供は黙っていなさい」「あなたのためを思って言っているのよ」と、彼女の言葉を遮り、視界から外してしまう。


 子供である寧々子には、最早どうすれば良いのかわからなかった。


 ただ、耳を塞いで、この嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。


 そうして寧々子は、今宵も呪詛のような言い争いを聞きながら、重い瞼を閉じようとした。


 その時。


 遠い、けれど確かな音階で、どこからか猫の鳴き声が耳に届いた。


 (……猫さんの、声……)


 それは、あの精神世界で聞いた「めんどくさい」と欠伸をする猫の声だったのか。


 あるいは、誰かが自分を呼ぶ声だったのか。


 棘のように刺さっていた両親の怒鳴り声が、その瞬間だけ不思議と遠のいていく。


 心地よい微睡みの波が、彼女の意識を優しく包み込んだ。


 寧々子はそのまま、静かな夢の中へと、ゆっくりと沈んでいった。


 意識が現実の喧騒から切り離され、寧々子の精神世界――真っ白な無垢の広野に降り立つ。


 そこには、現実の痛烈な怒鳴り声も、突き刺さるような言葉の刃もない。


 けれど、今日は先客がいた。


 「……ふわぁぁ……。ここも微妙に騒がしいけど、まぁ、マシな方かな……」


 そこには、一匹の白い猫がいた。


 あちこちの人間の心の中を渡り鳥のように旅し、どこへ行っても「ここは怒りがうるさい」「ここは欲が深くて寝心地が悪い」と不満を垂れていた気まぐれな獣。


 クレイドルは、真っ白な広野の中央で丸まると、重たげな瞼を閉じる。


 「ここでちょっと昼寝させてもらおう。……ふぁあ……ねむい」


 「……えっと。しゃべる猫さん?」


 寧々子は驚きよりも、子供特有の素直な好奇心でその獣を見つめた。


 「なんでお喋りできるの? 夢だから? それとも、魔法?」


 質問を浴びせかける寧々子に、寝入り端を邪魔されたクレイドルは、少しだけ耳をピクつかせて不機嫌そうに尻尾を振った。


 だが、目の前の存在が「悪意」ではなく「純粋な疑問」でできていること、そして何より怒るのさえも面倒だという彼の性格が、怒号を呑み込ませる。


 「……魔法でも何でもいいよ。ボクがボクで、君が君である以上に、説明しなきゃいけない理由なんて、めんどくさくて思いつかない……」


 「ねぇ、どこから来たの? お名前は?」


 「……しーっ。……静かにしてよ、お嬢さん。ボクが寝るために、この場所を『静か』にしてあげるからさぁ……。君も、その方がいいでしょ……?」


 クレイドルはそう言い捨てると、寧々子の質問を聞き流すように鼻先を丸めて眠りについた。


 その瞬間、寧々子の心域から、外界の微かな「喧嘩の残響」すらもが消失し、完璧な無音の停滞が訪れる。


 (……静か。……猫さん、おやすみなさい)


 それが、寧々子が『平和』を手に入れ、同時に世界を止める力を手に入れた、最初の夜だった。


 翌朝、寧々子が目を覚ますと、奇跡が起きていた。 


 いつもなら刺々しい沈黙や罵声が飛び交う食卓に、喧嘩を始める前のような、穏やかな空気が戻っていたのだ。


 (……パパとママ、仲直りしたのかな?)


 寧々子はよく分からなかったが、それでも嬉しくて、その日は一日中、久しぶりに「子供らしい」笑顔で過ごした。


 けれど、そんな魔法のような日々は数日しか持たなかった。


 両親は再び、些細なきっかけで以前よりも激しい険悪な関係へと戻ってしまう。


 寧々子はまた絶望に暮れ、泣きながら耳を塞いで眠りに就いた。


 目覚めるとそこは、いつもの夢の中。


 白い猫が、相変わらず幸せそうにスヤスヤと寝ている。


 寧々子は、寝ている猫を起こさないよう、小さな声で独り言を呟いた。


 「なんでまた、ケンカし始めたんだろう……?」


 その呟きに、クレイドルは片方の耳をピクリと動かし、面倒そうに片目だけを開けた。


 「ふあぁぁ……。そりゃボクの力だよ。寝床を提供してくれている君の願いを、ボクが寝やすいように『一部』だけ叶えてあげた、その効果が切れたのさ」


 その言葉に、寧々子はしばらく思考を停止させていたが、やがて瞳を輝かせた。


 「猫さん、魔法が使えるの!?」


 「魔法じゃないよ。人の欲を……あー、なんか説明するのめんどくさいな。うん、もう魔法でいいよ」


 「すごい、すごい! 魔法が使えるんだ! ネネにも使える?」


 「ボクと契約すれば使えるけど……。いや、あのね、ボクみたいな存在が言うのもなんだけど、気軽に契約なんて結ぶものじゃないよ。何より、そんなことしたらボクが働かなくちゃ――」


 「猫さんとお友達になれば使えるの!? ならネネ、猫さんとお友達になるよ!」


 「いや、人の話を聞こうね、ボク人じゃないけど。……はぁ。やっぱり精神世界だと、子供は心のタガが外れやすいんだよね……」


 クレイドルは深々と溜息をついた。


 働きたくない。


 けれど、この場所は心地よく、何より自分を「お友達」と呼ぶこの少女の側は、他のどの心域よりも「静か」だった。


 「……はぁぁ……。もういいよ、しばらくこの子に付き合うか。……めんどくさいなぁ。なんでみんな、ボクをそっとしといてくれないんだ。……仮契約だけどね、よろしく寧々子」


 こうして、純粋にして無垢な、最強にして最悪な使者が誕生した。


 だが、主人が「平和」を望み、従者が「怠惰」を極めていたため、その強大な力が世を騒がせるのは、ずっと後の、ある「バナナを熱く語る少年」と出会う日のことである。




 ☆★☆★☆




 その日、新都のビルの間にある小さな公園に、少女が心寂しげにその身を寄せていた。


 公園のブランコに、小さな影が揺れている。祈里寧々子だった。


 「……祈里、寧々子」


 「あ、ボランティアのお兄さん……」


 そこに、ボランティアでよく一緒になる男子高校生が鉢合わせた。


 「こんな時間にどうした?」


 高校生は、純粋に寧々子の心配をして声をかけた。


 「えっ、と、その……」


 寧々子の言い淀みに、高校生は何かあったのだろうと察する。


 そのまま踵を返そうとするも、どこか遠くを見つめて立ち止まる高校生。


 軽く息を吐き、彼は寧々子の側へと歩み寄った。


 「ここで以前、悩み事の相談を請け負ったことがある。もし、祈里寧々子にもそうした相談事があるなら、聞こう」


 高校生の言葉に、寧々子は戸惑いを見せる。


 しかし、誰かが優しく自分を抱きしめてくれるような感覚と、どこかめんどくさそうに鳴く猫の声が聞こえた気がして、寧々子は胸の奥にある悩みを打ち明けた。


 「……お兄さん。パパとママ、どうやったら仲良くなってくれるかな。ネネがどれだけ祈っても、魔法が解けるとすぐに元に戻っちゃうの」


 魔法の限界と、子供ゆえの無力感を吐露する寧々子。


 高校生は彼女の言葉を茶化すことも、面倒くさがることもなく、真摯に応える。


 「祈るだけでは、世界は止まっても変わりはしない。……君たちの家の事情に、正面から介入できる人間はいないのか? 君のパパやママが、無視できないような『大人』だ」


 高校生は彼女の影に潜む「何か」の気配を感じつつも、あえて現実的な解決策を提示した。


 「親族でも、恩師でもいい。君という『子供』ではなく、一人の『祈里家の事情を知る人間』として介入できる者だ。……君の代わりに、君の居場所を守るための盾になる人間を、思い当たるはずだ」


 寧々子は考える。


 そして、両親が唯一頭の上がらない「おじいちゃん」の存在を思い出した。


 「……あ。……おじいちゃんなら、二人は逆らえないかも。パパをいつも叱ってくれるし……ママも、おじいちゃんの言うことなら聞いてくれる……。でも、ネネが連絡しても、怒られちゃうかな?」


 「……怒られるのが嫌で世界を止めるのと、一度怒られて明日を変えるの、どちらが効率的か考えるまでもないはずだ。なら、(いの)|りではなく、(たよ)|れ。それが君の、現実におけるリベレーター(解放)だ」


 寧々子は深く頷き、ブランコから飛び降りた。


 「うん。やってみる。お兄さん、ありがとう。……お兄さん、なんだか今日は、少しだけ『あったかい』ね」


 高校生の背後に、暑苦しく筋トレを行うウサギの幻影を見たような気がして、寧々子はクスクスと笑いながら走り去っていく。


 公園のベンチに残されたのは、少女の小さな足跡と、相変わらず高校生の影の中で丸まっている白い猫の気配だけだった。


 数日後。


 寧々子の家には、彼女が自ら連絡を取った「祖父」が訪れた。


 激しい雷を落とされた両親は、初めて自分たちの醜態を突きつけられ、ようやく寧々子の顔を見て話し合いの椅子に座ることになった。




 ……解決したかどうかは、彼女のあの笑顔を見て判断するとしよう。












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