No.98 【幕間:兎束雛】
No.98 【幕間:兎束雛】
見舞いの人の波も途絶え、夜の静寂が忍び寄る病室。
検査の結果を、その残酷なまでの真実を含めて全て包み隠さず教えられた雛は、一人ベッドの上で天井を見つめていた。
「(……走れなくなるかもしれない。走れても、以前のようには……)」
主治医の言葉が頭を巡る。
だが、その瞳に絶望の色はなかった。
ただ一点を見つめ、彼女は小さく、けれど確信を込めて呟く。
「……うん。決めた」
雛はナースコールを使い、看護師を呼び出して言付けを頼んだ。
「先生にもう一度話したいことがあるんですが、お時間ありますか?」
ほどなくして、回診を兼ねた担当医が雛の病室へとやってくる。
「何かありましたか? 痛むところでも?」
「……いえ。先生、お願いしたいことがあります」
雛は上体を起こし、真っ直ぐに先生を見据えた。
自らの足の機能、リハビリの可能性、そして「アスリートとしての死」を受け入れた上で、その先に何を見ようとしているのか。
彼女は真剣に、そして真摯に言葉を紡いでいった。
先生は最後までその話を聞き届け、しばし沈黙した後、重く口を開いた。
「兎束さん。それは決して楽な道ではないですよ。私が提案したリハビリより、もっと過酷で残酷な結果になるかもしれません。ご両親や学院の先生たちと話し合いをしなくて、本当に良いのですか?」
「……はっきり言えば、相談した方がいいと思います。でも、それでもあたしの人生はあたしのです。誰かに言われるからじゃない。誰かのためでもない。あたしのために、あたしの時間を使いたいんです」
先生は雛の強い眼差しに目を閉じ、その覚悟を吟味するように考える。
「……わかりました。ただし、今の言葉をやはりご両親や学院の先生たちにも伝えてください。ご納得がいただけたなら、私も医師として全力で、あなたの回復の手伝いをいたします」
「はい。ありがとうございます」
雛の返事は短かったが、そこには「煽動」に頼らずとも燃え上がる、彼女自身の確かな火が灯っていた。
雛はまず両親へ連絡をしようと手を伸ばすが、手荷物はすべて学院のロッカーに預けたままであることに気づく。
公衆電話の場所を聞き、一人で歩こうとしたものの、「安静」の二文字を突きつけられ、車椅子での移動を命じられた。
看護師に車椅子を押され、静かな廊下を進む。
その途中、ラウンジのベンチで、深々と頭を抱えている一人の少年の姿を見かけた。
「あれ? まだ帰ってなかったの?」
声をかけると、彼がゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、いつもこちらの心を見透かすような冷徹な瞳をした彼ではなかった。
何か取り返しのつかない失態を演じたのか、あるいは到底信じられない不条理に直面したのか。
ひどく疲れ切り、形容しがたい「やっちまった感」を顔全体に張り付かせた姿。
「…………。……兎束、雛か」
その声にはいつもの鋭さはなく、どこか遠い場所を漂っている。
「あははは! なにそれ、なにその顔! いつもの君らしくない!」
雛は思わず、お腹を抱えて笑った。
自分がこれから過酷な運命に向き合おうとしていることさえ、一瞬忘れてしまうほど。
無機質な鉄の塊のようだった彼が、今はひどく泥臭く、人間らしく見えた。
「……笑うな。不可抗力だ」
「無理だって、そんな顔してたら! 全然似合わないよ、そんな顔」
屈託のない笑顔で笑い飛ばす雛。
少年はさらに深く溜息をつき、逃げるように視線を逸らした。
その横顔は、病院の静寂の中で、以前よりもずっと「同じ年頃の男の子」としてそこに存在していた。
雛は受話器を取る前に、目の前にいる彼に報告をすることを選んだ。
今、この瞬間の決意を誰よりも先に、この少年に伝えたかった。
「うん、あのね。みんなにもきちんと話すつもりだけど、君が一番最初かな。その報告をさせてください」
少年は、いつもの少し冷めた、けれど拒絶はしない無機質な表情で雛を見つめてくる。
相槌はない。
だが、今はその「静かな空席」こそが、雛にとってはとてつもなく有り難かった。
「あたし兎束雛は、もう一度スプリンターを目指すため、長期のリハビリを行います。……目標は、来年の地区予選に出場することです」
医師から「過酷で残酷な道」だと言われた未来。
それを、雛は一切の迷いなく口にした。
言い切った彼女を、少年は一瞥して淡く返した。
「それは報告ではなく、決意表明では?」
「かもね。でも、誰かにあたしの思いを聞いてもらいたかった。あたしがあたしだけの道を切り開くために。……まあ、迷惑かもしれないけどね」
最後は少し茶目っ気たっぷりに笑う雛。
少年はゆっくりと首を横に振り、沈黙を挟んでから答えた。
「いいや……良いんじゃないか。君がやりたいことを、誰かが止める権利も理由もないはずだ。だから、僕は君の決意に賛成も否定もしない」
「えー、そこは『応援する』とか言ってほしいな」
「声援は過度な期待となり、時に個体への重荷となるからな――」
「違うよ」
雛は彼の言葉を遮るように、静かに、けれど強く首を振った。
「応援は力になるんだよ。頑張れるんだ。もし、残りカスになっちゃったとしても、誰かがあたしの背中を押してくれる声があれば、何度だって立ち上がれる。重荷になんて、絶対にならないよ」
そこには、これまでの「煽動」に縋っていた頃とは違う、清澄な覚悟を宿した少女の顔があった。
少年はしばらくの間、雛の瞳をじっと見つめていたが、やがて負けを認めたように小さく溜息をついた。
「そうか……。なら、がんばれ」
「うん。ありがとう!」
初めて少年から送られた、理屈抜きの真っ直ぐな言葉。
雛は、その応援を全身で受け止めるように、最高の笑顔で微笑んだ。
車椅子が動き出す。
電話機の向こうにいる両親へ、そしてその先にある過酷な明日へ。
少年の背中を見送りながら、彼女の足元には、もう見えない鎖も、重い粘り気も存在していなかった。




