No.99忘却(レテ・)の揺篭(クレイドル)、あるいは無垢なる停滞
No.99忘却の揺篭、あるいは無垢なる停滞
琥珀色の熱狂が去り、静まり返ったスタンピード・トラック。
真は無機質な瞳でアジテート・ラビットを「処分」しようと手を伸ばすが、その時、この空間内に突如として悲しく、震えるような獣の声が響き渡った。
「『え!? なに!? 猫の声……?』」
『――チッ。おい理屈屋、今すぐ逃げろ! 厄介なのが来やがるぞ!』
まどかは響く猫の声に困惑し、ライアーは激しい悪態をつきながらも真に逃走を呼び掛ける。
だが、その警告を遮るように、真の精神の奥底から冷徹な声が響く。
『もう遅い。……ここはすでに、彼奴の領域だ』
レグルスだけは、この静寂の正体を正しく理解していた。
真の視界では、リベレーターのシステムが異常事態を知らせる警告表記を急速に更新し続ける。
しかし、真の思考はまるで粘度の高い水の中にいるように緩慢になっていく。
(……警告。……思考回路に『不透明な不純物』を混入。……「排除」という目的の重要性が急速に低下……。……あのアジテート・ラビットを、消す……理由が、思い出せない……)
空間に、見えない爪で裂いたような亀裂が走り、そこから淡いイノセント・ホワイトの光が溢れ出す。
裂け目から歩み出たのは、一人の小さな人影と、彼女の足元に寄り添う一匹の白い獣。
「お兄さん。なんでケンカしてるんですか? ケンカはダメなんですよ」
幼き声、幼き顔、愛らしくどこか人を魅了するその表情。
それは真のみならず、まどかにも見覚えのある人物だった。
「……祈里、寧々子……」
「『ネネちゃん!? なんで!? どうしてここに……!?』」
まどかの悲鳴にも似た問いかけに、祈里寧々子はただ悲しげに首を傾げる。
はっきりと言おう。
この相手は、正しさを持つ者にとっても、悪意を持つ者にとっても、間違いなく天敵となり得る『平和』の少女であると。
(……警告。……目的関数『救済』を喪失。……自己定義の希釈を確認……。……もう、どうでも、いい……)
真の右目から、あんなに煌々と輝いていた銀河の色彩が、一滴ずつ溢れ落ちるように消えていく。
自分がなぜここに立ち、何を成そうとしていたのか。
その「意味」が、祈里の純白な気配に触れるたび、春の雪のように溶けて消えてしまう。
「『まこと! しっかりして! まこと、私の声が聞こえないの!?』」
精神領域で、まどかが喉を枯らさんばかりに叫ぶ。
だが、彼女の必死な呼び掛けさえも、今の真にとっては「子守唄に混じるノイズ」程度にしか感じられない。
ライアーは魔道書の奥底で沈黙し、レグルスもまた、玉座に座したまま微動だにしない。
規律とは「記憶」と「継続」の上に成り立つもの。
それを根底から奪い去る忘却は、法という概念そのものを無効化していた。
だが、この白一色の静寂を、下品な金属音と共に踏みにじる存在がいた。
ガチャン! ギギギギッ!
「『――えっ!?』」
まどかが驚愕して視線を向ける。
そこには、蒼白の鎖に全身を縛り上げられているはずの『煽動の兎冠』が、肉体を激しく脈動させ、鎖を軋ませながらジタバタと暴れ回っていた。
「『ちょっと……なんであんた、そんなに動けてるの!? レグルスの力で縛られて、ネネちゃんの力で戦う理由も消されてるはずでしょ!?』」
他のすべてが「静止」と「沈黙」を選び、真ですら牙を抜かれている最中に、一人だけ汗を飛び散らせて藻掻いている獣にまどかは混乱する。
すると、アジテート・ラビットは筋骨隆々の太い腕を無理やり動かし、あろうことか、拘束されたまま指を立てた。
「この程度、元気があれば大丈V!」
満面の笑みでピースサインを送るラビット。
そのあまりに空気を読まない、論理も理由も一切介さない「底抜けの熱量」。
まどかは、世界の終焉のような光景の中で、自分にピースを送る獣に対し、この上なく冷ややかな視線を送った。
「『……死ねばいいのに』」
思わず本音が漏れるまどか。
だが、気付く。
この獣の司る『殉身』。
理由など後回しで、ただ「熱」を煽り立てるその力だけが、この凍てつく忘却の揺り籠を、物理的に叩き起こせる唯一の爆弾であることに。
「『ちょっと……何とかしなさいよ、この脳筋ウサギ!!』」
まどかの悲鳴に近い命令を受け、アジテート・ラビットは待ってましたと言わんばかりに、その図太い首を鳴らした。
「合点承知の助だ! お嬢さん、あとで一緒に朝日を見ながら、プロテインの一杯でも奢ってもらうぜぇ!」
暑苦しい咆哮と共に、ラビットから溢れ出したドロドロとした黄金の熱気が、真の精神領域へと無理やり流し込まれる。
(……!! 警告。……思考回路に想定外の過負荷。……論理演算を物理的な「熱」が上書き。……熱い。……思考が、溶ける……!)
真の右目が、白色の静寂を焼き切り、沸騰するような黄金色に変色する。
寧々子の「忘却」が思考を消そうとするそばから、ラビットの「根性」が強制的に新しい思考(というか、ただの衝動)を焼き付けていく。
「……お兄さん。なんで、そんなに苦しそうなこと、するんですか?」
祈里が不思議そうに首を傾げる。
彼女の足元では、忘却の揺篭猫が、主人の困惑などどこ吹く風で、大きく口を開けて欠伸をした。
「……ねぇ、クレイドル。あのお兄さん、まだ戦いたいんだって。止めてあげて?」
祈里の言葉に、クレイドルは眠たげな目で真を一瞥し、面倒そうに尻尾を振った。
「……えぇー。なんで戦うの……? めんどくさ……。疲れるだけだよ、お兄さん。……もう寝ようよ。ボクと一緒に、永遠にさぁ……」
クレイドルの欠伸と共に、その喉から漏れる「ゴロゴロ」という音が、物理的な衝撃波となって真を襲う。
それはダメージを与えるためのものではない。
触れた者の「心臓の鼓動」さえも、面倒になって止めてしまいたくなるような、究極の倦怠。
「(……くっ、身体が、重い……。……歩く理由が、一歩ごとに、削られて……)」
一歩踏み出すたびに、真の脳裏から「目的」が剥がれ落ちていく。
だがその度に、背後のラビットが真の魂にケツを叩くような怒号を飛ばす。
「止まるんじゃねぇ! 意味なんてのはな、勝った後に後付けで計算しやがれッ!! てめぇにあるのはなんだ!そう根性だ!気合いだ!ガッツだ!」
論理(真)が死に、規律が眠り、嘘が逃げ出す中で、この「無意味な熱血」と「最強の怠惰」が真っ向から衝突する。
「『ちょっと! ボクのこの銀河的なエフェクトが、こいつの暑苦しい筋肉の汗で濁ってるじゃない!』」
まどかの悲鳴が響く中、真のリベレーターとしての姿に変異が生じる。
高潔な銀河の光は、ラビットの「過剰な生命力」という名の不純物を注入され、もはや「内側から燃え盛る理不尽な黄金」へと変色していた。
「(……論理的な勝機、ゼロ。……生存戦略、破綻。……だが、うるさい。……背後の獣が、一秒間に一万回『根性』と連呼していて、計算が……できないっ!)」
真は頭を抱えながら、もはやヤケクソに近い足取りで、純白の霧の中を突き進む。
「……お兄さん、本当に変です。そんなに汗をかいて、何が楽しいんですか?」
祈里が心底気味悪そうに、ワンピースの裾を引いて後退りする。
彼女の足元で、最強の怠惰猫・クレイドルが、半開きの手で真を「しっしっ」と追い払うような仕草をした。
「……うわぁ、暑苦しい……。ねぇ、お兄さん。その「やる気」って、どこで売ってるの? ……返品してきなよ。見てるだけで、こっちまで肩が凝るんだけど……」
クレイドルが大きく欠伸をすると、さらに強力な「忘却の波」が真を襲う。
だが、その「波」が真の脳に届く直前で、脳筋ボイスの怒号がすべてを掻き消した。
「甘ぇんだよ猫公! 返品不可の全額買い取り、それが「若さ」って勇気だ! 愛ってなんだ!さあ行け理屈屋! 筋肉の導き出した答えを、そのクソ生意気なガキに叩き込んでやれぇ!!」
「……黙れッ! 僕に指図をするなッ!!」
真が咆哮する。
それは「規律」でも「論理」でもない、ただの「キレた思春期の叫び」だった。
真は右手に「論理」ではなく「質量(ただの拳)」を凝縮させ、やる気のない猫と、ドン引きしている小学生に向けて、全力のストレートを叩き込もうとするが。
「(……だめだ。殴れない。……拳を固める理由が、彼女の悲しげな瞳を見るたびに「平和的」に分解されていく……)」
真の右目から黄金が引き、再び「白」が侵食しようとした、その時。
背後のラビットが、真の耳元で重低音の脳筋バリトンボイスを響かせた。
「理屈屋……。お前、さっきから「何を殴るか」ばっかり考えてるな? ……甘い。プロテインのチョコ味より甘いぞ!」
「……何が言いたい」
「言葉をぶん殴るんだよ! 意味なんてなくていい、魂の「熱」だけで、そのガキの鼓舞(心拍)を強制的にヒートアップしてやれッ!! バルクアップだ!!」
ラビットの言葉に感化され真は、半ば自暴自棄に叫んだ。
もはやリベレーターの演算ログには、一行も「正解」は表示されていない。
寧ろ「理解不能」の文字が滝のように流れている。
「祈里寧々子……! 君の言う平和は、ただの『静止』だ! 確かに喧嘩は非効率で、無意味で、醜いかもしれない……! だが、心拍数が上がらない人生に、何の価値があるというんだ! プロテインを飲んで、筋肉が悲鳴を上げ、その破壊の先に新しい明日があるように……! 傷つくことを恐れて、世界を白く塗りつぶすなッ!!」
「『(……まこと、今プロテインって言った? 筋肉って言った? 大丈夫!?)』」
まどかの動揺を無視し、真の言葉は加速する。
ラビットの「暑苦しさ」をそのまま言語化したような、脈絡のない、けれど圧倒的な音圧を伴った言葉の暴力。
ラビットは後ろでうんうんと頷いている。
「そうだ! 喧嘩ができるのは生きてる証拠だ! 仲直りの後のバナナは美味いぞ! さあ祈里寧音子、僕と一緒に健全にスクワットから始めようかァ!!」
「……えっと、お兄さん、何、言ってるの……?」
祈里の顔が、初めて恐怖ではなく「純粋な困惑」で引きつった。
彼女が作り上げた高潔な忘却の領域が、真とラビットが放つ「なんだかよくわからないけど凄まじい熱量」のせいで、目に見えて生暖かく、湿っぽく変質していく。
「『……うわぁ……。ねぇネネちゃん、もう帰ろう。この人たち、話が通じないどころか、なんか……「成分」が濃すぎて酔いそう……』」
クレイドルが、心底嫌そうに鼻をひくつかせ、寧々子のワンピースの陰に隠れる。
「……うん。お兄さん、なんだかよく分からないけど……。わかった。お兄さんといると、全然『静か』じゃないから……。ネネ、今日はもう、帰るね」
「待て! まだ話は――」
「さよなら、お兄さん。次は……もっと静かな場所で会おうね」
祈里はそう言い残すと、裂け目の中へと吸い込まれるように消えていった。
後に残されたのは、一気に崩壊を始めた識蘊の箱庭・スタンピードトラックと、全力で演説をぶちかまして息を切らす真。
そして、誇らしげに胸筋をピクつかせるラビットだけだった。
「…………。……姉さん」
「『……何?』」
「……僕は今、何をしていたんだ?」
「『……聞かないで。ボク、まことがあんなに「バナナ」について熱く語る姿、一生忘れないと思う……』」
「………」
その日、真は生まれて初めて頭を抱え悶え苦しんだとか。
その真の足元で丸まっている白い影――忘却の揺篭猫。
契約者の祈里が去ったというのに、その猫は大きな欠伸をして前足で耳を掻くだけで、動こうともしない。
「『ちょっと、ネネちゃん行っちゃったわよ! あんたも付いていかなくていいの!?』」
まどかの問いかけに、クレイドルは眠たげな片目を薄く開け、心底どうでもよさそうに喉を鳴らした。
「……えぇー。だってめんどくさいじゃん。寧々子と一緒にあちこち行くの、結構疲れるんだよね……」
「……契約主を置いていくのか。そんなことが許されていいのか?」
真の冷徹なツッコミに対し、猫はふいっと顔を背けて丸まり直す。
「契約なんかしたら、それこそ「働かなきゃいけない」でしょ。ボクはやだね。ここでこうして、誰にも邪魔されずに寝てるのが一番。……お兄さんたちも、ボクのことなんて忘れて、さっさとどこか行きなよ……ふぁあ……」
「『……なによこの猫。最強の力を持ってるくせに、ニートの才能しかないじゃない……』」
「ハッ! 気に入るぜぇ! 働きたくないから戦わない。ある意味、究極の「意志」じゃねぇか!おっし!猫公!一緒に爽やかスクワットを100万回をやらないか!」
暑苦しく笑うラビットと、呆れ果てて言葉を失うまどか。
真は、激しい賢者タイムと全身の疲労に耐えながら、自分の右目に残る「熱」の残滓を、そっと抑えた。
(……論理的破綻。……救済の結果として、手に負えない「怠惰」と「熱血」がこの場に残った。……これが、僕の望んだ最適解なのか……?)
崩れゆく精神世界の中、眠り続ける猫と、スクワットを始めるウサギ。
真は深い、深い溜息をつき、現実世界への世界浮上を起動した。




