No.100 規律の宣誓(マニフェスト)、あるいは|王の裁定
No.100 規律の宣誓、あるいは|王の裁定
【……Error。演算不能。……個体:兎束雛の生命活動停止まで、あと百二十秒。……救済の最適解、未検出……】
膝をつく真。
銀の光は煤け、右目の計算ログは赤く塗り潰されていく。
命を燃やす兎束の「熱」が、冷徹な理数回路を焼き切ろうとしていた。
『ヒャハハハッ! 見ろよ理屈屋、これが「人間」の熱量だ。お前の冷てぇ算盤じゃ、一ミリも測れねぇ――』
『――いい加減、貴様の声は耳障りだな。……駄犬』
その瞬間、世界から「音」と「熱」が消失した。
真の右目から、琥珀色の焦熱を押し戻すような、絶対的な氷の静寂を纏った蒼白の波動が溢れ出す。
『……っ!? てめぇ、レグルスか……!』
ライアーの声に、かつてない動揺が混じる。
真の意識の深淵の領域から、幾千万の法典を積み上げた玉座に座す「獅子王」が、冷ややかに目を開けた。
『演算など不要だ、真円を綴るもの。測る必要もなし。……不合理な熱狂、無秩序な殉身。これらはすべて、世界の安寧を乱す『不備』に過ぎない』
真の左手の魔道書・真実を綴る書が、皮膚を裂かんばかりの冷気を放つ。
レグルスの意志が真の肉体を直接「調律」し、その思考を論理の先にある『断罪』へと強制移行させる。
『跪け。……ここは王の御前であり、秩序の檻の中だ。……これより、先の領域における、汝の全運動エネルギーの所有権を剥奪する』
レグルスの言葉と共に、真がゆっくりと立ち上がる。
その左手からは魔道書がなくなり。
その肩には獅子の頭部と、全てを縛る蒼白の鎖が腕を覆うように巻き付き。
その左反面に顔を覆うように目隠しの帯が巻かれた。
その姿はもはや「傷ついたヒーロー」ではなく、荒れ狂う嵐を指先一つで鎮める「法の執行者」そのものだった。
【……全運動ベクトルを完全固定。……個体名:兎束雛、および欠落した獣:煽動の|兎冠《・ラビット》を『|規律の鎖《ロウ・チェイン』による拘束を開始】
真の周囲に展開された蒼白の鎖が、一斉に獲物へと撃ち放たれた。
それは「風前の灯」の如く命を燃やしていた雛の、最後の残光を物理的に締め上げ、その場に縫い留める。
「『やったー! まこと、ズッ友チェーン! これズッ友チェーンだね!』」
脳内でまどかが歓喜の声を上げるが、真はそれに答える余裕も、目隠しの下で表情を動かすこともしない。
ただ静かに、拘束され、激しく呼吸を乱す雛の前に歩み寄った。
「兎束雛。改めて言う。……君が走ることを止めても、その価値が損なわれることはない」
「やめて……! 何度も言わせないで! あたしから走るのを取ったら、何も残らないの……!!」
鎖に縛られながらも、雛は剥き出しの絶望をぶつける。
だが真は、レグルスの冷徹な眼差しを一時的に「真」として緩め、彼女を見つめ返した。
「そんなことはない。……それを言葉にして証明することは、今の僕にはできない。けれど、それを君に見せていくことは、きっとできる」
呆気に取られ、雛の叫びが止まる。
「……なによ、それ。結局、価値はわからないって言ってるようなもんじゃない」
「価値は、他者が決めていくものだ。……けれど、その価値をどんなものにするかは、自分自身だと、思う」
最後の一言に、真の「論理」ではない、彼自身の戸惑いと自信のなさが微かに滲む。
その「完璧ではない」言葉に、雛の口から乾いた笑い声が漏れた。
「……あは、あははは! なにそれ、おかしい……。そこまで言うなら、もっと自信持って言ってよ」
一頻り笑い、憑き物が落ちたように雛は大きく息を吐いた。
「……うん。わかったよ。まだ、あたしには走ることしか価値はないけど……。うん。きっと見つける。走ること以外で、あたし自身の価値を」
その言葉を最後に、雛の精神体は眩い光の粒子へと変わり、琥珀色の牢獄から霧散していった。
後に残されたのは、主人を失い、蒼白の鎖に絡め取られたままの巨大な獣――『煽動の兎冠』と、静まり返ったこの識蘊の箱庭・スタンピード・トラックだけだった。
雛が光となって消え、琥珀色の空気が急速に冷えていく。
真の腕に巻き付いていた蒼白の鎖が霧散し、肩の獅子頭もその輪郭を失っていく。
目隠しの帯が解け、露わになったその瞳には、安堵の色など微塵もなかった。
真は元のリベレーターの姿へと戻りながら、鎖に繋がれたままの巨大な獣――アジテート・ラビットへと視線を向ける。
「欠落した獣、煽動の兎冠。僕に降るか、消滅するか選べ」
その声は、かつての無機質さを通り越し、凍てつくような「宣告」だった。
「『まこと……? どうしたの? その言い方じゃ前の、ううん、前よりひどいわよ!』」
あまりの変貌に、まどかが困惑の声を上げる。
しかし、真は首を動かすことさえせず、冷徹に言い放った。
「姉さん。無駄な感情を作るな。効率が悪い」
「『は? ほんとまこと! いったいどうしたの!?』」
慌てて真の精神領域に詰め寄るまどか。
その精神領域に、真の喉を借りない重厚な響きが直接届く。
『真円を綴るものがそのようになったのは、我の力を使ったからだ。縁者よ』
「『え? あなたは……レグルス?』」
『呼び名は好きにすればよい。我を内に秘め、彼の者は規律を得た。故にその行動には、私情を排した「正しさ」のみがもたらされる』
「『……じゃあ、さっきまことが雛ちゃんに言った言葉も……感情豊かになってきたんじゃなくて……』」
『そうするべきものであるがゆえに、そうしたまで。法に情緒は不要だ』
『……チッ。これだから「王」を気取る奴は反吐が出るぜ。面白くも何ともねぇ』
魔道書の中から、ライアーの不愉快そうな声が響く。
今の真には、ライアーの毒気すらもはや「管理すべき雑音」に過ぎなかった。




