No.101 不一致な栄光(パラドックス・グローリー)、あるいは虚ろな頂点(セルフ・ピラミッド)
No.101 不一致な栄光、あるいは虚ろな頂点
病院の正面玄関を抜け、夕闇が降り始めた街へと足を踏み出そうとした、その時だった。
(……ッ!?)
真の右目が、網膜を焼き切らんばかりの「焦熱の黄金色」に激しく明滅する。
脳を直接揺さぶるような高周波のノイズと共に、世界が異様な歪みを見せ始めた。
「『まこと、どうしたの……!? 右目が、そんなに光って……!』」
隣を歩くまどかの悲鳴。
真は無言のまま、吸い寄せられるように背後の病院を見上げる。
数分前まで、無機質な静寂を保っていた「三鷹総合病院」は、今や巨大な琥珀色の繭に包まれたかのように波打っていた。
【……リベレーターの強制起動。想像主の波動を感知。……座標、三階、北病棟。……対象個体、兎束雛と断定。……識蘊の箱庭の索敵を開始】
真の視界には、物理的な壁を透過して「歪み」の源泉へと続く光の道が投影される。
それはリベレーターとして、逃れられぬ運命を看破するための「呪い」にも似た感覚。
真は迷うことなく、地響きのような歓声が漏れ出す院内へと引き返した。
扉には精神世界へと続く歪みの起点が出来ていた。
「『クハハハハッ! 逃げられねぇぜ理屈屋。あの嬢ちゃん、ついに自分を焼き切る燃料を見つけちまった。……ほら、早く行かねぇと、灰すら残らねぇぞ!』」
(今はライアーに構っている暇はない。世界潜行を開始する)
影から響くライアーの嘲笑を無視し、真は揺らぐ空間へと飛び込んだ。
飛び込んだ先は先程まで白かった壁面は、剥がれ落ちた鱗のように無数の色紙が張り付き、それらが「頑張れ」「期待してる」「負けないで」という声を物理的な圧力として放っている。
やがて辿り着いた病室の跡地。
そこには、天を衝くような「肉のピラミッド」がそびえ立っていた。
倒れ伏し、重なり合う無数の「期待に応えられなかった兎束雛」たち。
その頂上で、黄金の炎を纏い、狂ったような拍手の中で独り、ゴールテープを見つめる一人の少女がいた。
その背後には、隆起した筋肉を持つ巨大な獣――『煽動の兎冠』が、獲物を煽り立てるように咆哮を上げている。
「元気ですかー! がんばれますかー! 根性、足りてますかー!」
「……兎束」
真の声は、数万人の幻影による歓声にかき消される。
彼は右目の出力を最大にまで引き上げ、その「規律」によって狂った競技場を規定し直すべく、ピラミッドの麓へと足を踏み出した。
真がピラミッドの斜面に足をかけた瞬間、積み重なった「敗北した雛たち」が、一斉に真を見つめ、救いを求めるように、泥のような腕を伸ばした。
「止まって……。期待に応えられないなら、ここで一緒に、止まってよ……」
「走らなきゃ……走らなきゃ、あたしには、何も残らないのに……っ!」
数千、数万の「自分」の声が、真の鼓膜を物理的に削り取る。
「『違うよ、雛ちゃん!』」
真の隣で、まどかが叫ぶ。
その声は、狂った歓声の中でも不思議と透き通って響いた。
「『誰かのために頑張るのが力になるなら、それは素敵なことだよ。でも、自分を捨てて、自分を殺して走るのは……それは、頑張りなんかじゃない! そんなの、自分への虐待だよ!』」
「うるさい、うるさい! あんたに何がわかるのよ!」
頂上の雛が叫ぶと同時に、アジテート・ラビットが太鼓のような咆哮を上げる。
「根性だ! 痛みを忘れろ! 限界のさらに向こう側へ、さあ!行こう!」
熱風が真を襲い、ピラミッドが激しく脈動する。
真は、右目のリベレーターの解析を限界まで回しながら、一歩ずつ確実に登り続ける。
「……兎束。俺の論理では、個体の価値は特定の機能に依存しない。お前が走ることを止めたとしても、兎束雛という人間の存在定義が失われることはない」
「嘘よ……! あたしから走ることを取ったら、何が残るっていうの!? みんな、あたしが走るから、あたしを……! あたしには、これしかないの、これしかないのよ!!」
雛の叫びに呼応し、ピラミッド一部分が巨大な槍のように形を変え、真を貫こうと襲いかかる。
もはや対話の余地はないと真はまどかの方へ視線を向ける。
「(……論理による説得は失敗。……これより、武力介入による『強制停止』へ移行する)」
真の体が、リベレーターの姿へと変貌する、濃紺な銀河の光を煌めかせ、ピラミッドを駆け上がる。
銀の光を纏った真は、リベレーターの演算能力をフル回転させ、ピラミッドを駆け上がる。
迫り来る肉の槍。
その軌道を予測し、ミリ単位の回避で最短経路を導き出す。
(……個体:兎束雛の情緒不安定を考慮。……アジテート・ラビットの攻撃パターンは、対象の心拍数に依存する。……予測される次の打撃は、左方から――)
『甘ぇんだよ、理屈屋ァ!!』
計算を嘲笑うようなライアーの怒号。
予測された左からの打撃は、放たれる直前に「気合」の一言で軌道を無視し、真の正面からその顔面を捉えた。
「(……ッ!? 物理法則を無視した加速……!?)」
慌ててまどかはローブで盾を作ろうとする。
だが、兎束の足は「止まること」を許さない。
強固な盾と化したローブが、真の防御を粉砕し、彼をピラミッドの麓へと叩き落とした。
背中から赤土のトラックに叩きつけられ、真の視界が火花を散らす。
演算ログには『Error』の文字が並び、右目の出力が不安定に揺れる。
「『ごめんまことっ!! 大丈夫!?』」
防御は間に合ったがその衝撃までは押さえられなかったことにまどかは焦りの声を、しかし真は片手を挙げて「問題ない」と制した。
だが、その手は微かに震えている。
『クックックッ……ザマぁねぇな、おい。理屈屋、お前もしかしてまだ、銭勘定で勝てると踏んで出るのか?』
魔道書の中で、ライアーが退屈そうにあくびを噛み殺す。
助ける気など毛頭ない。
彼にとって、真がここで無様に踏み潰されるのもまた、一興でしかないのだ。
『あのアマの感情は今、沸点を超えてやがる。……お前の「理屈」なんて、あいつの「やりたいこと」の前じゃ、ただのゴミクズなんだよ』
頂上で、炎を纏う雛が泣きながら叫ぶ。
「あたしを止めるなら、あたしを殺してからにして! そうじゃないと、あたし、みんなのところに戻れない!!」
真は立ち上がるが、その右目は未だ、最適解を求めて無意味な計算を繰り返していた。
リベレーターとしての力がありながら、彼の中の「人間・真」が、感情という不確定要素を排除しきれずにいた。
未だ「無明の面」による変異すら見せていない生身の少女に、世界を修復するはずの観測者が圧倒されているという、残酷なまでの不一致。




