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No.102 焦熱の琥珀(アンバー・セル)、あるいは殉身の檻




 No.102 焦熱の琥珀(アンバー・セル)、あるいは殉身の檻



 真が病室に足を踏み入れると、そこは異様な光景に埋め尽くされていた。


 わずか一日の入院とは思えないほどの見舞い品の数々。


 色鮮やかな千羽鶴、隙間なく書き込まれた色紙、そしてむせ返るような香りを放つ花束。


 それら一つ一つは、間違いなく「善意」から生まれたものだ。


 だが、今の真の目には、それらは兎束雛という少女をベッドに縫い止める「重り」にしか見えなかった。


 部屋に入り、真は言葉を発さなかった。


 ただ、その琥珀色に燃え始めた視界で、静かに彼女を見つめ続ける。


 数秒、あるいは数分。重苦しい沈黙を先に破ったのは、耐えかねたような雛の笑い声だった。


 「あはは、もう何、まことくん。来てずっと黙ってるなんて。あたしの方は全然問題ないよ?」


 明るく振る舞う彼女の仕草。


 だが真の論理回路は、彼女の指先がシーツを白くなるほど強く握りしめているのを冷徹に捉えていた。


 「……地区予選の出場は、辞退するようだな」


 確認するように、真が静かに告げる。


 その瞬間、兎束の肩が一瞬だけ、電流が走ったかのようにピクリと跳ねた。


 「あははは、うん!  先生にね、今度の大会は諦めなさいって言われちゃった。いや〜、あたしとしたことが、ちょっと張り切りすぎちゃってさ」


 淀みなく流れる言葉。


 それは、今日何度繰り返したかも分からない、予め用意された「完璧な回答(スクリプト)」のようだった。


 真の中で、かつてなかったほどの躊躇が生じる。


 以前の彼ならば、「異常なし」と判断して即座に帰宅を選択しただろう。


 だが、虚飾の裏側を知り、規律の重みを知った今の彼には、その言葉の裏にある「腐敗」の匂いが無視できなかった。


 ここで踏み込むべきか。それとも、彼女が望む「太陽」の役を演じさせてやるべきか。


 真の思考を断ち切ったのは、隣に立つまどかの、あまりに純粋な声だった。


 「『あー、よかったね。雛ちゃんの怪我がそんなに大したことなさそうで! 大会は残念だけど、体が無事ならまた頑張ればいいんだから!』」


 まどかの言葉は、鏡のように澄んでいた。


 だからこそ、それは兎束にとって、逃げ場を塞ぐ最後の一押しとなってしまう。


 「……そうだな」


 だから真は短く呟き、帰宅を選択した。


 今の自分にこれ以上の介入は不可能であるという論理的帰結。


 しかし、背を向ける瞬間に、真の口から零れたのは、計算されたものではない一言だった。


 「無理は、するな」


 それだけを伝えると、真は病室を後にした。


 背後で、兎束がどんな顔をしていたのか。


 真の右目だけが、彼女を包む琥珀色の光が、今にも弾けそうなほど激しく脈動したのを捉えていた。


 一人静まり返った病室。兎束は先ほどの真の言葉を、静かに、何度も反芻していた。


 「無理は、するな、か。……あはは。無理をしてでも大会に出たかったよ。でも……」


 視界が滲み、脳裏には医師から突きつけられた、宣告にも等しい言葉が蘇る。


 『兎束さん。もしこの大会に出るというなら、今後あなたの足は日常生活すら困難になるでしょう。ですが、今ここで治療に専念すれば、再びトラックに立てる日は必ず来る。どちらを望みますか?』


 同席していた顧問と教師は、必死に彼女を説得した。その「善意」という名の圧力に、彼女は頷くしかなかった。


 「……わかりました。大会は、諦めます」


 掛けられたシーツを、指先が白くなるほど強く握りしめる。その布地に、抑えきれない涙滴が次々と堕ちていく。


 「あたしは、いったい……っ!  何のために!  うぅ、うう、あああああああーっ!」


 一人残された病室内に、少女の悲痛な叫びが木霊する。


 それを見つめているのは、ただの一匹。


 「『クックックッ、アハハハハハハハッ! いいねいいね、実にいい感じに煮詰まってきやがったな、嬢ちゃん。俺好みとは言えねぇが……なに、お前のその『嘘』、俺が叶えてやるよ』」


 ライアーが、どす黒く、血のような赤黒い光をその手に現す。


 それを兎束へと差し出そうとした瞬間、眩い朝日のような「琥珀色の光」が立ち塞がった。


 狼はその光を見ると、忌々しそうに目を細め、鼻を鳴らす。


 「『……チッ。確かに、俺の『虚飾』よりは、お前の『殉身』の方がこの嬢ちゃんにはお似合いか。……わかったよ、引いてやる。ったく。この嬢ちゃんといい、さっきまでここに溜まってやがった有象無象(ガキども)といい。俺には縁がねぇようだ』」


 狼はくるりと背を向ける。


 その鼻腔には、先ほどまでここを埋め尽くしていた見舞い客たちのどこまでも甘く、そして臭い「腐臭」が残っていた。


 彼らは気づいていない。


 自分たちが想像主の力に当てられ、兎束を追い詰める「怪物」の一部へと変質させられていることに。


 そして、それに気づいているライアーもまた、真に教える義理など微塵も感じていなかった。


 「『あの理屈屋はいずれ気づくだろう。……たとえそれが、何もかも終わった後だとしてもな。その時は俺も最前列で観劇させてもらうぜ。たとえ相手がお前らでも、手加減はしねぇからよ』」


 狼は琥珀色の光と、窓の外、遥かビルの向こう側、北王子学院を見つめるように冷たい言葉を放った。


 そして、元から何もいなかったかのように、狼の姿は影へと溶けて消えた。







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