No.103 不戦敗(デフォルト)の宣告、あるいは静寂の熱病(フィーバー)
No.103 不戦敗の宣告、あるいは静寂の熱病
兎束雛が病院へと運ばれたのは、初夏の陽光が最も眩しい時間帯だった。
幸いにして命に別状はないとの報が入ったが、それはあくまで肉体的な生命維持の話に過ぎないことを、真は直感的に理解していた。
「『よかったね雛ちゃん。まこと、お見舞いに行けるか後で聞いてみよ?』」
視界の端で安堵の表情を浮かべるまどかに、真は短く頷く。
休み時間。真は規律正しい足取りで職員室へと向かい、担任である九頭見に接触した。
「兎束のことか……。少し待て。すみません、大熊先生。兎束の件で少し」
九頭見は真の問いを聞くと、すぐに陸上部の顧問であろう大熊という屈強な教員に声をかけた。
大熊は険しい表情でどこかへ電話を入れ、戻ってくると九頭見に手短に何かを告げる。
「兎束だが、現在は精密検査を行うために一時入院している。まあ一日だけとの話だが、あまり多くの者が行っても病院の迷惑になる。……だが、心配なら行ってみるといい」
九頭見から教えられた病院の場所をメモに控えながら、真の隣でまどかが小首を傾げた。
「『多くのってどういうこと? ボクたちの他にも雛ちゃんのこと聞きに来た人がいるのかな?』」
真もまた、同じ疑問を抱いていた。少なくともクラス内でそのような動きは観測していない。
放課後、真は自らの左手に宿る沈黙を意識しながら、独り言を最小限に抑えて思考を整理する。
「兎束雛の状況は確認できた。場所も把握した。……姉さん、どうする?」
「『そりゃもちろん行くに決まってるでしょ! お隣の席の女の子だよ? ご近所付き合いは大切なコミュニケーションの一種なんだから!』」
一日、それも検査入院。
真の論理的な判断基準では「過剰な反応」に分類される事案だったが、まどかは「『行くの、行くの、行くったら行くのー!』」と、真の脳内に直接響くような声で騒ぎ立てる。
「了解した。静かにしてくれ」
溜息と共に真は歩き出す。
向かう先は、白く無機質な空間。
そこは、周囲の期待に応えられなくなった「太陽」が、初めてその仮面の下で孤独に震える場所であることを、真はまだ知る由もなかった。
放課後の日差しが、アスファルトを白く焼き付ける中。
真は九頭見に教えられた「三鷹総合病院」へと向かった。
十王市の中心部にそびえ立つその巨塔は、鳳グループが経営する最新鋭の医療施設であり、無機質な清潔さと、どこか圧迫感のある静寂を纏っていた。
正面玄関を抜け、面会受付にて兎束雛の名前を告げる。
対応した年配の守衛は、真の制服を見て「おや」と少しだけ眉を上げた。
「また彼女のお見舞いだね。本当に慕われているだね、彼女。一応義務だから、こちらの面会票に記入してもらえるかな」
「『……やっぱり、ボクたち以外にもたくさん来てるみたいだね』」
まどかが不安そうにロビーを見渡す。
「慕われている」という言葉。
それは通常、ポジティブな意味で使われる。
だが、真の脳内では、その言葉が「彼女を監視し、期待を押し付ける者の数」として変換されていた。
記帳を済ませ、指定された個室へと向かう。
白く長い廊下を進む途中、北王子の制服を着た数人の生徒とすれ違った。
彼らは真の存在に気づく様子もなく、小声で、しかし鋭い毒を含んだ言葉を交わしていた。
「……聞いた? 兎束さん、今度の地区予選ダメみたいだよ」
「あーあ、やっぱりね。あれだけ期待されてたのに。顧問の先生も頭抱えてたし、周りの落胆も相当大きいだろうね」
無意識に、あるいは他者の耳に入ることを想定していない、無責任な「感想」。
それらは冷たい飛沫となって、静かな廊下に響き渡った。
「『ちょっと! こんなところで話す内容じゃないでしょ! それにね、雛ちゃんの頑張りを無駄にするような言い方はやめなさい! 結果がどうかなんて……あーもう! ボクも、こんなこと言いたくないのに!』」
まどかは怒りに震え、彼らから顔を背けるようにして真の背後に隠れた。
真は無言のまま歩みを止めない。
論理的に考えれば、彼らの言葉は単なる「事実に基づく感想」に過ぎない。
しかし、自らの内に宿る『規律』が、その言葉に含まれる「歪み」を検知して不快なノイズを鳴らしている。
病室のドアが近づくにつれ、消毒液の匂いに混じって、焦げ付くような「何か」が漂い始めていた。
辿り着いた病室の前。
無機質な白い扉を隔てた向こう側から、思いがけず明るく、弾んだ声が廊下まで漏れ聞こえてきた。
「あはは、そうなんだよね〜。いやー、あたしとしたことが張り切りすぎちゃってさ。お医者さんに本気で怒られちゃったよ!」
紛れもない、兎束雛の声。
そこには悲壮感など微塵も感じられず、まるで自虐的な失敗談でも語っているかのような軽快さがあった。
「『よかった……! 雛ちゃん、元気そうだね、まこと!』」
まどかが胸をなでおろし、安堵の溜息を漏らす。
だが、真は動かなかった。
扉に手をかけることもなく、ただ一点を見つめてその「声」をログに記録し、周波数とピッチを解析し続ける。
(……いつもより、わずかに声のトーンが高い。発声の末尾に、意図的な呼気の抑制を確認。これは――)
「無理をしている」などという情緒的な言葉では足りない。
それは、自らの崩壊を「明るさ」という名のペンキで強引に塗りつぶしているような、異様な不一致だった。
このまま入るべきか。あるいは、彼女の「嘘」を尊重して引き返すべきか。
真が論理的決断を下すよりも早く、内側から扉が勢いよく開かれた。
「それじゃ、兎束さん。また学院でね! 早く戻ってきてよ」
「うん、任せて! すぐに復活するから!」
数人の生徒たちが、満足げな表情で病室から出てくる。
彼らは扉の前に立つ真の存在に驚きつつも、会釈をして通り過ぎていった。
開かれたままの扉。
その先に広がる白濁とした空間の中央、ベッドの上に上半身を起こした兎束雛と、真の視線が真っ向から衝突した。
「あ……まことくん。あはは、もう、まことくんまで! そんなに心配しなくても、あたしはこんなに元気なのに」
雛はいつものように、燦々と輝く太陽のような笑顔を真に向けた。
窓から差し込む夕日が、彼女の頬を黄金色に染め上げる。
だが、真の右目が捉えたのは、その光を反射して琥珀色に燃え上がる「焦熱の予兆」だった。
ライアーが真の後ろで、獲物の死期を悟った獣のように低く笑った。
「『クックックッ……ああ、いいね。あの嬢ちゃんの腐り具合。……自分自身の葬式で、笑い転げてやがるぜ』」
それは食べ頃だとも言いたげに静かに、密かに呟いていた。




