No.104 太陽の欠落(シャドウ・フェイズ)、あるいは無明の微笑(スマイル)
No.104 太陽の欠落、あるいは無明の微笑
その日、学院の至るところで、真は一人の少女に、人が群がる光景を目にした。
「地区予選、雛先輩なら絶対大丈夫です! 応援してますから!」
「頑張ってね。君ならインターハイも優勝できるって、みんな信じてるよ」
「何言ってるの、インターハイどころか未来の金メダリストよ!」
放課後の廊下、あるいは移動教室の合間。
異様なほどに多くの生徒たちが、期待という名の無邪気な「重圧」を、兎束雛の肩へと積み上げていく。
それに対して、彼女は初夏の陽光のように眩い、完璧な笑顔で応えていた。
「任せてください! 不肖・兎束雛、皆さんの期待には必ず応えて見せますよ!」
その返答は快活で、一点の曇りもないように聞こえる。
だが、隣の席で、あるいは少し離れた場所から彼女を観察していた真の右目は、微かな違和感をログとして記録していた。
兎束が笑った、その直後。
声だけが、わずかに遅れてついてくる。
(……遅い)
何かあったのか、と真の口が動く。
しかし、彼女を囲む熱狂の輪は厚く、介入する隙はない。
「後で確認すればいい」という論理的な判断により、その問いかけは棚上げされ、思考の奥底へと追いやられてしまった。
やがて、潮が引くように周囲から人が去り、校舎の陰に彼女一人が残される。
つい数秒前まで「太陽」だった少女は、壁に寄りかかり、震える手で自らの膝を強く押さえつけた。
誰よりも明るく、笑っていた。
だから──
誰一人として疑わなかった。
「……がんばらなきゃ。みんなが、期待してるんだから。がんばらなきゃ、やれる……やれるよ、兎束雛。あたしががんばらなきゃ、でしょ、ねぇ?」
呪文のように、自分を奮起させる呟き。
それは励ましというより、自らを追い詰める断罪の響きに近い。
その姿を、校舎の屋上の縁に腰掛け、見下ろしている影があった。
実体を持たぬはずの狼が、楽しげに尾を振る。
「『クックックッ……ああ~、いい感じに腐ってきてやがるな。後一押しで折れるか? もう折れかかってるか……さて、あの理屈屋はいつ気がつくねぇ?』」
獲物の熟成を待つ猟師のように、ライアーは舌なめずりをして笑う。
その瞳に映る雛の背中には、本人も気づかぬうちに、どろりとした影の残滓が、まとわりつき始めていた。
翌朝、真はいつものルーティンを過不足なくこなし、学院へと向かった。
しかし、昇降口で校舎に入ろうとしたその時、背後から誰かの叫ぶ声と慌ただしい足音、そして怒号が響き渡った。
「どいて! どいてくれ!」
「ちょっと通して! 急患だ、早く!」
数人の生徒が、救護担当の教員を伴って猛烈な勢いで駆け抜けていく。
教員の手には救急箱と担架が握られていた。一行はそのまま、土煙を上げるようにして校庭の方へと走っていく。
「急いで!」 「いや、いやー!」 「先輩! しっかり! しっかりしてください!」
誰かの名前が何度も呼ばれ、その中には「もう動かないで」という絶望的な声が混ざっていた。
「『……何かあったのかな?』」
不安そうに呟くまどかの言葉が、真の耳を素通りしていく。
いつもなら、自分には無関係な「他者のトラブル」として処理し、教室へ向かうはずだった。
だが、遠ざかる教員の背中を見送る真の胸中には、今しがた呼ばれた名前が自分に関係しているかのような、一つの棘が刺さっていた。
間に合わない。
そう理解すると同時に、足が動いていた。
それは論理的な予測ではない。
確たる根拠に基づいた推論でもない。
ただ、冷たく、ざらついた「嫌な予感」という名の感覚が。
「『まこと? どうしたの?』」
教室とは逆の方向、校庭へと一歩を踏み出した真に、まどかが驚きの声を上げる。
真はそれに答えず、無言のまま、人だかりができ始めているグラウンドの隅へと歩を早めた。
「『クックックッ、どうした理屈屋。お前らしくもねぇ。他人のことなんぞ一ミリも興味ありません、ってのがお前の面じゃなかったのか?』」
ライアーが真の横を浮遊しながら、毒の混じった皮肉を吐く。
だが、その言葉に反応したのは真ではなく、まどかだった。
「『ちょっと! なんでそうやって茶化すの!』」
まどかの不可視の制裁がライアーに飛び、狼が「いてぇな」と頭を押さえる。
「『まったく……。どうしてそういう言い方しかできないのかな。まことだって、何かに興味を持つことだってあるよ。……今までは、なかっただけで』」
まどかの言葉を背に、真は人だかりを割って中心へと進む。
人だかりの隙間から、真がそれを見た瞬間。
「――やめろ、兎k」
誰かの声が、最後まで届く前に途切れた。
立ち上がろうとした兎束の口元が、いつものように笑おうとして――途中で止まる。
持ち上がった頬が、形を保てないまま崩れていく。
次の瞬間、誰かの腕が伸びた。
止めようとした誰かの手が、わずかに届かない。
そこで彼が目にしたのは、周囲の喧騒とは対照的に、膝を押さえ横たわる「太陽」の抜け殻。
それでもまだ、誰かの期待に応えようとするように、口元だけが歪な笑みを貼り付けている姿だった。
それを見つめる真の後ろで、ライアーが何も言わずニヤリと笑みを浮かべる。
「『……遅ぇよ』」
まるで結果だけを確認するように、ライアーが呟いた。




