No.105 日常の変奏(バリエーション)、あるいは変化の兆し(サイン)
No.105 日常の変奏、あるいは変化の兆し
6月の朝、真はいつもと変わらぬルーティンで行動を開始する。
トーストの焼ける香りと、ニュース番組の無機質な音声。
だが、その平穏な背景には、昨日までは存在しなかった「雑音」が混じっていた。
「『ほー、テレビってのはおもしれぇな。嘘クセェ事しか言ってねぇのに、嘘の匂いがしやしねぇ』」
ソファに踏ん返り返り、画面を凝視しているのは赤黒い髪の男、ライアー。
その横で、まどかが呆れたように肩をすくめる。
「『テレビだからじゃないの? 言っておくけど、この中には人はいないからね』」
「『んなことはわかってるわ。バカにすんな! 俺が言ってんのは、この『枠』の中に流れてる空気のことだ』」
喧嘩なのか、あるいは単なる情報交換なのか。
真はコーヒーを一口啜り、鏡越しにその光景を眺めながら、独り言のように零した。
「……賑やかになった」
まどかが見えるようになってから、確かに独り言は増えた。
だが、ライアーという「番犬」が物理的な気配を伴って居座ったことで、その喧騒はより一層の厚みを増している。
ふと、真は自らの左手を見つめた。
そこに実体はない。しかし、世界潜行した際、リベレーターとなった彼の左手には『真実を綴る書』が握られている。
二人の想像主たちの欠落した獣を登録し、今は「規律」の獣を封じ込めているその書。
「……貴方まで出てきませんよね?」
誰とは言わず、左手の虚空へと問いかける。
だが、返ってくるのはライアーのような軽薄な返答ではなく、静謐で、どこか威厳すら感じさせる沈黙だけだった。
「おはよー、まーちゃん! うう、今日は朝から症例検討会だよぉ。あーもうめんどいな……」
階段を慌ただしく駆け下りてきたのは、この家の主であり、真の保護者でもある美弥だった。
プロの心理カウンセラーとして働く彼女は、朝から重要案件の資料整理に追われているようだ。
だったらゲームを徹夜に近い状態までやらなければ良いのにと思うし、その事を指摘もするが、本人が直す気がないので、手の施しようがない。
真はいつものように、仕事へと向かう彼女を玄関で見送る。
「……? まーちゃん、何か良いことでもあった?」
不意に、美弥が足を止めて真の顔を覗き込んできた。
彼女の目は、保護者としての温かさと共に、相手の精神の微細な変化を逃さない専門職としての鋭さを孕んでいる。
「いえ。特にありません」
「そう? なんか……いつものまーちゃんとは違って見えたから。家族としての勘かな、それとも職業病かな。少しだけ、表情が晴れたように見えるよ」
「……考えすぎです。早く行かないと、遅刻しますよ」
真が淡々と促すと、美弥は「はいはい」と笑って玄関を出ていった。
真自身に自覚はない。
だが、美弥が感じ取ったその「変化」は、真が二つの獣を宿し、己の言葉を発し始めたことによる、内面の変容の現れに他ならなかった。
美弥を見送り、玄関の扉が閉まった直後。
リビングに居るライアーが、喉の奥を鳴らすような下卑た笑い声を漏らした。
「『へぇー、あの姉ちゃん……かなりいい匂いをさせてやがるじゃねぇか。クックックッ、いやぁ、実に俺好みだ』」
「『ん? 美弥ちゃんのこと? んー、確かに美弥ちゃんは結構良い化粧水とか使ってるし、手入れは欠かしてないよ』」
まどかが首を傾げながら答えると、ライアーは鼻で笑い、不敵に牙を覗かせる。
「『ばぁか。そういう表面的なもんじゃねぇんだよ。だからてめぇはお子ちゃま嬢ちゃんなんだ。……分かってねぇなぁ』」
「『むっきー! またボクを子供扱いして! いいよ、今度は死兆星を見せてあげる……ホワァター!』」
「『だからやめろってんだ。嬢ちゃんのは痛くもねぇが鬱陶しいんだよ!』」
再び始まった、一人と一匹のドタバタ劇。
朝の静謐な時間は完全に瓦解し、真は重度の偏頭痛でも引き起こしたかのように、こめかみに指を当てた。
「僕はこれから学院に行く。留守番をしているなら、せめて大人しくしていてくれ」
その言葉に、まどかがパッと動きを止めた。
「『あ、待って待って、まこと。ボクも行く!』」
「『おいおい。一応はてめぇと契約関係を結んでんだ。置いていくってぇのは無しにしようや、理屈屋』」
ライアーもソファーから飛び降り、フラフラと気怠げな足取りで真の背後に並ぶ。
結局、一人で登校するという真のささやかな希望は、あっけなく打ち砕かれた。
「……頼むから、学院では大人しくしていてくれ。僕に独り言の数を増やさせないでくれよ」
真は深い溜息と共に扉を開けた。
初夏の風と共に、十王市の街並みが広がる。
独りのはずの登校風景は、かつてないほど「過密」なものになろうとしていた。
登校中の道すがら。
まどかとライアーは、真が思わず独り言を漏らして周囲に不審がられない程度には、わきまえた騒がしさで後ろをついてきた。
校門を潜り、見慣れた廊下を抜け、教室の席に着く。
そこには変わらない、けれど確実に「変質」した日常が待っていた。
「オイッース! おはようさん!」
朝の気配を切り裂くような快活な声。
宇賀琥太郎が、いつものように軽い足取りで真の席へやってくる。
「『オイッース! コタロー!』」
まどかが空中で手を振って応えるが、当然その声は宇賀には届かない。
「おはよう、宇賀琥太郎」
真が淀みなく、けれど努めて自然に挨拶を返した。
その瞬間、宇賀の動きが凍りついた。
まるで、あり得ない怪奇現象でも目の当たりにしたかのような、戦慄にも似た驚きの表情で真を凝視する。
「……どうした、宇賀琥太郎」
「……いや、どうしたってお前、え、お前こそどうしたんだよ。普段のお前なら『ああ』とか『そうか』とか、記号みたいな返事しかしてこないじゃん」
「『ああ……そうね。以前のまことなら、そんな感じよね。まあ、あれよ。環境の変化ってやつよ』」
理由をよく分かっていないまどかは、適当な理屈をこねて宇賀(の耳には届かない虚空)に返すが、真の心中は穏やかではない。
自らの左手に宿る『規律』が、無意識のうちに彼を「対等な社会的存在」として振る舞わせているのだろうか。
「普通に挨拶を返しただけだ」
どことなく素っ気なく、真は言葉を継ぎ足して視線を逸らす。
「おう、それだ。それでこそまことだわ。……安心したぜ」
どういう納得のされ方なのか、いまいち腑に落ちない真だったが、ふと横を見ると、ライアーが窓際に腰掛け、牙を剥き出しにしてニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。
まるで「規律の獣に当てられた気分はどうだ?」とでも言いたげな、揶揄うような視線。
真はわざとらしく溜息を吐き、鞄から教科書を取り出した。
「そういやぁ、まこと。聞いたか?」
授業開始まで静かに席に座っていた真に、宇賀は登校してきて席に着くなり、主語を飛ばして身を乗り出してきた。
真の記憶のアーカイブを探っても、その問いに該当する心当たりはない。
「宇賀琥太郎。主語のない話は相手に意図が伝わらない。経緯を話したいなら、順序立てて説明することだ」
「おお……そうだな。わりぃ。……なんだろうな、前のお前もやりにくかったけど、今のお前もやりにくいっつーか、なんつーか」
理路整然とした話し方は以前の真そのものだ。
だが、今の彼の言葉には、どことなく「決まり」を重んじる絶対的な型のようなものが同居している。
宇賀はその言い知れぬ威圧感に、少しだけ戸惑いを見せた。
「それで話なんだけどよ。あの氷結の処刑人が、局長を辞めたって話、知ってるか? いやぁ、その話を聞いたときは、やっと俺の安息の地ができたような気がしたぜ」
かつて北王子学院の全生徒に恐れられていた風紀維持局長、獅子井志那都。
彼女がその座を退いたという噂は、少しずつ、けれど確実に校内に浸透し始めているようだった。
「……話は聞いている。けれど彼女が退いても、彼女の意志は規律局の局員に受け継がれているという話も、同時に聞いている」
「は? マジで?」
「『デシマ、マジデジマ~』」
真が静かに頷くと、横ではまどかがリズムを取るように、歌うような調子で合いの手を入れた。
「オワタ……俺の安息の地は、この学院にはないんだな……」
机に突っ伏し、絶望に身を震わせる宇賀。
「『がんばれコタロー。居場所はね、自分で作るものなんだよ』」
まどかは慈愛に満ちた(けれど本人には全く届かない)アドバイスを送りながら、浮遊したまま宇賀の背中を励ますように叩く動作を繰り返した。
一方で真は、獅子井が去った後の「規律局」が、どのような形に変容しようとしていくのか、冷静に見定めようとしていた。
宇賀が希望を絶たれ、机に轟沈したまま動かなくなって数分。
学院内に朝の始まりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。
教室の扉が開くと同時に、担任の九頭見が姿を現す。
「『あれ? 雛ちゃん遅いね。いつもならもう来てるはずなのに』」
まどかの心配を裏切るように、その直後、廊下から駆け込んできたのは兎束雛だった。
「す、すみません! 遅れましたっ……ハア、ハア……」
「兎束か。お前は朝練で遅れたのだろう。一応、遅刻扱いにはしないが、次からは気をつけるように」
「はい。すみませんでした……!」
九頭見の言葉に、兎束は肩で息をしながら、今の今まで激しい運動をしていたかのように汗だくの格好で自分の席へと向かう。
だが、席に腰を下ろそうとした瞬間、彼女の足がもたついた。
ガクン、と膝から崩れ落ち、床に叩きつけられそうになる。
それを察知したのは、隣の席の真が早かった。
「規律」によって研ぎ澄まされた反射神経が、彼を無意識に体を動かしていた。
寸前のところで、真は兎束の腕を掴み、その身体を支えた。
「大丈夫か、兎束雛」
「え? あ……まことくん。ありがと。うん、大丈夫だよ」
「そうか。怪我がないなら、いい」
真の言葉に兎束は力なく笑い、問題ないと言うように手を振りながら、真から離れて席に腰を下ろした。
その刹那、彼女がわずかに眉を潜め、苦痛を押し殺すような表情を見せたことに、周囲の誰も気づかなかった。
ただ一人――いや、一匹だけを除いて。
「『……嘘クセェ匂いだわ』」
窓際で退屈そうにしていたライアーが、その時だけは鋭い眼光を兎束へと送り、機嫌悪く、忌々しそうにそう呟いた。
まどかの心配そうな視線と、ライアーの不審な呟き。
真は、支えた時の彼女の腕の感触――汗ばんでいるのに、どこか冷たく、強張っていた違和感を反芻しながら、無言で自分の席へと戻った。
6月の蒼天とは裏腹に、教室には静かな、けれど逃れられない「不一致」が漂い始めていた。




