No.106 人狼の受肉、あるいは騒がしき(カオティック・)朝の景色
No.106 人狼の受肉、あるいは騒がしき朝の景色
6月の抜けるような蒼天から降り注ぐ陽光が、真の自室を照らし出す。
真が意識を浮上させたのは、軽薄な電子音の音色でも陽光の光でもなかった。
「『……まこと、起きて! 大変なんだよ!』」
鼓膜を震わせる、まどかの切羽詰まった声。
真が重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、いつものように宙を舞う黒髪の少女と――その少女の後頭部を、無造作に大きな手で掴んでいる見知らぬ男の姿だった。
「『ああ? ようやく起きたか、理屈屋。てめぇの寝顔を見てるだけで日が暮れるかと思ったぜ』」
男は窓枠に腰掛け、片足を立てた行儀の悪い姿勢でニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
ボサボサに逆立った赤黒い、耳には獣の牙を思わせるピアス。
着崩したシャツの隙間からは、人狼の時を彷彿とさせる強靭な筋肉が覗いている。
「『ちょっと! 離してよ! まこと、この人、ボクの身体を普通に掴むんだよ!?』」
「『うっせぇな、嬢ちゃん。てめぇが朝っぱらからピーピー、ギャーキャー喚くから、教育してやってんだろうが。……ほらよ』」
男がまどかの頭をポイと放り出すように離すと、彼女は驚愕と、どこか嬉しそうな戸惑いを混ぜた表情で自分の頭を撫でた。
誰にも触れられず、物質をすり抜けるだけだった彼女の「境界」が、初めて他者によって侵されていた。
「……ライアーウルフ、か」
真は、ズキズキと痛むこめかみを押さえながら、その男を睨み据える。
「『ああ。てめぇの魔道書の中で腐ってるのも退屈でよ。手ぇ貸すって言った時、契約みてになったちまったからか、その時の『余りカス』を使って、こっち側の肉体をデッチ上げた。……まっ、てめぇ以外には見えねぇし聞こえねぇ。その嬢ちゃんと同様にな』」
男はそう言うと、真の机の上にあった林檎を勝手に手に取り、齧り付いた。
「『あ?これか。『嘘の力』って、言いてぇとこだが、こっちじゃ力は使えねぇ。契約してるお前や、そっちの繋がりのある嬢ちゃんの認識を少しズラしてる、ようはパントマイムみてぇなもんだ』」
……なるほど、確かに林檎はそのまま机に残っている。彼は林檎の「情報」あるいは「味」だけを、僕を通して情報の上書き、拡張現実のようなことをしてるのか。
「『まこと、この人、すっごく失礼だよ! でも……でもね、手、あったかかった……』」
頬を赤らめて浮遊するまどかと、不機嫌そうに鼻を鳴らす嘘つき男。
真は深い溜息をつき、これからの学園生活を想像して、早くも頭痛が加速するのを感じた。
「……一つ、言っておく。学校では、僕に話しかけるな」
「『ケッ、冷たいねぇ。安心しろよ、俺はてめぇの『嘘』の匂いを嗅ぎ分ける番犬として、せいぜい楽しませてもらうぜ』」
冷笑な笑みを見せるライアー。
そんな彼に。
「『まったく、このわんちゃんはしつけがなってないよ。レディをなんだと思ってるんだ』」
まどかは宙に浮いたまま、ぷんぷんと頬を膨らませて説教を垂れる。
しかし、その「わんちゃん」という呼称に、窓際の男――ライアーは目に見えて眉を跳ね上げた。
「『はあ? レディだぁ? 前か後ろかもわかんねぇような平坦な嬢ちゃんが、どの口で言ってやがる──』」
ライアーがニヤついた顔で吐き捨てようとした、その瞬間。
ピキッ、と空気が凍りつく音が響いた。
真の部屋の温度が、一気に氷点下まで叩き落とされる。
それは、かつて学園の生徒たちを恐怖させた『氷結の処刑人』が、そこに降臨したかのような、刺すような殺気。
冷気の源泉は、まどかだった。
彼女は動きを止め、前髪の影から、底冷えのする声音を絞り出す。
「『……だれの、なにが、前か後ろかもわからないって?』」
「『お、おい、嬢ちゃん……?』」
野性的な直感が「踏んではいけない地雷」を察知したのか、ライアーの顔から余裕が消える。
明らかに普段のまどかとは異なる、禍々しいまでのオーラ。
「『いいよ、キレちまったよ。そこまで言うなら───戦争だ! おら! ドラ! 無駄無駄無駄ぁ!』」
「『ぶふぉっ!? ちょ、待て、嬢ちゃん! いてっ、物理じゃねぇのになんで重てぇんだよ! ちくしょ、嬢ちゃんも理屈屋と繋がってるから、俺同様に触れ、イッテェっていてんだろう!』」
怒りに燃えたいるのに、どこかコミカルな豹変したまどかが、猛烈な勢いでライアーに突っ込み、その胸板をポカスカと叩き始めた。
ライアーは無様に助けを求めるように、鏡の前で身支度を整える少年に向かって叫ぶ。
「『おい! 理屈屋、止めろ! おまえの姉だろうが、これ!』」
真は鏡の中の自分と向き合ったまま、乱れた襟元を整える。
そして、静かに、けれど以前よりも確かな響きを持った「声」を室内に落とした。
「人の身体的特徴を揶揄したおまえが悪い。素直に受け入れろ」
「『なっ……!?』」
「それに姉さん。そのポカスカという擬音は、少しばかり女子力が欠けている。せめて効果音くらいは、もっと可憐なものにする努力をしたらどうだ」
「『――そこ!? まこと、そこなの!? ボク、今すっごく怒ってるんだよ!?』」
「怒るのと、品位を失うのは別問題だ」
真は淡々とカバンを手に取ると、ライアーの無様な姿を一瞥し、わずかに口角を上げた。
それは、前なら黙っていたが規律という絶対的な軸を手に入れたゆえの、余裕にも似た不敵さだった。
「『……ケッ。無口な理屈屋のくせに、随分とはっきりとモノを言うようになったじゃねぇか。ああん?』」
ライアーは、まどかに殴られながらも、真のその変化に気づいたのか、ニヤリと牙を覗かせて笑った。
「環境が変われば、対応も変わる。……さあ、行くぞ。これ以上騒ぐなら、二人とも置いていく」
真が扉に手をかけると、二人は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
6月の朝は、予感していた以上に騒がしく、そして真の新しい一歩を祝うかのように、眩しい光に満ちていた。




