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No.107 深淵(アビス)の会釈、あるいは境界(ボーダー)の残香




 No.107 深淵(アビス)の会釈、あるいは境界(ボーダー)の残香



 古い木材の香りと、幾千の時を閉じ込めたような高貴な香料の匂いが、暗い意識の底を撫でる。


 「虚飾と規律、二つの獣を越えられたこと、誠に喜ばしい事です」


 銀の仮面を被った女執事、ナイアが恭しく頭を垂れていた。


 その声に導かれるように、ぼくは彼女に視線を向ける。


 ……越えた、という感じはしないけれどね。取り戻した、という感覚の方が強いかな。


 ぼくは自らの手のひらを見つめ、そこに宿る相反する二つの熱量を確かめる。


 でも、以前に如是和尚も言っていた『二枚の煎餅』のような感覚でもあるよ。ライアーウルフの力を使った時は、拒絶反応がひどかった……。


 「交わらぬ欠落した獣。お客様の心の器には収まりきらぬか。それともお客様ご自身が形を変えるか――」


 ナイアは一拍だけ言葉を切り、わずかに首を傾げた。


 「……たとえば、片方をお使いになるたび、もう片方が痛みのように跳ね返る。今のお客様は、そのような均衡にございます」


 再び、仮面の奥に感情を沈めるようにして、彼女は続ける。


 「その行く先もお客様ご自身がお決めになること。私はそのお手伝いしかできません」 


 ナイアは仮面の奥で、冷徹ながらも陶酔を含んだような気配を見せた。


 その言葉に、ぼくはわずかに目を細める。


 そうだね。ナイア、貴方は強い力を持っている。それこそ、ぼくなんかを言葉通り一捻りできるほどの力。でも貴方はそれをしないで、ただ導くように話すだけ。それは何度もここを訪れて、君と話すことで理解しているよ。


 「ぼく」という存在は、何色にも染まらず、同時にすべての色を含んでいる。


 ぼくは、自らの内に広がる底知れぬ空白を見つめ、独り言のように零した。


 ぼくは……何者になるんだろうね。


 「…………」


 その問いに対してだけは、ナイアは語らない。


 あたかもそれがこの世界の根幹に触れる禁句であるかのように、彼女は硬く口を閉ざしている。


 静寂が室内の香料の匂いを一層濃くした頃、彼女は静かに、しかし予言めいた口調で告げた。


 「……私からその答えを提示することはできませんが、お客様との縁を結ばれし方ならば、その答えのひとつを導いてくださることでしょう」


……縁を結ばれし方、か。


 その言葉が指すのが、あの『学院一の情報屋』か。


 騒がしく学院内外を駆け回っていた少女が思い浮かぶ。


 それとも『氷結の処刑人』だった少女なのか。


 氷のごとき鋭い刃で人を取り締まっていた少女の姿を思い出す。


 あるいはこれから出会う誰かなのか。


 ぼくはそれ以上追及せずにいると、時計の鐘の音が荘厳に宿望館のロビーに響く。


 ぼくはその音を聞きながら、再び深い霧の向こうへと意識を預けることにした。


 ナイアは恭しく頭を下げ、最敬礼をもってそれを見送る。


 「またお客様が訪れることを、お待ち申し上げています」


 香料の匂いが遠ざかり、意識は再び「僕」の待つ現実の檻へと、緩やかに沈降していった。




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