No.108 【幕間:獅子井志那都】
No.108 【幕間:獅子井志那都】
北王子学院の一角、重厚な扉の奥に位置する特別許可室。
学院風紀維持局――通称『規律』局室。
そこはかつて、冷徹な秩序が支配する聖域だった。
獅子井志那都は、使い込まれた局長机の前に立ち、自らの左腕を静かに見つめた。
そこには、彼女のアイデンティティそのものであった『規律』の二文字を刻む腕章が巻かれている。
指先に力を込め、その重みを噛み締めるように外すと、彼女はそれを机の真ん中へ、一点の狂いもなく並べて置いた。
振り返れば、そこには幾多の修羅場を共にしてきた隊員たちが整列していた。
志那都は一人一人の顔を、記憶に刻み込むようにゆっくりと見渡す。
「うむ。本日をもって、獅子井志那都は、学院風紀維持局、『規律』局局長の座を退く。以降の指示は副長である柏崎に従うように」
張り詰めた沈黙。
志那都の言葉が部屋の隅々にまで染み渡る。
やがて、隊員たちは一斉に背筋を正し、一糸乱れぬ声を上げた。
「「「お疲れ様でした!」」」
その声には、恐怖ではなく、彼女という指導者への純粋な敬意が宿っていた。
隊員たちからの慰労会の申し出を「老兵はただ去り行くのみだ」と丁重に断り、志那都は規律局を後にした。
廊下の向こうから歩いてきた生徒たちが、志那都の姿を認めた瞬間、顔を強張らせて逃げるように曲がり角へと消えていく。
その背中を見送りながら、志那都は自嘲気味に、重く、長い息を吐き出した。
(……私の行いは、間違っていたな)
かつてはそれが絶対の正義だと信じて疑わなかった。
しかし、今の彼女にはその光景がひどく歪なものに映る。
なぜ、急にそう思うようになったのか。自分でもはっきりとは分からない。
ただ、嵐のような激しい戦いの後に、真っ白な光に包まれて、誰かに優しく抱きしめられたような――そんな、ひどく断片的で曖昧な、夢ともつかない記憶が胸の奥で燻っている。
校舎を出ると、初夏の、少しばかり突き刺さるような瑞々しい陽光が彼女を包んだ。
人気の少ない中庭のベンチに腰を下ろして目を閉じれば、若葉の匂いを含んだ風と共に、今も耳の奥で、父の穏やかな声が木霊している気がした。
「獅子井志那都」
不意に名を呼ばれ、志那都は思考の海から引き揚げられた。
顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。
特定の部活動に属しているわけでもない、目立たない少年。
だが、なぜかこの数日、彼の姿を見かけるたびに、説明のつかない奇妙な懐かしさと、胸を突くような感覚を覚える。
「……局長を辞めたと聞く」
「耳が早いな。この学院に、そこまで他人の進退に関心を持つ輩はいないと思っていたが」
そう応える志那都の声からは、かつての刺すような冷たさが消えていた。
かつて、この学院のあらゆる噂を握っていた強力な「誰か」がいたような気もしたが、それが誰だったのか、もはや思い出すこともできない。
「進路まで変えたと聞くが。警察官への推薦を蹴ったというのは、本当か?」
「ふっ、どこから漏れた。心底驚かされるな」
志那都は苦笑し、視線を巡らせた。
見上げた先には、梅雨の合間の、抜けるような蒼天が広がっている。
「少し、思うことがあってな。……夢の中で、少々説教を食らってしまったのだ。内容はもう、霧のように消えてしまったがな」
彼女にとって、あの領域での出来事は、もう二度と思い出せない彼方の残響に過ぎない。
ただ、その時に感じた「熱」だけが、彼女の進むべき道を変える決定的な動機となっていた。
「何をするか決めているのか?」
少年の問いに対し、志那都は迷うことなく応えた。
「そうだな。今度は私自身が示してみようと思う」
志那都の言葉に一瞬、男子生徒が驚いた表情を見せる。
「それは?」
志那都は答えず、ゆっくりと立ち上がると、これまで自分の義務と覚悟の象徴であった髪紐に手をかけたた。
「弁護士を───目指してみるか」
ぷつり、と糸が切れるような感覚と共に、彼女は髪紐を解き放った。
束縛を失った黒髪が、初夏の風に乗って自由に広がりを見せる。
少年の方を振り返った志那都の表情は、かつて氷結の処刑人と恐れられ、一切の感情を凍土の下に埋めていた頃の面影などなかった。
眩しそうに目を細めたその顔は、使命感に呪われることのない、年相応の一人の少女のものだった。




