No.109 終焉(ラスト)・オーダー、あるいは如如(にょにょ)たる真実
No.109 終焉・オーダー、あるいは如如たる真実
まどかの支えがあるとはいえ、真はもはや限界に近い状態となり、その視界は正常な色彩を失っていた。
右目は冷徹な数式を刻む青白き「論理」、左目は獲物の息の根を止める機会を伺う「嘘」の鮮赤。
相反する二つの力が、まどかの白銀の絆によって無理やり縫い合わされている。
真の左半身を構成する獣の肉体は、一歩動くたびに神経を直接焼き切るような激痛を吐き出し、脳髄は過負荷で白煙を上げそうだった。
「リベレーター」
しかしそれでもこの戦いに決着を着けなければならないと、真が血を吐き出すように呟く。
網膜の奥で、無機質なシステム音声が鳴り響いた。
【契約者:繭住真からの要求を受諾。――対象:獅子井志那都。
既存の規律ログを迂回、秘匿領域の深層スキャンを開始……】
「おい! 理屈屋! いつまでぼけっと考えてやがる!」
左肩に生えた狼の頭部――ライアーウルフが、苛立ちを剥き出しにして咆哮した。
真の左腕は、鋭い黒の鉤爪を獅子井の放つ十手へと叩きつけている。
金属が激突する硬質な音と共に、耳を劈くような火花が舞い、白洲の大地を焦がす。
「俺が手ぇ貸してるとはいえ、いつまでも持つもんじゃねぇぞ! このお転婆の『正義』は、嘘泣き程度じゃ誤魔化せねぇ重さだ!」
ライアーウルフの言う通りだった。
獅子井が纏う無明の面から放たれる威圧感は、もはや暴力の域に達している。
彼女が十手を一振りするたびに、空間そのものが「正しい形」へ固定され、真の自由を奪っていく。
この硬直した規律を剥がすには、あと一手――決定的な「真実を突く嘘」が足りない。
その時、右目のログが激しく明滅した。
【――スキャン完了。該当ログ、ヒット件数:1】
流れ込んでくる情報は、膨大な規律の羅列の中にたった一箇所だけ、綻びのように残されていた古い記録。
真はその内容を精査し、思考の最深部で一つの結論を導き出す。
(――ああ、そうか。……そうしなければ君も──)
思考の海から浮上した真を待っていたのは、眼前に迫る「死」の予感だった。
獅子井の十手が、大気を切り裂く蒼白の雷となって真の頭蓋を狙う。
「『まこと、大丈夫。……何があっても、ボクが守るから!』」
脳内に響く、まどかの力強い声。
その瞬間、真の左半身を蝕んでいた不快な熱が、清冽な銀の輝きによって浄化されていく。
恐怖は元よりない。
感情と言う名のプログラムは過去に置き去りにしてしまったから。
───だから
真は、自らの中で「統合」された三つの力を、一つの賭けへと集約させる。
「おい!? お前、何を――ッ!?」
ライアーウルフが驚愕の声を上げる。
真は、獅子井の猛攻を受け流していた左腕の力を抜き、あえてその場に立ち尽くした。
防御を捨て、回避を拒絶し、急所を晒す――。
それは、あまりにも無防備な、死への志願にも見える沈黙。
「観念したか! 繭住真!」
獅子井の鋭い叫びが、凍てついた戦場に木霊する。
必殺の軌道。逃げ場はない。
振り下ろされる十手の先、獅子井の面の奥にある瞳が、困惑と怒りに揺れるのを真は冷静に見つめていた。
──ジジッ
――衝撃が走る、その数ミリ秒前。
真の右目と左腕、そして中心にある銀の絆が、かつてない同調を開始した。
「────なっ!?」
振り下ろされる十手の先が、真の頭上スレスレで止まった。
そしてその止めた獅子井志那都は困惑と怒りの瞳から、困惑と悲しみの瞳へと変わっていく。
振り下ろされる十手が、獅子井の手により強制的に止められる。
真の鼻先数ミリ、空気を切り裂く衝撃波だけが彼の額をかすめ、鮮血を散らした。
十手を握る獅子井の腕は、目に見えて震えていた。
無明の面の奥、鉄の意志を宿していたはずの瞳は、今や困惑と、堰を切ったような悲しみの色に混じり合っている。
「な、んで……父……は、っ! 父はここで! この場で殺された! いるはずがない!」
それは叫びというより、呪詛に近い拒絶だった。
彼女の視線の先――真のすぐ隣に、死んだはずの男が立っている。
それはどちらかと言えば、父親が生きていた、死んでいなかったという事実への驚愕ではない。
己のこれまでを支えてきた「殉職した父の遺志」という信念を揺るがしかねないモノへの、本能的な否定だった。
「もう騙されぬ! 父の幻覚と共に消えろ!」
獅子井は狂ったように咆哮し、再び十手を振り下ろす。
だが、その一撃もまた、目に見えない壁に阻まれたかのようにピタリと止まった。
「――志那都。おまえが振るうそれに、正義はあるのか?」
幻覚と思われた父親から放たれた、重く、静かな一言。
その声が耳に届いた瞬間、獅子井は空間に張り付いたかのように静止した。
「角馬の教えは弱者を守り、そこに暮らす人々の平和と安寧を守る理念だ。志那都、おまえが振るう先に居るものは一体だれだ。私が最後に残した言葉の意味を、今一度考えなさい」
「……あ……父、さま……」
父の言葉は、彼女が長年自分に言い聞かせてきた「規律」とは決定的に異なっていた。
彼女が守ろうとしていたのは「平和」ではなく「秩序」という名の冷たい箱であり、彼女が振るっていたのは「守るための盾」ではなく「自分を守るための刃」だったのではないか。
父親の幻覚は、彼女の瞳から溢れ出した涙が地に落ちるのと同時に、霧となって消えた。
あとに残されたのは、静寂。
そして、目の前で無防備に立ち続ける額から血が流れ落ちる繭住真の姿。
真は何も言わず、ただまっすぐに彼女を見据えていた。
その右目には、彼女の「正しさ」を暴く論理が。左腕には、彼女の「悲しみ」を暴く嘘が。
そしてその中心には、彼女を「許す」ための銀の輝きが宿っている。
父親の幻覚が霧散すると同時に、獅子井の十手がその手から滑り落ちた。
硬質な音を立てて白洲に転がるそれは、もはや彼女を縛る規律の象徴ではない。
「私は……私は……」
膝から崩れ落ちた彼女の、女神テミスのように目を覆っていた鉢巻の間から、絶え間なく涙が零れ落ちる。
真の姿も、禍々しい半身の獣から、本来の「リベレーター」としての静謐な姿へと戻っていた。
それと入れ替わるように、普段以上に透き通った、淡い銀光を纏ったまどかが姿を現す。
彼女は、泣き崩れる獅子井を包み込むようにして背後から抱きしめた。
「『うん……ポニテ、ううん。志那ちゃんは、辛くて悲しかったんだよね。突然家族を奪われて、どう思いを処理していいか分からず……その時手元にあったモノだけで、なんとか自分を奮い立たせようとしてたんだよね』」
「……うう、ううっ……」
「『……うん。ボクもね、そんな感じだから、なんとなく分かるんだ』」
まどかの声は、真の心臓を直接撫でるかのように優しく響く。
獅子井は声を押し殺し、嗚咽を漏らし始めた。
「『悲しい時はね、泣いた方がいいよ。間違いは誰にでもあるの。間違ったら、直せばいい。そのままにしないでね。そうしないと……自分で、それが正しいんだって思い込んじゃうから』」
「ああ、あああ……」
「『大丈夫。志那ちゃんはまだやり直せるよ。だって、お父さんがそう言ってくれたでしょう?』」
「ああ、あああ、うあぁあああああ!」
唇を噛み、必死に耐えていた獅子井の心が、ついに涙と共に決壊した。
その瞬間、彼女が纏っていた重圧――「無明の面」が剥がれ落ちるように光の粒子となり、彼女の傍らに新たな形を成して現れた。
「……ここまでのようだ。宿主が折れてしまえば、我の在る理由も無し、か」
そこに立っていたのは、ライアーウルフと似て非なる存在。
獅子の頭部を持つ獣頭人身の戦士。
その佇まいは、どこか高潔な王、あるいは絶対的な支配者のような風格を漂わせていた。
獅子は、泣きじゃくる獅子井と彼女を抱くまどかへ、どことなく慈悲深い視線を向けた。
だが、その温もりも一瞬のこと。
獅子の王はすぐさま鋭い眼光を真へと向け、地を這うような重低音で告げる。
「此度の騒動、我らの敗北だ。敗者は勝者に従うもの。……我を如何様にする、『真円を綴るもの』よ」
静寂が支配する戦場。
真は、自らの内に眠る論理と嘘、そして絆の重みを噛み締めながら、獅子の王の問いに対峙した。
「今一度だけ問おう。勝者である貴殿は、何を望む」
獅子の王の鋭き視線は、真の魂の最深部までをも射貫くようであった。
王者の威圧感に白洲の空気が震える中、真は揺るがぬ足取りで一歩、前へと踏み出す。
「何も。……彼女からも、貴方からも、何も奪いはしない。僕はただ、示しただけだ」
真の声は静かだったが、そこには「論理」でも「嘘」でもない、確固たる個の意志が宿っていた。
その答えを聞き、獅子王は意外そうに僅かに眉を跳ねさせたが、やがてその口元に峻烈な、だが満足げな笑みを刻んだ。
「……そうであるな。貴殿は示した。ならば、我も示そう」
獅子の王が天を仰ぎ、一声、壮絶な雄叫びを上げた。
その咆哮に呼応するように、強固だった戦闘空間に無数の亀裂が走り、死白の世界が砕け始める。
「これにより、世界は正しく正常なものへと変わるだろう。……行く末を見届けさせてもらうぞ、真円を綴るものよ」
王の身体は、砂の城が崩れるように黄金の光の粒子へと変わり、吸い込まれるように真が携える魔道書へとその身を預けた。
【深層心理領域に新たに『規律領域』が生成されました。
【ヒドゥンピース:『規律の獅子王』を確保しました。】
『……っけ。お高く止まりやがって、いけすかねぇ野郎だ。おう、理屈屋。今回は手ぇ貸したが、次もそうだとは思うなよ』
魔道書の奥から、ライアーウルフが吐き捨てるような声を出す。
ライアーウルフはそれだけ告げると、書は深く沈黙した。
崩壊していく「識蘊の箱庭」。
歪んだ規律の世界が正常へと回帰し、真たちの意識もまた、境界の曖昧な白濁の世界へと導かれていく。
まどかの温かな気配が遠ざかり、獅子井の嗚咽も、砕け散る空間の音に溶けて消えていく。
その消失の刹那。
どこか遠く、世界の果てから哀しみに暮れる獣の遠吠えが聴こえた気がした。
それが救えなかった誰かの残響なのか、あるいは新たな災厄の予兆なのか。
それを確かめる余裕など、限界を超えた真にはもう、残されていなかった。




