No.112 虚飾(ライ)・リベレイション、あるいは狼煙(のろし)を上げる敗北者(エラー)
No.112 虚飾・リベレイション、あるいは狼煙を上げる敗北者
壁に背を預け、真は吐き捨てた血の鉄錆びた味を噛み締めていた。
右目の網膜に投影され続けている「0.00%」という非情な数字。
その理由を、彼はようやく身体の芯から理解していた。
ここは、大口一子の「識蘊の箱庭」とは決定的に異なる。
あのアスファルトすら飲み込み、石壁に新聞や羊皮紙が地層のように折り重なっていた世界。
嘘が「形」を持ち、情報の堆積として存在していたあの場所では、リベレーターはその矛盾を暴き、楔を打ち込むことができた。
だが、この獅子井志那都の識蘊の箱庭は、狂気的なまでに「正常」なのだ。
規律、秩序、正義。
それらが混じり気のない純白として構築されたこの空間において、不確定要素であるリベレーターの解析は「不適切な干渉」として弾かれ、システムそのものが論理の迷路に閉じ込められフリーズを起こしている。
「『まこと! どうするの!? 作戦失敗!? 逃げる!?』」
耳元で響くまどかの悲痛な叫び。
だが、真の視線は冷静に目の前の死神を捉えていた。
体力、体術、そして先ほど身を以て知らされた『角馬捕縛術』なる戦闘技術。
そのどれを取っても、真は獅子井志那都の足元にも及ばない。
さらに、彼女はまだ、大口もしていた「世界を変質させる力」という切り札を隠し持っている。
圧倒的なスペック差。
それを埋めるべきリベレーターという唯一の武器が、沈黙している。
八方塞がり――いや、天を仰ぐことすら許されない「詰み」の盤面だった。
「私の本気の『独鈷』を受けてなお、気絶もしないとは。少しは見直したぞ、繭住真」
獅子井が十手を携え、砂を踏みしめて歩み寄る。
その足音は規則正しく、一切の迷いがない。
「……それは、どうも。ひとつ確認しますが、もしかして『回向』や『羂索』なんて技名、お持ちですか?」
「うむ。……それは一昨日、君の前で見せた技だが、なぜ名を知っている?」
(姉さんが冗談で言っていたものだ、と言ったら信じるか……)
真はらしくない軽口を叩きながら、加速する心拍を抑え込もうとした。
少しでも対話を続け、獅子井の思考を停止させ、この完璧な規律の隙間に滑り込むための「きっかけ」を掴もうと、脳細胞を限界まで摩耗させる。
だが――世界は、無情だった。
「無駄口は終わりだ。……罪を数える時間は、もう過ぎた」
真の抵抗を嘲笑うかのように、獅子井の周囲の空気が凍りつく。
断罪の女神が掲げた十手が、真実を塗り潰す「終わり」の軌道を描き始めた。
万事休す。
加速する思考の果て、真は静かにその答えに辿り着いた。
リベレーターが算出した「0.00%」という数字は、もはや単なる確率ではない。
逃れようのない「死」という名の確定事項だ。
迫り来る十手の閃光を前に、真にできるのは、その驚威から目を背けることだけだった。
「『だめ――っ!!』」 ──ジジッ──
だが、論理的に「打つ手なし」と断じた真とは異なり、まどかは最後まで諦めてはいなかった。
たとえ勝機がなくとも、たとえその盾が紙細工のように無力であっても。
彼女は全霊を込めて、真を包む防衛機構――銀の輝きを練り上げた「銀河を描く濃紺のローブ」を防御の一点に集中させる。
獅子井の十手が、空気を切り裂き、真の頭蓋を砕かんと振り下ろされた。
その刹那だった。
『……なんだ理屈屋。俺を下したってわりには、もう諦めんのか?』
どこからともなく、低く、そして耳障りなほど粗野な男の声が響いた。
獅子井の「正義」が支配する蒼白の静寂を、一足の土足で踏み荒らすような不遜な響き。
「……ッ、この、声は……!」
真の目が見開かれる。声の主は、目の前の断罪者ではない。
それは真の左手に携える魔道書・「真実を綴る書」――かつて大口一子を狂わせ、真たちが死闘の末に封印した、あの欠落した獣の意志だった。
『計算、計算、計算ねぇ……。ヘッ、お前の「正論」は、このクソ真面目な女の「正論」に押し潰されちまったようだな。そりゃそうだ。泥の混じってねえ正義なんてのは、俺からすりゃ吐き気がするほど空虚な「嘘」だぜ』
魔道書が、内側から激しく脈動し始める。
人狼の嘲笑は、リベレーターのフリーズしたシステムを強制的に上書きし、真の網膜にドロリとした黒いノイズを走らせた。
『おい、理屈屋。この檻から出せとは言わねえ。だが、あいつの「潔癖」が気に入らねえのはお互い様だろ? だったら――俺の「嘘」を混ぜてやろうか。なぁに、口八丁手八丁は俺の十八番だぜ』
それは、絶望のどん底で差し伸べられた、泥まみれの救いの手。
真の理屈が届かない「極度の正常」を食い破れるのは、唯一、法も規律も無視した「デタラメな嘘」だけだった。




