No.113 断罪の天秤(ライブラ)、あるいは|無明(むみょう)の女神 【後編】
No.113断罪の天秤、あるいは無明の女神 【後編】
白砂が敷き詰められた処刑場に、冷酷な裁定の声が響き続けていた。
だが、次の「不純物」に十手が振り下ろされようとしたその瞬間、獅子井の動きが止まった。
彼女は無機質な視線を巡らせ、ある一点を射抜くように凝視する。
「――そこに隠れている者、姿を現せ」
その言葉は、静謐な世界に鋭い亀裂を入れた。
獅子井の背後に控えていた「規律」の腕章を纏った生徒たちが、一糸乱れぬ動きで一斉に駆け出す。
彼らは感情を排した猟犬のように、獅子井の視線の先――物陰に潜んでいた侵入者を取り囲んだ。
力任せに引きずり出されたのは、砂に汚れ、右目を押さえた真だった。
「繭住、真……君か」
獅子井の声が、一段と温度を下げる。
真は数人の生徒たちによって組み伏せられ、頭を冷たい白砂に力ずくで押しつけられた。
抵抗を許さない圧倒的な「規律」の力。
「君は現在、反省房にて矯正処置を受けているはずだ。……よもやとは思うが、そこを脱走し、この聖域へ逃亡してきたとは言わんだろうな」
彼女は上座からゆっくりと立ち上がり、砂を踏みしめて真へと歩み寄る。
一歩ごとに、彼女から放たれる「正しさ」の圧力が真の背中にのしかかり、骨がきしむ音を立てる。
彼女の言葉は、もはや問いかけではない。
それは罪を確定させるための、冷たく切り裂くような「宣告」だった。
「……もしそうだとしたら」
真は砂を噛みながら、顔を半分埋めた状態で視線だけを獅子井へ向けた。
脳内ではリベレーターが激しい警告を発し続けている。
だが、目の前で行われていた無慈悲な「処理」への嫌悪感と、身体を支配する屈辱が、彼の精密な計算を狂わせていた。
「そこに転がっている連中と同じように、僕も『処理』するつもりか……?」
絞り出すような真の反論。
しかし、それは論理的思考を信条とする真にしては、致命的なまでの「悪手」だった。
この精神世界の攻略、そして獅子井志那都という想像主の逆鱗がどこにあるのかさえ把握していない状況での、剥き出しの挑発。
それは、自ら断頭台に首を載せ、死神の鎌を引くような行為に他ならなかった。
砂に顔を押しつけられたまま、真は冷徹に状況を俯瞰していた。
一見、感情に任せたように見える先ほどの挑発――だが、それは真が自身の論理的思考の果てに導き出した、乾坤一擲の「揺さぶり」だった。
獅子井志那都の構築したこの世界には、ノイズがない。
「正しさ」のみで塗り潰された空間では、真実を暴くリベレーターの力は、その牙を研ぐ隙間さえ見つけられない。
ならば、やるべきことは一つだ。
規律然とした彼女の仮面に亀裂を入れ、その内側に潜む「矛盾」を無理やり引きずり出す。
隣で沈黙を守るまどかは、真の意図を正確に理解していた。
事前に伝えられた「何があっても、決して口を出すな」という指示。
彼女は今、燃えるような怒りを押し殺し、観測者としての役割に徹している。
「ほう。……そう言葉にするということは、繭住真。貴様は処刑されることも厭わない、というのだな」
獅子井の発言は確認ですらなかった。
それは、確定した死罪を公的に追認するための「手続き」に過ぎない。
真は、その無機質な声の裏側に狙いを定める。
「更生余地のある者さえ死刑にする。これのどこが『公正』だ、獅子井志那都」
真はさらに言葉を叩きつけた。
「……お前、本当は楽しくなってきたんじゃないのか? 絶対的な正義という看板を背負って、罪のない者を一方的に裁くことに」
「――黙れ」
冷ややかだった獅子井の瞳に、初めて「動揺」という名の暗き炎が灯った。
「黙れ! 黙れ、黙れ、黙れ、黙れ!!」
氷結の処刑人。
学院でそう称えられ、恐れられた彼女の仮面が、音を立てて崩落していく。
獅子井は、自分を縛る鎖さえも鳴らしながら、裂帛の気合と共に激昂した。
「誰かが、誰かがしなければならないんだ……! 巨悪だけを裁き、小さな悪を見過ごしていれば、それはやがて取り返しのつかない惨劇を招く! そんなことは……私は二度とさせない! その為なら、私は――!」
取り乱し、叫ぶ彼女の姿は、規律の象徴などではなく、過去の亡霊に怯える傷ついた少女そのものだった。
真のリベレーターが、彼女の感情の昂ぶりに呼応して、初めて「解析の端緒」を捉えようとした、その時。
「……落ち着け、宿主よ。相手の言に惑わされるな」
どこからか、重厚で威厳に満ちた男の声が響いた。
それは獅子井の口から発せられたものではなかった。
彼女の纏う無明の面、あるいはその背後に潜む「何か」が直接、真の脳髄を揺さぶったのだ。
「今一度言う、落ち着け、宿主よ。相手の言に惑わされるな」
その威厳に満ちた声が響いた瞬間、激昂していた獅子井の身体が、まるで見えない糸で操られる人形のように硬直した。
真は組み伏せられたまま、驚愕と共にリベレーターの焦点を絞る。
(どこだ……どこから声がしている? 獅子井志那都本人じゃない。だが、彼女の『正しさ』の深淵から響いてくる……!)
真の問いかけを無視し、獅子井はゆっくりと、自らの左腕に巻かれた「規律」の腕章に手をかけた。
それは単なる役職の証ではない。
この世界において、彼女の唯一の拠り所であり、執着の塊。
――「願いを叶える鍵」そのもの。
「あ……ぁ、あああッ!!」
獅子井は悲鳴のような叫びを上げながら、その腕章を引きちぎるように握りつぶした。
次の瞬間、腕章は物質としての形を失い、激しい光へと転じる。
大口一子が放った、すべてを塗り潰す血のような赤い光とは対照的な――それは、見る者の瞳を凍らせるような、極寒の「蒼白い光」だった。
温もりを一切排除し、不純物を許さない死の世界の輝き。
獅子井はその光り輝く「鍵」を、自らの胸へと無造作に突き立てた。
「が、はっ……! あ、あああああああああッ!!!」
心臓を直接抉られるような、生々しい痛みと拒絶の絶叫が白洲に木霊する。
彼女がその鍵を「回す」たび、彼女の精神の檻が開き、内側に秘められた無明の面がその肉体を侵食していく。
少女の輪郭は光の中に溶け、代わりに現れたのは、十手を携え、鎖を纏った「法の女神」の成れの果て。
「……そうだ。私は、間違っていない。小さな悪を許せば、それは毒となり、やがて全てを奪い去る。この蔵で起きたことが、その証明だ」
獅子井の声から、一切の人間味が剥落した。
「繭住真。貴様は、その毒の最たるものだ。……裁きの時間だ」
獅子井の姿が一瞬ブレる。
その瞬間、真の右目の網膜に投影されていた警告表示が、一気に臨界点――レッドゾーンへと突入した。
「姉さん!」
真の短い叫びに、潜伏していたまどかが瞬時に呼応する。
阿吽の呼吸とも言えるその連動。
二人は獅子井の影が目の前に肉薄する刹那、リベレーターとしての全機能を解放し、防御形態へと変貌した。
だが、その変貌が完了した瞬間に、肺を潰さんばかりの強い衝撃が真の胸を捉える。
「が、っ……!?」
防御すらも紙細工のように貫通し、真の体は一直線に後方へと弾き飛ばされた。
(……ああ、そうか。だから――『勝率は、ゼロ』なのか)
吹き飛ぶ意識の端で、真は自らの演算の敗北を悟る。
そして激しい衝突音と共に、物語は冒頭――壁に叩きつけられ、絶望的な裁定を待つあの瞬間へと、ついに回帰する。




