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No.114 断罪の天秤(ライブラ)、あるいは無明(むみょう)の女神 【前編】




 No.114 断罪の天秤(ライブラ)、あるいは無明(むみょう)の女神 【前編】




 「ぐっはっ!? ……っ、げほっ! ごほっ……!」


 肺の中の空気をすべて強制的に排気されたかのような、凄まじい衝撃。


 真の体は紙屑のように吹き飛ばされ、冷たいコンクリートの壁に激突した。


 視界が火花を散らし、内臓がせり上がるような痛みに悶絶する。


 「『まこと!? しっかりして! 大丈夫!?』」


 リベレーターとしてその姿を変え、真の防壁となっていたはずのまどかが悲痛な叫びを上げる。


 だが、その守護すらも、目の前の想像主(イマジニア)が放つ「修正圧力」の前では、演算速度が追い付いていない。


 「……わかっていたことだけど。……相性が、最悪だ」


 普段、感情を剥き出しにすることのない真が、苦渋に満ちた声で毒づいた。


 右目のリベレーターが弾き出す勝率は、限りなくゼロに近い。


 「観念したか、繭住真」


 頭上から、感情の欠落した声が降り注ぐ。


 真が顔を上げると、そこには異様な光景が広がっていた。


 空間を埋め尽くすように張り巡らされた、無数の「KEEP OUT」と刻まれた黄色いテープ。


 蜘蛛の巣のように複雑に交差するその細いテープの上に、少女――獅子井志那都は、重力という規律すら支配下にあると言わんばかりに、羽毛のような軽やかさで着地していた。


 その姿は、法の守護者たる正義の女神テミスを彷彿とさせた。


 だが、決定的な違和感がある。


 本来、右手に掲げるべき処断の剣は、権威と捕縛の象徴である「十手」へと変わり、左手に持つべき公平の天秤は、他者のみならず己をも雁字搦めにする「鎖」へと変貌を遂げている。


 「……獅子井、志那都……」


 無明(むみょう)(めん)を纏った彼女の瞳には、真という人間は映っていない。


 ただ、排除すべき「エラーログ」として彼を捉えている。


 「さあ、裁定の時間だ。誤差を修正し、世界をあるべき形へと戻そう」


 獅子井が十手を突き出し、無慈悲な断裁が下されようとしたその瞬間――。


 ――時は、真とまどかが獅子井邸の門を潜る数十分前へと遡る。


 獅子井邸の前に立った真とまどかは、その威圧感に一瞬、足を止めた。


 江戸時代から脈々と続く名家の家柄を示す、重厚な瓦屋根を冠した黒塗りの門。


 そこからは、歴史という名の色褪せた圧迫感が、物理的な重圧となってまどかにのしかかっていた。


 「入ろう」


 真は正門を避け、その脇にある小さな潜戸へと手をかけた。


 指先に伝わるのは、冷たく乾いた木材の感触。


 鍵はかかっていなかったのか、扉は抵抗もなく、滑るように内側へと開いていった。


 「『……ねえ、まこと。なんだかあのポニテちゃんらしくない気がするのよね。彼女の性格なら、戸締まりなんて一ミリの隙もなく完璧にしそうなものじゃない?』」


 まどかの疑問は至極真っ当だった。


 規律の化身である獅子井が、留守にする自宅の鍵を開け放しておくなど、本来あり得ないことだ。


 だが、その不自然さを解明する術を今は持ち合わせていない。


 真は沈黙したまま、広大な庭の先を睨んだ。


 「どっち?」


 「『……あっち。あそこの、一番奥。……まこと?』」


 まどかの導きに対し、真は自身の右目にそっと手を添えた。


 大口一子の「カテドラル」を暴いた時のように、リベレーターの力で獅子井が隠匿している「真実」を直接読み解こうと試みたのだ。


 「……ノイズが、ない……?」


 真の呟きに、まどかが怪訝そうに眉をひそめる。


 右目の網膜に投影されるリベレーターの解析画面。


 そこには、大口の時のように空間を侵食する「ノイズの黒点」が一つも見当たらなかった。


 真は右目のログを精査するように凝視する。


 かつての解析において、彼女の力は『正常な修復プロセス』と誤認されていた。


 今、この屋敷を満たしているのは、大口の時のように現実を歪める「嘘」の気配ではない。


 どこまでも純粋で、どこまでも透き通った、狂気的なまでの「正しさ」だ。




【警告:未定義の論理構造】




 表示されるのは「異常」を示す赤ではなく、何も描かれていない空白の白。


 リベレーターは、目の前の光景を「正しすぎる」がゆえに、解析の指標を失っているのだ。


 何度詳細な解析指示を送っても、網膜には同じ警告が執拗に明滅を繰り返す。


 (何が『警告』だというんだ。獅子井の『正しさ』があまりに強固すぎて、リベレーターですら不整合として検出できないのか……?)


 真は脳内で幾つもの推論を組み立てるが、どれも確証には至らない。


 この静寂そのものが、すでに獅子井という巨大な「規律」に飲み込まれた檻の内部であることを、真はまだ、肌身で理解しきれていなかった。


 広大な敷地の最奥。


 そこに鎮座する「蔵」の前に辿り着いたとき、二人はようやくその異様さを肌で実感することになった。


 蔵の重厚な扉は、まるで招き入れるかのように無造作に開け放たれている。


 だが、その入り口の先には、闇すら存在していなかった。


 かつて空因寺の小さなお堂、その中心に置かれていた鏡のように、入り口の空間は陽炎のように揺らぎ、見る者の平衡感覚を狂わせるような歪みを見せている。


 「……ここで、間違いない」


 右目のリベレーターが弾き出す座標。


 そして真自身の論理的思考が導き出した結論。


 この街を、世界を塗り替えようとしている「過剰な正しさ」の起点は、この歪みの先にある。


 「『まこと、気を付けるのよ。ワン子ちゃんの時のように、この先はポニテちゃんの領域なんだから』」


 まどかの言葉に、真は短く、だが深く頷いた。


 かつて大口が作り出した「カテドラル」が嘘の逃避行だったとするならば、獅子井の構築した世界は、逃げ場のない「正論の監獄」だ。


 「……行くよ」


 真は、空間の歪みへと震える手を伸ばした。


 指先が境界に触れた瞬間、リベレーターのシステムが激しく駆動音を鳴らす。


 (識蘊(しきうん)箱庭にわへ――世界潜行(ダイブ)、開始)


 境界を越えた瞬間、世界から音が消えた。


 物理世界の重力、風の冷たさ、獅子井邸の匂い……それら全てがデータ上の塵へと分解され、再構築されていく。


 意識が急速に加速し、真は自分という「ノイズ」を、獅子井志那都の精神宇宙へと深く撃ち込んだ。


 境界を越えた瞬間、視界を埋め尽くしていた夜の静寂が、剥落した。


 次に真とまどかの目に飛び込んできたのは、見渡す限りの「白」だった。


 そこは、江戸時代の法廷――「お白洲」を模した広大な空間だった。


 床には目も眩むような白い砂が敷き詰められ、上座には「正しさ」そのものを象徴するかのように、背筋を伸ばし、泰然と座る獅子井志那都の姿がある。


 だが、その光景は厳かな儀式などではない。


 「処理」──そのものだった。


 「……罪状、遅刻三回。および、校内における風紀の著しい乱れ」


 獅子井の淡々とした、抑揚のない声が響く。


 彼女の前に引き立てられているのは、北王子学院の制服を着た生徒たち。


 彼らは震え、涙を流しながら、砂の上に額を擦り付けていた。


 「裁定を下す。……汝は、この世界の秩序にとって不要な不純物である。――死罪」


 彼女が手に持った十手を一閃させる。


 本来、十手は「打つ」「捕らえる」ための道具だ。


 しかし、志那都の振るうそれは、空間そのものを切り裂く断頭台の刃として機能した。


 ─── 一瞬。


 物理的な血が流れることはない。


 ただ、罪を言い渡された生徒の存在そのものが、データ上のエラーを消去するように霧散していく。


 驚くべきは、消えゆく生徒たちの反応だった。


 「ありがとうございます……! ありがとうございます、局長……!」


 「これで、僕も……『正しい』一部に……なれるんですね……!」


 彼らは、自分たちの「打ち首」を、至上の救済であるかのように受け入れ、歓喜と恐怖の混ざり合った涙を流しながら消えていく。


 「『……何よ、これ。何なのよ、これ……っ!』」


 横に立つまどかの声が、激しい嫌悪に震えていた。


 まどかは、消えゆく少年が死の直前に見せた、瞳の奥に張り付いた「絶望」を見逃さなかった。


 「『何が「ありがとうございます」よ……! 嬉し泣きなんかじゃない。あの子たち、死ぬほど怖がってるじゃない! 恐怖で心を壊されて、ああ言うしかないようにされてるだけじゃない……!』」


 まどかの叫びは、静謐な白の世界に虚しく吸い込まれていく。


 獅子井は次の「罪人」へと視線を移した。


 その瞳に慈悲も憎悪もなく、ただ「作業を完遂する」という義務感だけが宿っている。


 「……ここは法廷じゃない。不純物を取り除くための『クリーンルーム』なんだ」


 真は右目のリベレーターを強く押さえた。


 「感謝されながら人を消す」という異常な光景が、リベレーターのシステム上で「極めて正常な浄化プロセス」として処理されている。


 その事実に、真の胃の奥でどろりとした吐き気が渦巻いた。








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