No.115 境界線上の帰還(ホーム・カミング)、あるいは侵食(エラー)する日常
No.115 境界線上の帰還、あるいは侵食する日常
北王子学院から自宅までの道のりを、真はどうやって歩き通したのか記憶にない。
右目のリベレーターが辛うじて維持している平衡感覚だけを頼りに、泥を啜るような足取りでようやく「正倉院」と刻まれた家の玄関のドアを開けた。
「まーちゃん。帰宅時間には、必ず帰らなきゃダメでしょう」
玄関ドアを開け、出迎えたのは保護者・美弥。
その彼女の口から出たのは、労わりではなく、冷淡な「指摘」だった。
真を慈しみ、誰よりも彼の自由を尊重してきたはずの彼女の瞳は今、虚ろな硝子玉のように、プログラムされた警告を読み上げている。
「『美弥ちゃん! まことは今、くっ……』」
まどかが叫び、食ってかかろうとして――その寸前で、苦渋に満ちた表情で口を紡いだ。
この家における唯一の味方であり、血の繋がりを超えた「安らぎ」を真に与えてきた彼女までもが、獅子井の「正義」に塗り潰されてしまった。
その事実に、まどかの胸は激しく掻き乱される。
真は早めに休ませてもらうと、美弥の視線を避けるように、縺れる足取りで自室へと入り、倒れ込むようにベッドへ崩れ落ちた。
「『まこと!? 大丈夫!? しっかりして!』」
実体を持たず、声をかけること以外に何もできないまどかが、真の顔を覗き込む。
「だいじょうぶだ……。それより、姉さん……。獅子井志那都の識蘊の箱庭の場所は……」
「『……うん。彼女の家、その庭にある蔵よ。一子が言っていた通りだった……』」
「わかった……。なら、処理は……早めの方がいい……」
明日、またあの学院へ行き、あの「矯正」に身を曝せば、今度こそ自分の中の何かが完全に壊れてしまう。
真はそこまで言いかけて、言葉の途中で糸が切れたように意識を失った。
一瞬、まどかは悲鳴を上げそうになったが、それが単なる深い眠りであることを悟り、安堵の溜め息を漏らす。
「『……おやすみ、まこと。明日は……明日こそは、ボクが……』」
月明かりに照らされた真の右目。
消灯したはずのリベレーターが、眠る主人の意思とは無関係に、静かに、そして禍々しく青白い脈動を繰り返していた。
「『まこと! まこと起きなさい!』」
深い眠りの底へと沈んでいた意識を無理やり引き上げるように、まどかの切迫した声が響いた。
真は弾かれたように目を開ける。
脳を焼くような矯正の残痛が火花を散らしたが、まどかの表情を見て、それが平穏な朝ではないことを瞬時に悟った。
「『ごめんまこと。もっと寝かせてあげたいけど、緊急事態よ』」
真はまどかの様子から何があったと尋ねる。
「『ゆっくり窓の外を見てごらんなさい。あ、顔を出しすぎちゃダメよ』」
まどかの言葉に従い、真は這うようにして窓際へ寄り、カーテンの隙間からそっと下を覗き込んだ。
深夜の静寂に包まれているはずの玄関前。
そこには、街灯に照らされて数人の人影が立っていた。
腕に巻かれた『規律』の腕章。
一糸乱れぬ姿勢で、微動だにせず門扉を監視する生徒たち。
「『ホント何なの、あれ!? もう完全に機械か何かでしょう、これじゃ!』」
まどかが忌々しげに吐き捨てる。
直立不動で立ち続ける彼らの中心――そこには、やはりと言うべきか、獅子井志那都の姿があった。
彼女はただ静かに、冷徹な精密機器のように真の部屋の窓を見上げている。
「『どうするの、まこと? このまま家に籠っていても、あのポニテちゃんたち、朝には突入してまことを学院に連れていきかねないわよ』」
まどかの推測は、おそらく正しい。
獅子井にとって、真は「修正すべき重大なエラー」だ。
効率と規律を重んじる彼女が、登校時間まで悠長に待つ保証はどこにもない。
「タイムリミットは登校時間までだ」と、真は奥歯を噛み締め、震える体を押さえつけて着替えを始めた。
自室の扉を音を立てぬよう慎重に開ける。
美弥に気づかれぬよう、そして玄関先で獲物を待つ「規律」の監視網を抜けるために。
真は勝手口から音もなく外へ滑り出した。
夜の冷気が、熱を持った右目を刺す。
鉢合わせを避け、建物の影に身を潜めながら、彼は自宅を飛び出した。
勝手口から闇に紛れ、真は路地裏へと滑り込んだ。
背後に残した家を振り返る余裕はない。
玄関前で彫像のように立ち尽くす獅子井たちの、刺すような冷たい視線の残滓が、今も背中を焼いている。
「『まこと、右! ライトが見えるわ、隠れて!』」
まどかの鋭い警告と同時に、真はゴミ集積場の影に身を沈めた。
数秒後、低く無機質なエンジン音と共に、パトカーがゆっくりと通りを過ぎていく。
だが、その光景は真の知る「夜警」ではなかった。
(……なんだ、あれは。まるで見世物だ)
パトカーの速度は、まるで定規で測ったかのように一定で、車窓から覗く警官たちの首の動きすら、左右に一定のリズムで反復されている。
さらにその後方を、腕章を巻いた数人の生徒たちが、軍隊のような足取りで一糸乱れぬ距離を保って追従していた。
それは治安維持というより、街という名の巨大な舞台で行われる、不気味な集団演舞のようだった。
「『警察まであんな感じなの……? まるでもう、街全体が巨大な工場か何かになっちゃったみたい』」
まどかの声に、真は右目のリベレーターを起動させた。
青白い視界が、街の表面を覆う異常な「同期」を暴き出す。
【解析:広域論理干渉を確認。……判定:『公共秩序の極大化』。……警邏経路、巡回周期、信号機の明滅、および対象個体の心拍数に至るまで、単一の強制コードによって統制されています】
獅子井の力は、もはや学院の枠を完全に超え、十王市のインフラや公権力の根幹にまで深く食い込んでいた。
路地を一歩進むたびに、真は「正しさ」という名の透明な檻に閉じ込められていく感覚に陥る。
信号機の点滅、街灯が灯るタイミング、さらには風に舞う落ち葉の軌道までもが、計算された美しさで制御されていた。
その完璧な秩序の中で、息を乱し、肩で呼吸をし、泥に汚れながら闇を這う真だけが、この世界における決定的な「ノイズ(バグ)」だった。
「……獅子井志那都とって、今の僕は消去すべきゴミデータなんだな」
真は最短ルートを捨て、リベレーターが弾き出す「規律の死角」を縫うように走った。
警察の監視カメラが死角を作るわずか数秒のラグ、巡回生徒の歩幅から逆算される認識の漏れ。
それらすべての数値を網膜上で演算し、論理の隙間に身を滑り込ませる。
やがて、十王市の外縁。
完成された幾何学模様の街並みから切り離されたかのように、深い沈黙を守る広大な敷地が見えてきた。
「『……着いたわ。あそこよ、あれがポニテちゃんの屋敷』」
まどかの指差す先。
高く威圧的な門構えの奥に、かつて大口一子が語った因縁の「蔵」が、闇の中にその禍々しい輪郭を現していた。




