No.117 空想の筆致、あるいは盲目の境界線
No.117 空想の筆致、あるいは盲目の境界線
警察の事情聴取は、獅子井の「いつものこと」と言わんばかりの手際の良さで、すんなりと終わった。
獅子井は警察の車両に同行することとなり、真とまどかは夜の商店街に取り残された。
真は、先ほど右目の端に映った『白い獣』のノイズ、そして祈里が放った凍てつくような拒絶について、まどかに意見を求めようとした。
だが、真が口を開くより早く、まどかが弾んだ声を上げた。
「『ねえねえねえ! まこと、さっきのボクの解説どうだった? 上手くなかった!?』」
まどかは真の周囲を軽やかに滞空し、得意げに胸を張る。
「『「一族の鎖が来るよ!」とか、あのタイミング。我ながら痺れちゃったな。あ、ちなみにあの技名、ボクが勝手に付けたんだけど、カッコよかったでしょ?』」
(……やはり、勝手に付けていたか)
真は出鼻を挫かれた。
まどかの自白通り、あの時の志那都は一言も技名など叫んでいなかった。
彼女が行っていたのは、冷徹な精度で対象を投じ、関節を破壊し、固定する――ただ淡々と、エラーを修正するかのような「作業」に過ぎなかったのだ。
「『まことにも見えたはずだよ。ボクが技名を叫んだ瞬間に、空中に浮かび上がるド派手な筆文字のフォントが!』」
力説するまどか。だが、当然ながら真にそのような文字は見えていない。
真は、目の前のこの自称・姉が、重度の視覚野のバグか、あるいは末期の誇大妄想に陥っているのではないかと、本気で懸念し始めた。
「『くっ! またボクを残念な子を見るような目で見てるな! まことに見えなかったかもしれないけど、ぜったーい! 美弥ちゃんなら見えてたね!』」
まどかの言葉に、真は同居人であり保護者でもある美弥の姿を思い浮かべる。
……確かに、あの奔放な女性ならば、「あら、格好いいフォントね」と笑って話を合わせそうな気がすると、真は、これ以上この話題を掘り下げるのはリソースの無駄だと判断し、口を閉ざした。
結果として、真は獅子井や祈里から感じ取ったあの『違和感』を、論理的に処理せぬまま朝を迎えることとなる。
そしてそれが、致命的な遅れを招く一歩であったことに――この時、誰も気づいてはいなかった。
翌朝、真は普段と変わらぬルーティンをこなすため、リビングへと下りていった。
そこには、真より早く起きていた美弥がすでにいた。
(……また寝ずに、朝までゲームをしていたのか)
真とまどかは同時にそう勘ぐったが、美弥の顔に寝不足特有の疲労の色は見当たらない。
それどころか、彼女はいつも以上に「規則正しい」所作で、ティーカップを口に運んでいた。
「『まあ、美弥ちゃんもたまには夜更かししないで寝るときもあるんじゃない?』」
まどかは楽観的に語るが、真の中では静かに、そして確かに違和感が積み重なっていく。
されど、右目のリベレーターの力は沈黙を保ったままだ。
警告ログすら流れないその静寂に、真は自身の思考ロジックの方がエラーを出しているのだと、強引に結論付けてしまった。
家を出て、学院へと向かう。
視界に入る風景は、一見すれば平和そのものだった。
整然と歩く人々。規律よく信号を守る自動車。
だが、その動き――風に揺れる街路樹や流れる雲の動きさえ、まるで緻密なプログラムによって型に嵌められたかのように、規則正しく「動かされている」。
そんな錯覚が、真の脳裏をチリつかせる。
そして、決定的な光景は学院に到着してからだった。
廊下を行き交う生徒たちは、まるで軍隊の行進のように正確なピッチで左側通行を徹底している。
教室に入れば、席に着く者は一人残らず背筋を伸ばし、一糸乱れぬ姿勢を保ったまま、彫像のように静止していた。
「『……ねえ、まこと。なんか、おかしくない? みんな、ロボットみたいな動きしてるよね』」
まどかもようやく、周囲の異常に気づいたのか、その声からいつもの軽快さが消えていた。
「おはようございます、繭住くん。今日もいい天気ですね」
真の後ろの席。そこには、確かに宇賀が座っていた。
だが、真の記憶にある宇賀とは、似ても似つかない「異物」がそこにいた。
特徴的だったツートンブロックの髪は、まるで定規で測ったかのように正確な七三分けに固められている。
だらしなく着崩していた制服は、アイロンの折り目も鮮やかに整えられ、ネクタイは喉仏を締め上げるほどにきっちりと結ばれていた。
何よりおかしいのは、その声音と、目に宿る生気のない光だった。
「『だ、だれあんた!? コタローはおはようございますなんて言わないわよ! もっと「オース」とか「チッース」みたいな、チャラい言葉で挨拶するのよ! 正体を現しなさい!』」
まどかの叫びはもっともだった。
だが、真の右目が捉えるバイタルデータ、骨格、声紋……そのすべてが、目の前の人物が宇賀琥太郎本人であることを、非情なまでの精度で証明し続けていた。
「どうしましたか? 私の顔に何か付いていますか?」
目の前の宇賀に似た人物は、教科書を机の端と並行にミリ単位で揃えながら、穏やかに微笑んだ。
その微笑みには、昨日まで彼が持っていたはずの、軽薄だが温かい人間味の欠片も残っていない。
真は短く「問題ない」と答え、前を向き席に着く。
視界に入る教室の光景は、さらに異常を極めていた。
(……リベレーターの沈黙。……依然、空間論理の崩壊反応、なし。……判定:正常世界)
右目の力が反応しないということは、この風景こそが「正しい」ということになる。
しかし、真の意識が、記憶が、思考が、これを拒絶している。
「『まこと! これ絶対想像主とか言うやつの仕業よ!』」
真はまどかの問いかけを、冷徹に、そして機械的に否と切り捨てた。
「『バカなの!? その力がどこまで当てにできるってのよ! 降って沸いた力でしょうが! 自分の感覚を信じなさいよ! まことだっておかしいと感じてるんでしょうが!』」
まどかの言い分は正しかった。
論理的思考に基づいても、現状の風景は明らかに異常の範疇にある。
しかし、真の右目は一貫して「正常」のサインを送り続けている。
信頼すべきは、不確かな記憶か、それともこの絶対的な力か。
真は相反するロジックの狭間に陥り、思考の海へと沈んでいく。
そして――その時はやってきた。
ピッー!
鋭い笛の音が廊下から鳴り響き、静止していた教室の空気が爆ぜた。
教室のドアが荒々しく開かれると、制服に『規律』の腕章を着けた生徒たちが颯爽と雪崩れ込み、瞬く間に真の席を包囲した。
「『な、なによ、あんたたち……っ』」
まどかは、感情を殺した精兵のように立ち並ぶ腕章の生徒たちに、本能的な恐怖を露わにする。
「規律会則。教室内における着席時には、背筋を九十度に伸ばし、足は膝より直角にして座るべし」
「「「「教室内における着席時には、背筋を九十度に伸ばし、足は膝より直角にして座るべし」」」」
一人の生徒が唱えると、周囲の者たちが一斉にそれを復唱した。
そして彼らは数人がかりで真の姿勢を品定めするように囲み、手にしたメジャーでその角度を厳密に計り始める。
「計測終了。誤差5センチの違反を確認」
「『はあ!? なにそれ!? たった5センチじゃない! そんなの別にいいでしょうが!』」
まどかの怒号は虚空に消え、彼らには一向に届かない。
「規律違反と見なす。規律局へ連行しろ」
その非情な宣告と共に、腕章の生徒たちが一斉に真へと飛びかかった。
屈強な数名がかりで真の両腕を捻り上げ、抵抗の余地すら与えず拘束する。
真はおろか、空中に浮かぶまどかでさえ、そのあまりにも機械的で迷いのない「排除」の行いに、言葉を差し挟む余裕すら持てなかった




