No.118 規律の執行、あるいは断罪の境界線
No.118 規律の執行、あるいは断罪の境界線
「規律を───」
獅子井の瞳に、極寒の氷のような光が宿る。
彼女は胸ポケットから一本の金属製ボールペンを抜き取ると、迷いなくその男の進路上へと踏み出した。
だが、一点の曇りもない彼女の「正しさ」は、ひとつの盲点を生んでいた。
――横道から不意に飛び出した、小さな人影。
それは、習い事の帰りか、この時間に出歩くのは不釣り合いな幼い子供だった。
「あ……」
男は止まらない。いや、必死すぎて止まれない。
このままでは、衝突の衝撃が子供を粉砕する。真の演算回路が、最悪の接触まで残り1.2秒であると告げた。
(……干渉は不要。獅子井志那都の身体能力ならば、衝突回避と対象の制圧を同時に完遂する確率は――)
真がその「予測」を完結させるより早く、獅子井が動いた。
彼女の動きは、もはや人間のそれではない。
慣性を無視した鋭い踏み込み。
彼女は子供の襟元を掴むと、後方にいる真へと放り投げる。
それは、真であれば必ず受け止めると確信している、冷徹なまでの「信頼」の形。
そして同時に、突っ込んでくる男の懐へと潜り込んだ。
手に握られたボールペンが、夕闇の中で法具のような閃光を放つ。
「『見える! ボクには見える!!』」
突然、まどかが叫びを上げ、真の思考ログを上書きするように解説を始めた。
「『あれはただの突きじゃない! 獅子井家の血が、歴史が、あのペンを「十手」に変えてるんだ。……来るよ、一族の鎖が!』」
角馬捕縛術、壱式――『独鈷』
鈍い打撃音。
ペン先が男の正中線、みぞおちの深部を正確に貫いた。
「──ッか!?」
肺胞の空気を強制的に吐き出させられ、男の身体が「く」の字に折れ曲がる。
獅子井はその隙を逃さず、男の右腕を掴み取ると、自らの身体を軸に鋭く捻り上げた。
「『次は関節! 相手の力をそのまま地獄へ突き落とす――因果応報の円運動!』」
『弐式――『回向』
抗うことのできない因果応報の如き円運動。
男の巨体が、重力に引かれる石塊のようにアスファルトへと叩きつけられる。
「ぐぅあっ!」
獅子井は流れるような動作で男の背後に跨り、膝でその脊椎を固定した。
「『まこと、見て! ポニテちゃんが……!』」
まどかの驚愕の声。
獅子井は自らの後頭部へ手を伸ばし、一点の迷いもなく紐を引き抜いた。
彼女を縛っていた「規律」の象徴が解かれ、黒い髪が夜の帳のように彼女の背中を覆う。
「『あれはただの髪留めじゃない。……迷える衆生を絡め取る、不動明王の縛鎖!』」
――参式――『羂索』
引き抜かれた紐が、男の腕に神速で絡みつく。
片腕を極め、さらにもう片方の腕を背中で交差させ、解剖学的に逃走不可能な角度で締め上げる。
それは「逮捕」というよりも、荒ぶる獣を「不動の石」へと変えるための儀式。
「あ、あが……っ! 離せ、腕が、腕が……ッ!!」
男の悲鳴が静まり返った商店街に響く。
だが、獅子井は眉一つ動かさない。
彼女はただ、結び目をミリ単位で調整し、乱れた髪を無造作に手櫛で整え直すと、冷徹な声で告げた。
「規律を乱すな、愚か者め!」
獅子井の声が、凍てついた夜気を切り裂く。
足元に転がされた男は、もはや指先一つ動かすことができない。
関節を完璧に封じ、特殊繊維の紐で「固定」されたその姿は、人間というよりは、台座に縛り付けられた出来損ないの彫像のようだった。
「『…………見てよ、まこと。周りの連中、拍手もなければ、悲鳴も上げない。ただ……見てるだけよ』」
まどかの指摘通りだった。
商店街の通行人たちは、足を止め、この凄惨な制圧劇を眺めている。
だが、そこには野次馬特有の興奮も、暴力を忌避する嫌悪感もない。
まるで行き届いたメンテナンスを眺める工場の作業員のように、彼らはただ「エラーが修正されたこと」を静かに受け入れていた。
「――捕縛完了。警察に連絡を入れる。繭住、緊急時とは言え、そちらの子には無茶をした。怪我など負っていないか?」
獅子井が立ち上がり、携帯端末を取り出し速やかに警察へと連絡を入れていた。
結び目から解かれた彼女の黒髪が、夜風に煽られて不規則な軌跡を描く。
普段の彼女を縛り付けていた「規律」という名の結界が、この瞬間だけは物理的に失われているように見えた。
彼女は警察へと連絡を済ませると真の元へ歩み寄り、その腕から子供を無造作に引き取ると、地面に立たせた。
「私の技量不足で怖い思いをさせてしまった。申し訳ない……ん? 君はどこで?」
獅子井は、救い出した子供、少女の顔を覗き込み、その記憶の断片を高速で手繰り寄せる。
「『あれ? もしかして――』」
まどかもまた、獅子井と同じように身を乗り出して少女の顔を確認した。
「……ボランティアで見た少女か」
「『ネネちゃんじゃない!』」
二人の思考が同時に結実する。
獅子井は学外清掃活動で、真やまどかは老健施設でのボランティア活動でも見かけていた。
規律を重んじる志那都が「模範的な活動」として参加していた場所で、何度か顔を合わせたことのある少女――祈里寧音子であった。
「君とはよくよく縁があるな。……重ねて詫びよう。怖い思いをさせてしまったようだ」
祈里はうつむいたまま、一言も発さない。
その小さな肩が微かに震えているのを見て、獅子井は彼女が事態の凄惨さに怯えているのだと判断し、再び不器用な謝罪を口にした。
「『怖かったよね、ネネちゃん。でも大丈夫よ! 悪い奴は、あのポニテちゃんがやっつけてくれたから』」
まどかもまた、祈里を元気づけようと、届かぬ声を必死に投げかける。
だが、その慰めに答えるように漏れた祈里の呟きは、少女の純粋な恐怖とは異なる色を帯びていた。
「……んは、……ダメ……やめて……」
それは言葉として形を成しているというよりは、生理的な嫌悪が漏れ出したような、壊れたノイズに近い呟き。
「『ん? なあに、ネネちゃん?』」
まどかには、その言葉の真意が理解できなかった。
だが、獅子井の耳には、あるいはその唇の動きから、少女の拒絶が正しく読み取られた。
「これは、喧嘩ではない」
獅子井の声から、先ほどまでの僅かな「配慮」が消失する。
彼女は、いまだ地面に無様に転がされたままの男に、冷淡な一瞥をくれた。その瞳は、夕闇の底に沈む澱よりも、どこまでも冷たく、暗く、深いもの。
「規則に従わぬ者を――罰しただけだ」
獅子井にとって、それは慈悲でも守護でもなかった。
ただ、狂った歯車を「規律」という名の金槌で叩き潰し、元の形へと矯正する作業。
彼女が祈里に向けて見せたのは、法の体現者としての、一切の妥協を許さない「断罪の意志」だった。
獅子井がその言葉を噛みしめるように放った直後、商店街の入り口から赤色灯の光が差し込み、サイレンの音が夜気を震わせた。
「ん? まさか!? 志那都ちゃんか! またやったのか!」
パトカーから降りてきたのは、見知った顔の中年警官だった。
彼は惨状を一目見るなり、呆れたように溜息をつき、手慣れた動作で男に手錠をかける。
「引ったくり犯の確保、感謝する。……だがな、志那都ちゃん。お前さんの腕前は知ってるが、一歩間違えれば志那都ちゃんが過剰防衛で調べを受けるハメになるんだぞ。少しは身の振りを考えろとお説教したはずだろう?」
「はっ! 申し訳ありません。規律を乱す者が目の前にいた為やむを得ず。罰すると言うのであれば局の方まで伺います」
知己の警官からの言葉を、獅子井は表情一つ変えずに受け流す。
その背筋はどこまでも真っ直ぐで、一点の揺らぎもなかった。
「『ポニテちゃん、怒られちゃってるわね。……でも、よかった。これで一安心かな』」
まどかが安堵の声を漏らす。だが、真の視線は別の方向を向いていた。
不意に、祈里が歩き出す。
獅子井や警察の喧騒を背に、彼女は闇の深い路地へと足を踏み入れた。
「待ちなさい、君を一人で帰すわけには――」
獅子井が呼びかけ、祈里の肩に手を伸ばそうとしたとき。
祈里が、ゆっくりと首を巡らせて振り返った。
その瞬間、獅子井の身体が凍りついた。
少女の瞳に宿っていたのは、先ほど獅子井が男に向けて見せた冷たい瞳よりも、なお暗く、深い暗滞。
光を一切反射せず、見る者の魂を吸い込むようなその「無」の眼差しは、獅子井が信じる『規律』という名の灯火を、一瞬でかき消してしまうほどに圧倒的な黒。
「…………っ!?」
獅子井の手が、空中で止まる。
言葉を失い、ただ立ち尽くす彼女の横を、祈里は、一度だけ頭を下げ、音もなく通り過ぎていった。
真の右目が、彼女の後ろ姿に一瞬だけ、現実にはあり得ない『白い獣』のような姿を捉えたが――それも次の瞬間には、街灯の瞬きに消えていった。
警察の無線が響く夜の商店街。
解かれた髪を乱したままの獅子井と、無機質に佇む真。
二人の影は、少女が消えていった闇の深さに飲み込まれるように、長く、長く伸びていた。




