No.119 規律の執行、あるいは断罪の境界線
No.119 規律の執行、あるいは断罪の境界線
定期テストという名の嵐は過ぎ去った。
兎束は宣言通り活動自粛を免れるスコアを叩き出し、宇賀もまた、真の「生存戦略」に近い指導によって、奇跡的に赤点という名の断頭台から生還を果たした。
これによって、学院内を覆っていた「試験勉強」という強制的な熱気は霧散した……はずだった。
だが、真の観測ログは、別の異常を捉えていた。
勉強という具体的な目的は消えたものの、期間中に発生していたあの刺すような、ピリピリとした緊迫感だけが、燻り続ける残り火のように学院の底に沈殿している。
(……何かがおかしい。思考ルーチンに、無視できない微量なノイズが定着している)
真は自身の論理回路をスキャンしたが、ハードウェア上の欠陥は見当たらない。
ならば、このノイズの源泉は自分自身の内部ではなく、自分を取り巻く「世界」の側にあると判断をする。
右目の反応も確認をしてみるが、いまだ右目のリベレーターとしての力は沈黙を保っていた。
真はリベレーターの力に頼らず、世界が変質しているのか、独自に観測をし続けていた。
生徒たちの歩行ルート、昼食時のトレイの置き方、さらには休み時間の私語のデシベル数に至るまで。
それらはかつての無秩序な日常には戻らず、見えない定規で測られたかのような「正しさ」を維持し続けている。
答えの出ない違和感を抱えたまま、カレンダーの数字だけが機械的に更新されていく。
――時は、六月。
鈍色の雲が空を覆い、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく季節。
学院内では衣替えが行われ、爽やかなはずの白シャツが整然と並ぶ光景は、真の目には同じ規格で製造された部品の陳列のように映っていた。
そしてその日、真の端末に一通の「業務通知」が届く。
『特別巡回強化月間』と名の付いた依頼であった。
特別巡回強化月間。
学院風紀維持局――『規律』から通達されたそのタスクは、定期テスト明けの気の緩みを引き締めるための、ある種の定例行事のようなものだった。
内容は拍子抜けするほど簡素だ。
下校路を「巡回」という名目で歩き、無事に帰宅したことを端末から報告する。
それだけで、相応の貢献ポイントが自動的に振り込まれる。
「『へぇー。ただ家に帰るだけでポイントが貰えるなら、受けたら? まこと』」
真の肩越しに端末を覗き込み、まどかが気楽な声を出す。
確かに、タスクの詳細はそれ以外に記述されていない。
真にとっても、帰路がそのまま報酬に変わるなら拒否する論理的理由はなかった。
「『これならコタローも受けるんじゃない? さっそく聞いてみれば』」
まどかの提案に対し、真は内心で否定的な予測を立てた。
宇賀のこれまでの思考回路をトレースすれば、彼は規律による支配を極端に嫌っている。
たとえ実益があろうとも、宇賀ならば当局の「犬」のような真似を強要されるタスクには、毒づいて背を向けるはずだ。
「ん? これ? ああ、受けるよ」
だが、返ってきたのは、拍子が抜けるほど軽い肯定だった。
真の思考が一瞬、行き場を失って停止する。
「……意外か? べつに普通に考えれば、家に帰る道での見回りだろう? そんでポイントが貰えて町の安全も守れる。一石二鳥ってやつじゃん」
宇賀は、真と目が合ってもそらすことなく、至極「まっとう」な理由を述べた。
その言葉自体には、一点の曇りもない正論が含まれている。
しかし、真はその言動に、言語化しがたい猛烈な違和感を感じていた。
(……エラー。予測モデルとの乖離を確認。宇賀の優先順位から『反抗心』が消失し、代わりに『最適化された効率』が最上位に上書きされている)
それは、どちらかと言えば真自身の思考プロトコルに近い。
だが、それを宇賀が行うのは、まるで壊れた楽器が完璧な調律を奏でているような、生理的な気味悪さを伴っていた。
「『そう? そんな気分だっただけじゃない? ほら、コタローもお年頃だし、ちょっとは大人になったのよ』」
まどかは真の懸念を軽くいなすが、真の右目の奥では、本人も気がつかないほどの微細なノイズが火花を散らし始めていた。
特別巡回強化月間』のタスクを受諾した真は、放課後のルーチンに従い、帰路の途中で夕飯の材料を買いにスーパーへ立ち寄った。
在庫状況と栄養バランスを照らし合わせ、最適化されたルートで買い物を済ませる。
店を後にした真の視界に、夕闇が迫る街角で不自然なほど背筋を伸ばし、周囲を凝視する見知った姿が捉えられた。
学院風紀維持局――『規律』の局長、獅子井志那都だ。
「君は確か、繭住と言ったか……。買い物帰りか。速やかに帰宅するように。……むっ、君もこちらの方面なのか」
獅子井は真の手に提げられたレジ袋を一瞥し、わずかに表情を和らげた……ように見えた。
「気を害さなければ共に行こう。複数人で行動することで、防犯の抑止力も高まる。これもまた巡回の一環だ」
獅子井は真の行く先が同じ方向と言うことで同行を提案する。
真にとって、彼女の申し出を断る合理的な理由は存在しなかったため、二人は並んで歩き出す。
しかし、その光景は異様だった。
どちらも一言も発さず、ただ一定の歩幅とリズムを刻み続ける。
それは下校というよりは、軍隊の行進、あるいは精密機械の同期作業に近い。
「『…………………………………ちょっと、あんたら。何か会話でもしたら? 無言で行進みたいに歩いてたら、端から見てて怖いんですけど!』」
静寂に耐えかねたまどかが、真の耳元で悲鳴のような声を上げた。
真は、自分の耳元でまどかがこのまま騒ぎ続けることによる脳内リソースの浪費を避けるため、話題の提供を決意する。
記憶ログを高速走査し、獅子井志那都という個体との「共通項」を検索し、真はそれを口にした。
そしてそれを耳にした志那都の足が、わずかに止まった。
「……確かに。私の両親は十年前に殉職している。特段隠しているつもりもないが……。何だ、君もそうなのか。……そうか」
志那都はそれ以上追及することなく、前を見据えたまま短く答えた。
その声には、深い悲しみよりも、受け入れた運命に対する鋼のような硬質さが混じっていた。
「『なんでよりによってその話題をチョイスしたのよ! 話題を振って明るくするどころか、余計に重くなったじゃない!』」
耳元でまどかが絶叫する。
真は心外だった。
話題を提供しろという要求に対し、最も確実な共通項を提示したに過ぎない。
共通の背景を持つ者同士であれば、情報の同期効率は最大化されるはずだ。
理不尽に怒られることに微かな不快感を覚えながら、真は再び、沈黙と「正しさ」に満ちた、夕日が街影に沈む道を歩き続けた。
「「……両親の話は、別に吹聴しているわけではない。調べればわかることだ。君がその話をどこで聞いたかには、興味はないわ」
真の無遠慮な問いかけに対し、沈黙を守るかと思われた志那都は、意外にも静かに言葉を返した。
前を歩く彼女の背中は、夕闇に溶け込みそうなほど細い。
しかし、その足取りだけは決して揺らぐことがなかった。
「私の父は、ただ己の職務を全うした。それが思わぬ形で終わってしまった……それだけのことだ」
表情は読めないが、その声には湿った夜風に似た、微かな寂寥感が混じっている。
「知っているかはわからないが、私の家は代々、法の守護者を輩出してきた家系でね。家計図を遡れば、江戸時代には同心を務めていたという記録もある。そのため、犯罪者を取り締まるための固有武術、『角馬捕縛術』という技術も連綿と受け継がれてきた」
そこには、一族が紡いできた歴史に対する確かな敬意と、それを引き継いだ者としての誇りがあった。
だが、彼女はふっと息を吐き、自嘲気味に口角を上げた。
「……だが、私はこのような性格だ。家庭を持つことなど、到底想像もつかない。この技も、おそらく私の代で終わらせることになるだろう。それだけが、父に……祖先に申し訳ないと思う」
完璧な規律を体現する彼女が見せた、あまりにも人間らしい「綻び」。
それは彼女が、自分自身を「家系という名の歯車」としてしか定義できていない悲劇の証左でもあった。
「『……うん、その、何て言うか、ポニテちゃん。……重いわよ、話が……』」
普段は賑やかしなまどかさえ、その告白の重みに言葉を詰まらせる。
真はそんな彼女の心中を「論理的には理解」しつつも、慰めという非効率な行為にリソースを割くことはしなかった。
ただ、彼女の歩調に合わせて黙々と歩き続ける。
だが、その重苦しい沈黙を、無遠慮に切り裂く声が響いた。
「――ひ、引ったくりよー! 誰か、捕まえて!」
静かな夜へと移り変わろうとしていた商店街に響き渡る悲鳴。
同時に、人混みの向こうから一人の男が、必死の形相でこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
その瞬間、獅子井の纏う空気が一変した。
寂寥も、自嘲も、瞬時に消失する。
「……規律を───」
彼女の瞳に、極寒の氷のような光が宿る。
彼女は胸ポケットから一本の金属製ボールペンを抜き取ると、迷いなくその男の進路上へと踏み出していた。
──だから彼女は気付いていなかった。
横道から現れた小さな人影に。




