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No.120 共鳴する教典、あるいは模範という名の圧迫




 No.120 共鳴する教典、あるいは模範という名の圧迫




 「頼む、まこと!  お前の脳みそを数パーセントでいいから俺に分けてくれ!  このままだと空因寺で和尚と氷結の処刑人(アイス・メイデン)に挟まれて、俺の精神が今度こそ物理的に解脱しちまう!」


 ホームルーム終了後の教室、宇賀が真の机に膝から崩れ落ち、拝むようなポーズで縋り付いてきた。


 その顔はまさに、数時間前に黒馬教員が投げつけた「追加範囲」という爆弾によって灰になった廃人のそれだった。


 「『あら、コタロー。解脱する前にまずはその散らかった机を整理したら?  煩悩が物理的なゴミになって溢れてるわよ』」


 宙を漂うまどかが、宇賀の白紙に近いノートを見下ろして呆れたように笑う。


 真はそんな宇賀に対し、現在の理解度から推測するに全教科の赤点回避率は0.4%を下回るという事実と、脳の分割共有は不可能だが論理的な解法を教授することなら可能であることを淡々と告げた。


 「あはは、宇賀くん必死だね。……でも、実は私もお願いしたかったんだ。真くんなら、教え方も効率的な気がして」


 そこに、帰り支度をしていた兎束も加わった。


 普段の快活な彼女にしては珍しく、少しだけ眉を下げた苦笑いを浮かべている。


 赤点は回避できるだろうが、点数が低いとポイントが減ること、そして何より運動部にとって赤点は活動自粛に直結するという死活問題を彼女は吐露した。


 真は二人の要望を天秤にかけ、自身の復習効率との相関を計算した上でこれを承諾し、嘆きによるノイズが大きすぎるこの教室から場所を移動しようと二人に促した。


 三人は勉強場所を求めて学院内を歩き出したが、そこには異様な光景が広がっていた。


 図書室は居眠りをする生徒一人おらず、ページをめくる音と鉛筆が紙を削る音だけが軍隊の行進曲のように規則正しく響いている。


 情報室も、レストランのテラスも同様だった。


 普段は談笑に耽る生徒たちが、一様に教科書を「教典」のように見つめ、取り憑かれたようにペンを動かしている。


 (……全生徒の行動が『学習』という単一の目的に収束している。試験による強制力が、学院の酸素濃度を書き換えているかのようだ)


 ようやく見つけたのは、校舎の隅にある、普段は誰も使わないようなデッドスペースにおかれた休憩場所だった。


 三人が席につき、真が効率的な暗記法についての解説を始めようとしたその時だった。


 「あら、先客がいらしたのね」


 鈴を転がすような、それでいて一切の隙がない声。


 振り返ると、そこには九尾ヶ坂と、彼女を崇拝するように囲む数人の女子生徒たちが立っていた。


 昨日のスーパーでの「戦友」の登場に、美人に弱い宇賀が鼻の下を伸ばしながらも緊張で居住まいを正す。


 九尾ヶ坂は完璧な聖母の微笑みを絶やさず、どこも熱心な生徒たちで一杯なので、友人たちに勉強を教えるためにこの場所を共有させてほしいと申し出た。


 真は特に拒む理由もないことを伝え、彼女たちを同じテーブルへと招き入れた。そこからは、真にとって奇妙な観測の時間となった。


 「ここはね、公式を当てはめるんじゃなくて、なぜその形になるのかを『感じる』のが近道なのよ。ほら、このグラフの曲線、とても綺麗でしょう?」


 九尾ヶ坂の教え方は、真の論理的な解説とは対極にある情緒的で模範的なものだった。


 しかし、彼女が女子生徒たちのノートに書き込む数式や図形、その一切の迷いがない筆致を観察していた真は、それが自分の計算した最適解と寸分違わず一致していることに気づく。


 (……違和感。彼女は知識を楽しんでいるのではない。完璧な模範解答を出すという『役目』を、心拍を刻むように淡々と、異常な精度でこなしているだけだ)


 「『ねえ、まこと。見てなさいよ。あの子、笑ってるけど目は一文字も笑ってないわよ。まるで、勉強会っていう舞台の中で一番美しいポーズを決めてる役者みたい』」


 まどかの囁きは、真の分析とも重なる。


 九尾ヶ坂の周囲だけ、空気が不自然に澄み渡り、同時に逃げ場のない圧迫感を生んでいる。


 「……ほへぇぇ……」


 「……うわぁ……字がめちゃくちゃキレイ……うっ、あたしのはミミズが這いつくばったような字……」


 宇賀は九尾ヶ坂の美しさに当てられ、兎束はその完璧なノート術に圧倒され、ペンを握る手が止まっていた。


 真はそんな二人に対し、他者のペースに乱されるのは非効率であると指摘し、今やるべき課題に集中するよう冷淡に、しかし的確に指示を出した。


 「お、おう。わかってる」


 「そうね。しっかりやっておかないと後悔しそうだし」


 静寂の中、カリカリという鉛筆の音だけが、規律の足音のようにラウンジに響き続けた。




 「本日は席を共有させていただき、ありがとうございました。それではお先に失礼させていただきます。皆さん、参りましょう」


 九尾ヶ坂は、磁器のように滑らかな動作で優雅に頭を下げた。


 背後の取り巻きの女子生徒たちも、まるで鏡合わせの影のように一糸乱れぬ所作で頭を下げ、九尾ヶ坂の後に続いて去っていく。


 彼女たちがデッドスペースの出口に消えるまで、そこには微かに百合の香りに似た「完璧な空間」の残滓が漂っていた。


 「……ここ、女子校だったっけ?」


 魂の半分が口から出かかっているような呆けた顔で、宇賀が呟いた。


 「共学よ。自分の性別を忘れないでよ。……まあ、気持ちはわかるけど」


 兎束もまた、自分の書きかけのノートと、九尾ヶ坂が去り際に友人たちのノートに書き残した流麗な数式を見比べ、深いため息をついた。


 「『あのゆるふわちゃんの周りだけ、ユリの花が咲き乱れてたわね。背中にユリの花束しょってんのかい! ってやつね』」


 まどかの冗談めかした指摘に対し、真は無機質な視線で九尾ヶ坂が座っていた椅子を見つめていた。


 (……九尾ヶ坂。彼女は一見すれば情緒的な振る舞いだが、その実、一挙手一投足が観測者の心理を掌握するために計算し尽くされている。他者の視線をハックし、理想像を投影させる――それは彼女にとっての、生存プロトコルなのだろう)


 真はそれが「本物」か「偽物」かという議論を切り捨てた。


 彼にとって重要なのは、彼女が異常な精度で『九尾ヶ坂』という人間像を維持し続けていたという、その演算能力の高さだけだった。


 今回の勉強会はこれで仕舞いとなり、一行は定期テストの前日まで、放課後のデッドスペースに集まることを申し合わせた。


 そして――。


 嵐のような定期テスト期間が過ぎ去り、廊下の電光掲示板や各生徒の携帯端末に順位表の発表の時刻が迫ると、生徒たちの阿鼻叫喚と感嘆の声が入り混じる日がやってきた。


 それぞれのテストの結果はどうなったかと言えば――。


 順位表の最上位、不動の筆頭には「繭住 真」の名が刻まれている。


 そして、そのすぐ下。


 一桁順位の圏内には、獅子井志那都、九尾ヶ坂麗、といった見知った名が、一文字の乱れもなく整然と並んでいた。


 兎束は宣言通り活動自粛を免れる安全圏を確保し、宇賀にいたっては、真の教えた「最小限の努力で最大限の生存率を確保する」という解答戦術が功を奏したのか、首の皮一枚繋がった状態で赤点を回避していた。


 「……生き、た。俺、まだ生きてていいんだよな……?」


 「『そうよコタロー。あなたは生き残ったわ。まあボクとしてはコタローが赤点を取って解脱のためにお寺へ行くのも悪くないと思ったけど』」


 まどかがせっかくの喜びに水を差すような発言をするが、幸い宇賀にはその言葉が届くことはなかった。


 涙を流して喜ぶ宇賀を冷淡に見つめながら、真の思考に走る微かなノイズを感知していた。


 テストが終わったことで、学院内の緊張は解けるはずだった。


 だが、真の思考ログには、試験前よりもさらに濃密に、そして「規律正しく」歪み始めた世界の座標が、不気味に赤く点滅しており、その右目は、加速する異変を静かに捉え始めていた。









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