No.121 揮発する日常、あるいは危険な学習
No.121 揮発する日常、あるいは危険な学習
「ヒッヒッヒッ……ようこそ、私の化学実験室へ。今宵の被検ta……実験体は――」
「『言葉を変えても意味合いは変わってないから』」
まどかの至極真っ当なツッコミは、真の思考ログにも「修正不要」として記録された。
それにしても、目の前の教卓に並べられた薬品と器具の数々、そして提示された授業内容は、一般的な高校教育の範疇を明らかに逸脱している。
(……ガソリン、灯油、重油。引火点および発火点に基づく貯蔵・取り扱いの法規。これは普通科のカリキュラムではなく、危険物取扱者乙種第4類――工業系資格の試験対策そのもの……)
教室を埋める生徒たちの間にも、「なぜこれを今、自分たちが学んでいるのか」という困惑と、得体の知れない圧迫感が広がっていた。
「黒馬先生。ガソリンとか灯油とかの扱いって、別に覚える必要なくないですか? 大体みんな知ってますし。危ないのは当たり前じゃないですか」
授業を受けていた生徒の一人が、耐えきれなくなったように声を上げた──
──その瞬間。
奇妙な笑みを浮かべていた黒馬教員が、ピタリと動きを止めた。
――ギギギ、と。
ホラー映画の怪異が獲物を探すかのような、不自然な緩急で黒馬教員が振り返る。
その瞳からマッドサイエンティストの戯画的な狂気は消え失せ、代わりに底冷えするような「鋭利な理性」が剥き出しになった。
「ほう……。では君は、それらの確実な安全管理、および有事の際の適切な処置を、パニックに陥ることなくその場で行えると?」
先ほどまでのふざけたトーンは微塵も残っていない。
そこにあるのは、真実を知る者だけが持つ、容赦のない「教育者」の威圧感だった。
反論した生徒を含め、教室内は一瞬で氷点下まで凍りついたかのような沈黙に包まれた。
真は、黒馬教員の瞳の奥で明滅する光彩をエラーログではなく「一人の人間としての観察」として見つめる。
(……豹変。情緒不安定によるものではない。特定の『地雷原』を踏まれたことによる、プロフェッショナルとしての過剰な防衛反応と推測される。この教員もまた、何らかの強烈な『正しさ』に縛られているのか……)
「『うわ、怖……。さっきの「ヒッヒッヒッ」の方が、まだ可愛げがあったわね』」
まどかが真の肩越しに、怯えたような、それでいて興味深そうな声を漏らす。
黒馬教員は教卓を指先でトントンと、メトロノームのような正確なリズムで叩きながら、黒馬教員は愚問を投げかけた生徒に対し、間髪入れずに「追撃」を開始した。
「では君に問おう。ガソリンの化学式は? 灯油を冷暗所以外で、密閉せずに保管した場合の揮発速度と引火リスクの相関は? ――答えろ」
案の定、生徒は口をパクつかせるだけで、何一つ答えることができなかった。
黒馬教員は、哀れみすら感じさせない冷ややかな視線を教室全体に投げかける。
「私は皆に、無意味な知識を授けているつもりはない。今回の定期テストで必要ではないかもしれんが、しかし、日常という『生活』において、どこかで必ず必要となる知識だと思い、皆に教えている」
黒馬教員は教卓に手をつき、身を乗り出す。
その姿は、実験室の怪人から、戦場での生き残りを説く教官のそれへと変貌していた。
「どこの誰が言ったか興味がないので忘れたが――『敵を知り己を知れば百戦危うからず』。この世はあらゆる物質で構成されている。目に見えていても見えていなくとも、それを『知らなくても良い』と済ませていれば、手痛いしっぺ返しをどこかで食らうこととなる」
今までの黒馬教員を知る生徒たちからすれば、あまりの豹変ぶりに、誰もがポカンとした表情で固まっていた。
そんな静寂の中、まどかだけは「よく言った」とばかりに深く頷いている。
「『そうよね。お父様も言っていたわ。「知識は一番重荷にならない財産だ」って。勉強はしといて損はないわよ、若人たちよ』」
自分も幽霊でなければここにいる生徒たちと同い年であるはずのまどかが、ずいぶんと上からの目線で言い放つ。
だが真は、彼女の言葉を額面通りには受け取らなかった。
(……知識は重荷にならない財産。……検索:該当する格言、なし。……推論:まどかの記憶にある『父親』がそのような教育的配慮に富んだ人物であった記録は存在しない。十中八九、直近で観賞したアニメかマンガの引用だろう)
真は冷静に分析を完了させると、再び黒馬教員の言葉に耳傾けていた。
「然るに、我々に必要なのは真実の解明であり証明なのだ! 未知を既知へと書き換え、その正しき伝達と継承を行ってこそ、化学という分野は進歩を遂げる。点数という数字に一喜一憂する前に、君たちは世界の構成式を理解すべきなのだよ。つまり! 何が言いたいかと言えば――」
黒馬教員は饒舌に熱弁を繰り広げていた。そしてなぜかその隣でまどかもいる。
「「目に見えるものだけが、全てではない』」
狂気的な熱を帯びた教員の言葉と、どこか楽しげな幽霊の少女の声が、寸分違わず重なり合う。
まどかは「話がわかるじゃない!」とばかりに、黒馬教員の隣で弾むように右手を掲げた。
「『イエーイ!』」
振り抜かれた彼女の手は、当然のように黒馬教員の肩をすり抜け、虚空を切る。
実体を持たない彼女のハイタッチは、誰に届くこともなく、ただ教室の冷たい空気をかき回しただけだったが、まどかは満足げに指を鳴らした。
そして黒馬教員の熱弁だけで今回の授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
黒馬は再び「ヒッヒッヒッ……」という怪しげな笑い声を漏らしながら、憑き物が落ちたように道具を片付け始めた。
「ヒッヒッヒッ……今回の実験ではテストの範囲とはしないつもりでしたが、皆さんの知識がいかに残念であったかを理解しました。よって、今回の実験範囲もテスト範囲とさせていただきます。ヒッヒッヒッ……。では皆さん、化学式の迷宮で、またお会いしましょう」
爆弾――すなわち、試験範囲の大幅な追加を一方的に告げ、黒馬教員は不気味な足取りで扉をくぐり、その後に続くようにまどかが「『さよなら、さよなら、さよなら』」と共に去っていく。
扉が閉まる音を合図に、教室内はダムが決壊したかのような怒号に包まれる。
「ふざけんな! ガソリンの化学式なんて聞いてねえよ!」
「追加分だけでノート何ページあると思ってんだ……!」
頭を抱え、あるいは机を叩く生徒たち。その騒乱の中、真は一人、黒馬がホワイトボードに残した複雑な分子構造を、網膜に焼き付けるように見つめていた。
(……目的はともかく、授業としてはなかなか興味深かった)
周囲の絶望とは無縁の場所で、真はわずかに口角を、本人にしかわからない程度に上げた。




