No.123 停滞の残響、あるいは暫定的な均衡
No.123 停滞の残響、あるいは暫定的な均衡
5月。
大型連休という名の「空白」が終わり、カレンダーは再び画一的な平日のサイクルを刻み始める。
真はいつも通りの時間に起床し、誤差のないルーティンを淡々とこなしていく。
一方、隣室の美弥は予想通り――あるいは計算通りと言うべきか。
嵐のように騒がしく飛び起きたかと思えば、トーストを咥えたまま慌ただしく仕事へと向かっていった。
嵐の去った後の静寂の中、真もまた学院へと足を向ける。
教室のドアを開けると、そこには珍しい光景があった。
いつもはチャイム直前に滑り込む宇賀が、既に自分の席で机に突っ伏すようにして項垂れていたのだ。
真は気に留めることなく自身の席に座り、教科書を取り出す。
すると、背後から力ない、しかし不満げな声が漏れ聞こえてきた。
「……いや、普通、聞かね? 『あの話の続きはどうなったのか?』とかよ。あるいは『俺がこんなに早く学校に来てるのはなんでだ?』とかよ。普通、聞くだろ、まこと」
「『どう見ても「聞いて欲しくてたまらない」って態度よね。まあ、ボクも昨日の今日で解決したとは思わないし、適当に相槌くらい打ってあげれば?』」
まどかが宙で足を組みながら、呆れたように宇賀を見下ろす。
真自身は、話したいことがあれば勝手に話し始めるだろうと判断していたが、まどかの推奨を受け、最小限の労力で「聞くだけ聞く」という意思を代弁した。
「冷たいんだか、人間味があるんだか……。ほんと、お前の優先順位はわかんねぇよ」
宇賀は顔を上げ、自嘲気味に笑う。
真が興味なさそうに前を向こうとすると、彼は慌てて言葉を継いだ。
「話す! 話すから聞いてくれよ。……まず、バンドメンバーと昨日集まって話だけどよ。結論から言うと『とりあえず様子見』って感じになった」
真は宇賀の話を聞きながら「様子見か」と頷き。
「ああ。汐音のあの、気まぐれな歌い方は、あいつを受け入れる時に俺ら全員が承知したことだ。他にもちまちました不満はあるが、それを言い出したら俺らだって完璧じゃねぇ。一方的にあいつに押し付けるのは、筋が違うだろうってことになったんだ」
「『まあ、そうよね。そこを許容できなきゃコタローたちのバンドは終わりだし、別のボーカルを探すしかないわ。……でも、それは「解決」じゃなくて「棚上げ」よね』」
まどかの指摘は鋭い。
宇賀は、自身の指を無意識に弄りながら言葉を続ける。
「汐音の方にも、俺たちの言い分を聞いて欲しいとは伝えたんだが……」
「『あの娘が素直に「はい」なんて言うわけないじゃない、あの様子じゃ』」
「だからせめて、ライブの時は時間通りに来てくれ、無理なら連絡をくれ。……それだけ約束させて、一応は話が終わった。文字通り、立ち止まってるだけだよ」
真の目は、宇賀の表情の裏で明滅する「不安定なグラフ」を捉えていた。
妥協という名の、脆い均衡。
それは解決へ向かう一歩ではなく、破綻を先延ばしにしているだけの、緩やかなカウントダウンのように真には映った。
真はその事を宇賀に指摘した。
すると宇賀は頭を抱えながら机に倒れ。
「言うな……わかってる。ううっ、おまえやっぱ冷たいわ。ダチが苦しんでんだから、こう共感するとか、励ますとかあるだろう」
「『共感は、部外者のまことに求めるものじゃないわよ。励ましが欲しいのは、自分の背中を押してほしいってこと。何か『案』があるならそれを話しなさいな。それを客観的な意見として、まことは述べてくれるわよ』」
まどかの言葉を代弁すると、宇賀は顔を上げた。
その瞳には、解決策を見いだせない自分への苛立ちと、それでも何かを掴もうとする足掻きが混在していた。
「……案、ってほどじゃねぇけどよ。俺、汐音のあの『歌い方』を、もっと活かせるアレンジができるんじゃねぇかって考えてる。あいつが勝手にテンポを揺らすなら、最初からそれを織り込み済みの、もっと流動的な曲構成に変えるっていうか……」
宇賀が震える指でスマホのメモを見せる。
そこには、昨夜、彼が苦悩の末に書き殴ったであろう楽譜の断片があった。
真の目が即座にそれをスキャンし、音楽理論に基づいたシミュレーションを開始する。
(……不規則な拍子変更。ジャズにおけるフリーフォーム、あるいは現代音楽に近いアプローチ。演奏者の技量に依存しすぎる。……成功確率は12%以下)
真は携帯端末の画面を見つめたまま、一切の脚色なしに、その構成が現状のメンバーのスキルセットでは「自壊」を招くリスクが高いことを告げた。
「そうかよ……。やっぱり、俺だけじゃ無理か……やっぱ師匠にも相談するしかねぇな」
「『厳しい言葉よね、まこと。でもまあ、無責任な「頑張れ」よりはマシかもね。それにコタローにはまだ頼れる人がいるみたいだし、何かあったら言ってくるでしょう。そのときはまた聞いてあげなさい』」
まどかが宙で肩をすくめ、真の頭をあやすように撫でる仕草を見せる。
当然、その感触が物理的に伝わることはないが、真は自身の思考ログに「外部介入:まどかによる精神的ケア(試行)」という一行を無機質に記録した。
そんなやり取りをしていると、真の席の隣の兎束がやってくる。
「うわっ!? 宇賀があたしより先に席に着いてる! えっ!? ちょっ、待って、あたし今日傘持ってきてないんだけど!?」
「雨なんか降らねぇよ! 作曲を夢中になってやってたら朝だったから、そのまま学院に来ただけだよ」
「あ、そうなの。あたしはてっきり天変地異の前触れかと」
「……俺が早く登校するだけで終末世界が訪れる世界ってどんな世界だよ」
そんな冗談なのか本気なのかわからない二人のやり取りの直後、予鈴のチャイムが学院の重厚な空気を震わせた。
それ似合わせるようにガラガラと音を立てて教室のドアが開き、一人の女性が入ってくる。
昨日、N-B○Xの運転席で「酒」の段ボールに囲まれていた「アケミン」の面影はそこにはない。
歴史教諭、九頭見朱巳。彼女は鉄のような無表情で教壇に立つと、出席簿を鋭い動作で開いた。
「席に着け。連休が明けたからといって、脳まで休止状態のままでいるなよ。三週間後には、お前たちとっては嫌な『義務』が始まるからな」
朱巳の声は、昨日の車中での砕けたトーンとは明らかに周波数が異なっていた。
真はその「切り替え」の鮮やかさを、一種の高度な社会適応プログラムとして認識する。




