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No.124 教壇の不在、あるいは鉄の揺り籠




 No.124 教壇の不在、あるいは鉄の揺り籠




 スモークガラスが下ろされ、運転席に座る人物の顔が露わになった。


 そこにいたのは、北王子学院の歴史教諭であり真のクラス担任、そして美弥の腐れ縁とも言える友人、九頭見朱巳だった。


 「あっ!?  アケミン――って、ちょっ、ちょっと待ってよ!?  なんで無言で閉めるの!?」


 美弥が親愛(あるいは軽薄)を込めて呼んだその愛称が、九頭見の地雷を踏み抜いたらしい。


 彼女は無表情にパワーウィンドウのスイッチを入れ、ガラスを閉めようとした。


 しかし、美弥の悲鳴に近い抗議に負けたのか、途中で動作を止めると、再びガラスを下ろして美弥を侮蔑の混じった冷めた目で見据えた。


 「妙チクリな名前を人に対して吹っ掛ける輩は、私の知り合いにはいない。……繭住、お前だけは私の車に乗れ。その荷物では帰宅するのも困難だろう」


「ごめんなさい! 謝るから私も乗せて朱巳~!」


 必死に泣きつく美弥の姿を眺めながら、まどかが所在なげに宙を舞う。


「『美弥ちゃんのヒエラルキーって、このメンバーだと最下層確定かしらね?』」


 まどかの呟きを聞き流しながら、真は自動で開いたスライドドアから車内へと踏み込んだ。


 大量の荷物を積み込もうとした真の視界に入ってきたのは、既に後部座席の一部を占拠している複数の段ボール箱だった。


 その側面には、無骨な筆致で『酒』と太々と表記されている。


 「相変わらず呑むのね、朱巳は」


 「うるさい。私にとって唯一の娯楽だ」


 美弥の指摘を、朱巳はバッサリと切り捨てた。


 だが、その横顔には僅かながら「教師としての立場」と「私生活の嗜好」の乖離に対する気恥ずかしさが見え隠れしていた。


 「『でも、これ呑み干すにしても数ヶ月はかかる量よね。え、朱巳ちゃんってかなりの呑兵衛なの?』」


 まどかの純粋な疑問を受け、真は九頭見に対し、これほどの分量を一人で消費するのにどの程度の期間を要するのかと問いかけた。


 それに答えたのは、九頭見ではなく美弥だった。


 彼女がうわばみの如く呑み干し、一週間程度で空にするのだと誇張を交えて語る。


 「そんなに早くない。……大体、一ヶ月だ」


 「『いや、それでも十分早いわよ!?』」


 まどかのツッコミが車内に響く。


 真は、自分と同じく厳格な論理的思考の持ち主であると分類していた朱巳の意外な一面を、新たなデータとして更新した。


 人は見かけによらない。その至極一般的な命題が、アルコールの芳醇な(あるいは不穏な)香りと共に、真の認識を塗り替えていった。


 夕日に染まる十王市の街並みが、N-B○Xの窓の外をゆっくりと流れていく。


 助手席に座る美弥は、身振り手振りを交えてデパートでの凄惨な――あるいは滑稽な戦況を九頭見に報告していた。


 後部座席の真は、膝の上に山積みの紙袋を抱え、沈みゆく太陽が作り出す街の陰影を静かに見つめている。


 「でね、まーちゃんがそれはもう、歴戦の主婦たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げの大立ち回りを演じてたわけよ」


「『ちぎって投げてはいないけど、確かにあれは凄かったわね。あの密集したおばさんたちの間を正確に縫っていく姿は、素人には真似できないわ。……まあ、それは「あの子」もそうだったけど』」


 まどかの言葉に、真の指先がぴくりと反応した。

 彼の脳内では、未だにあの少女の挙動がスローモーションで再生され続けている。


 重心の移動、指先のリーチ、そしてあの微笑み。


 どうすればコンマ数秒の差を埋め、完全な先手を取れるか。


 真の思考リソースの大部分は、いまだに「対・少女」のシミュレーションに割かれていた。


 「……セールに現れた、淑女のような少女?」


 美弥の話が、真と競り合っていた謎の少女に及ぶと、九頭見の眉がわずかに動いた。


 その反応を見逃さず、美弥が身を乗り出す。


 「何? 朱巳、知ってる子なの? もしかして北王子の生徒?」


 九頭見は一瞬、何かを言いかけようとして、重く口を閉ざした。


 ハンドルを握るその手には、教師としての「守秘義務」という規律が宿っているようだった。


 「なるほどね。北王子の生徒さんなんだ。……ってことは、探せば会えるかもね、まーちゃん」


 沈黙を肯定と受け取った美弥が勝手に解釈を進めると、九頭見は露骨に嫌そうな顔をして眉を潜めた。


 「人の内情を勝手に図るな。……全く、美弥、君はカウンセラーだろう。他者の個人情報に繋がることを、教職員である私がペラペラと喋れるわけがないだろう」


 「それはそうよね。ごめんなさい」


 美弥の素直な謝罪を受け、朱巳は溜息を一つ吐き出すと、独り言のように言葉を零した。


「……しかし、『九尾ヶ坂(くびがさか)』を、そう評価したか」


 「ん?  何?  朱巳から見たら違うの?」


 美弥の疑問に、九頭見はバックミラー越しに後部座席の真を一度だけ確認し、躊躇うように答えた。


 「……少なくとも私の知る限り、彼女は『極めて模範的な、優秀な生徒』だ。それ以外の評価は、今のところ私の手元にはない」


 「……ふーん。模範的で、優秀、ねぇ」


 それまで会話を見守っていたまどかが、何かに気づいたように小さく鼻を鳴らした。


 「『……いやぁ……これが「大人の会話」ってやつなの?  もう聞いてるこっちは、何かの比喩が飛び交う裏社会の人たちの密談にしか聞こえないわよ。ねえ、まこと』」


 同意を求めて振られた真だったが、彼は相変わらず脳内シミュレーションに没頭しており、車内の会話など最初からログに残していなかった。


 やがて、車は真たちの住む家の前に到着した。


 「ありがとう、朱巳。……良かったら、寄っていく?」


 「いや。友人宅とはいえ、用もないのに生徒が住む家に長居するのは何かとマズい。このまま帰るよ」


 九頭見は徹底して教師としての境界線を引いてみせた。


 美弥が「じゃあ今度外でお喋りしましょう」と告げると、彼女は短く「ああ、そうさせてもらう。……それではな、繭住」と言い残し、颯爽と軽自動車を走らせて去っていった。


 「さて、この山のような荷物(戦利品)を片付けちゃいましょうか」


 美弥の言葉に促され、真は買い込んできた物資の仕分け作業を開始した。


 大量の洗剤、トイレットペーパー、そしてあの「動物の顔の服」。


 それらを適切な場所に配置しながら、真は明日から再開される学院生活に向け、自身のシステムを「日常モード」へと再調整していくのだった。






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