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No.128 白湯の共鳴、あるいは穏やかな平熱




 No.128 白湯の共鳴、あるいは穏やかな平熱




 一通りの説明という名の『データ出力』を終えた真に対し、美弥はほんの少しだけ考える素振りを見せた。


 そして、沈殿した空気をかき混ぜるように、ゆっくりと、真の論理の核心へ届くように語りかけた。


 「汐音ちゃんっていう子は、そうしないと心が壊れてしまうから、あえて『今』しか見ないように自分を設計したのかもしれないわね。それは彼女なりの守り方なのよ。宇賀くんも同じ。彼は自分の『凡庸さ』という現実に潰されないために、必死に熱を出し続けている……。どちらも、この息苦しい世界で生き抜くための、切実な形なのよ」


 美弥の言葉は、真が『異質』や『過負荷』と断じた事象に、一つの解を与えた。


 それらはエラーではなく、この歪んだ世界に適応するための、彼らなりの生存戦略なのだと。


「まーちゃん。ログ(思考)が滞留してるのは、システムのエラー(思考放棄)じゃないわ。それはね、あなたの心が、彼らの『生』にちゃんと触れたっていう証拠よ。計算できないものに出会って戸惑うのは、あなたが機械じゃなくて、ちゃんと人間としてそこに立っていたから。その戸惑いを、無理に捨てなくていいのよ」


 真の論理的思考を否定せず、むしろその『非効率な迷い』こそを、人間としての正常な機能であると彼女は肯定した。


 右目の奥で明滅し続けていた警告灯が、その言葉に触れて、静かに光を落としていくのを感じる。


 「さ、難しい話はここまで。日付が変わる前に、温かいものでも飲みましょうか。まーちゃんのログ(思考)が整理されるまで、いくらでも付き合ってあげる。……あ、でも明日の朝、起きられなくても私のせいにしないでね?」


 美弥はそう言って、悪戯っぽく笑った。


 先ほどまで二階で「クソ運営」と叫んでいた人物と同一とは思えない、静かで深い包容力が、リビングの空気を満たしていく。


 「『……もう、最高の保護者じゃない。まこと、あんたは幸せ者ね』」


 隣で浮遊するまどかが、満足げに目を細めていた。


 真は、指先に残っていた缶コーヒーの微かな冷感を見送り、代わりにキッチンから漂い始めた湯気の気配に、意識を向けた。


 静まり返った深夜のキッチンから、ケトルの沸騰を知らせるカチリという小さな音が響いた。


 やがて戻ってきた美弥が、湯気を立ち昇らせる無地の白いマグカップを、真の前のテーブルへと静かに置いた。


 陶器の底が木製の天板と触れ、低く柔らかな音を立てる。


 「『……ちょっと美弥ちゃん。いくら料理下手だからって、流石に白湯はないんじゃないかな?  せめて、インスタントのティーバッグくらい用意するべきじゃない?』」


 真の傍らで所在なげに浮遊するまどかが、半ば呆れたような、半ば楽しげな声を上げた。


 真の記憶の中には、かつて母の手伝いと称しキッチンに立つも、美弥と同様に――あるいはそれ以上に――壊滅的な料理の腕前を披露していたはずの姉が、今や実体のない観測者として辛辣な批評(ツッコミ)を投下している。


 当然ながら、その揶揄が美弥の鼓膜に届くことはない。


 しかしそんな様子を目にすると、真の能面のような口元が、本人も気づかぬほど僅かに緩んだ。


 真は、透明な水面から立ち上る真っ白な蒸気を見つめる。


 そこには茶葉の色彩も、砂糖の甘い芳香もない。


 ただ熱というエネルギーを内包しただけの、純粋な液体。


 真はそれを、一切の躊躇なく手に取った。


 指先から伝わる熱量は、先ほどまで弄んでいたアルミ缶の冷徹な感触を、強引に、かつ優しく上書きしていく。


 ゆっくりと口をつけた。


 味覚を刺激する情報は皆無だ。


 しかし、喉を通り、食道から胃へと滑り落ちていくその熱の塊は、物理的な温度変化を超えた『未知の感覚』として全身の神経系へ伝播していった。


 それは、鮫島の歌声がもたらした破壊的な共鳴や、宇賀の言葉が刻んだ鋭いノイズとは正反対の出力だった。


 思考(ログ)に滞留していた未整理の断片、処理を待つ不快な熱、それらが白湯の温もりに溶かされ、静かに肺の奥へと沈殿していく。


 真は、自身の内面で激しく明滅していた警告灯が、穏やかな平熱へと収束していくのを、確かな手応えとともに観測していた。


 対話が終わり、リビングの明かりが落とされると、家の中は深い静寂に包まれた。


 月光がカーテンの隙間から細い矢のように差し込む寝室で、真はシーツの重みを感じながら、意識を深いスリープモードへと移行させた。


 規則正しい呼吸。僅かな眼球の動き。


 かつての幼い日のように、あるいは一人の少年としての安らぎをなぞるように、その表情はどこか穏やかで、幸せそうにすら見えた。


 「『……ふふ。いい顔して寝てるじゃない』」


 ベッドの傍らで、透き通った姿のまどかが独りごちる。


 彼女は、真自身が認識することのできない彼の『幸福』の断片を、夜の闇の中で静かに拾い集めていた。


 真の心が、美弥の差し出した白湯と同じように、今はただ透明で、穏やかな熱だけを湛えていることを、彼女は誰よりも深く理解していた。


 やがて、十王市を覆う夜のカーテンが、東の空からゆっくりと剥がれ始める。


 青白い闇を切り裂き、連休の最終日を告げる最初の光が、静かに窓を叩き始めた。
















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